憧散
自室に戻ったエリスは深呼吸をして、椅子に腰を下ろした。
(とりあえず、状況を整理しましょう……)
「サラ、紙とペンを用意してほしいの」
自分の部屋でさえ、侍女に頼まなければ何ひとつ整わない。そんな己の境遇が、どうしようもなく忌まわしい。
「かしこまりました。」
サラはそう言って、音もなく必要なものを並べてくれた。
「申し訳ないのだけど……少し部屋の外へ出てもらえるかしら?」
「承知いたしました。何かあればすぐ呼んでくださいませ」
一礼し、退室するサラの背を見届けてから、エリスはペンを握りしめた。
お父様から聞いた今日の日付――間違いなく、十年前に戻ってきている。
しかも、よりによって今日は……。
記憶が鮮やかに蘇る。
『エリス嬢……僕の婚約者になってくれないだろうか?』
黄金の髪を靡かせ、吸い込まれるような碧い瞳をこちらに向ける。
誰もが羨むその王子の笑みは、まるで絵画から抜け出たように完璧で。
「……はいっ!!よろこんで」
あの日は間違いなく、私の人生で最も幸せな瞬間だった。
憧れの殿下の隣に立てるのだと、ただそれだけで胸がいっぱいになった。
――けれど、今なら分かる。
あの笑顔は作り物。瞳の奥は、少しも笑ってなどいなかった。
(嫌、だったでしょうね……可哀想に)
王族の義務とはいえ、我儘で社交界では評判の悪かった私なんかを婚約者にされて……。
そんな婚約者がいたら、フィオナに惚れてしまったって――
(……って、いやいやいや!!だからって罪を着せてまで殺すことなくない!? どれだけわたくしのこと嫌いだったのかしら!)
思い返すほどに、胸の奥がずきりと痛む。
怒りとも哀しみともつかぬ感情が、エリスをじわじわと締め付けた。
ふと机の引き出しを開けると、革の表紙に金の箔押しがされた小さな日記帳が目に入った。
(まさか……これ、わたくしの日記!?)
恐る恐る開くと、幼い筆跡が目に飛び込んでくる。
『殿下の髪は朝日より輝いておられて』
『お声を聞くだけで眠れなくなるなんて、これが恋なのね』
「うわぁぁぁぁぁっ!!」
思わず日記を閉じ、顔を真っ赤に染め、机に突っ伏した。
(な、なにこれ……っ! わたくし、どれだけ痛々しい乙女だったの!?)
――その時。
「お嬢様? いかがなさいましたか?」
扉の向こうから、サラの心配そうな声が響く。
「な、なんでもありませんっ!!」
慌てて日記を机の引き出しに突っ込み、声を裏返しながら返事をするエリス。
しん、と静まり返った廊下からは、それ以上何も聞こえてこない。
深いため息が胸を抜け、ようやく少しだけ落ち着いた。
(し、心臓が止まるかと思ったわ……!)
…コホン。
ともかく――
セドリック・ヴィ・アルヴェイン。
彼とだけは、絶対に婚約者になってはダメ。
(……でも、どうすればいいのかしら)
仮病を使ってお帰りいただく?
けれど、そんなものいつまで持つというの。
一番最悪の状況は、わたくしの知らぬ間に勝手に話が進んでしまうこと。
なにせ、これまでのわたくしは殿下に恋い焦がれてやまなかったのだから。
その事実は、公爵家でも社交界でも――周知の事実。
お父様が良かれと思い、話を進めてしまえば……。
(それこそ地獄だわ)
分かっている。逃げて先延ばしにしても、事態はどうにもならない。
エリスは深く息を吸い込んだ。
(――腹を括るしかないわね)
そう心の中で呟き、ペン先を机に置きキュッと背筋を伸ばした。
「わたくしは…逃げませんわ!
…ええ、たぶん…おそらく…きっと…」
(だって…殺された相手に会うのは、どうしても怖いんですもの!!!)
誰に言い訳するでもなく、弱々しい声が部屋に落ちた。




