第5話(1)異世界の法廷は、通夜の広間で
異世界で初めての法廷は、魔王の通夜が行われたあの大広間で開かれた。
棺は奥の祭壇に置かれたままだった。その手前に長い机が三つ並べられ、中央の高い席に、誓文官長オルドが座っている。右の机には、聖女マリエルと王国の誓文官たち。左の机には、俺とガルムロッド。後ろの傍聴席には、ノクティアとルゥとゼファル、それに魔族の諸侯や聖騎士たちがぎっしりと詰めかけていた。
そして、中央の証言台の横に、白銀の鎖につながれたセレスが立っていた。
右手の甲の数字は『四十一』。
「では、開廷する」
オルドが杖で床を打った。
日本で、俺は法廷に立ったことがほとんどない。司法書士の仕事は、もめごとを法廷に持ちこまないことだからだ。登記を整え、書類をそろえ、話し合いで決着をつける。裁判になった時点で、ある意味では負けなのだ。
だが、今日は負けられない。
負ければ、セレスはすべてを失う。そして魔王の遺産は、王国のものになる。
◇
昨夜、俺は聖騎士団の詰め所で、一度だけセレスに面会を許された。
鉄格子の向こうで、セレスは石の床に正座していた。鎖につながれていても、背筋はまっすぐに伸びていた。
「来なくてよかったのに」
「依頼人との打ち合わせは、裁判の前日にするものです」
「私は、お前の依頼人なのか」
「受遺者です。執行者にとっては、依頼人みたいなものです」
セレスは、ふっと笑った。それから、真顔になった。
「執行者。もし私が負けそうになったら、私を見捨てていい。お前まで巻きこまれる必要はない」
「見捨てませんよ」
「なぜだ」
「書類が汚くなるからです。途中で受遺者が欠けると、協議書の書き直しが大変なんです」
「……お前というやつは」
鉄格子の向こうで、勇者は呆れたように首を振った。
でも、その肩の力が少しだけ抜けたのを、俺は見逃さなかった。
◇
詰め所からの帰り道、東の塔の下でノクティアが待っていた。
「……勇者の様子は」
「元気でしたよ。心配ですか」
「し、心配なんかしていないわ! ただ、あの女が負けたら、父上の遺言が無効になるかもしれないのでしょう。それが困るだけよ」
月明かりの下で、角の先まで赤くなっていた。この子は本当に、嘘が下手だ。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「なに」
「お父さんが亡くなった夜のことです。最後にお茶を持っていったのは、何時ごろでしたか」
ノクティアの顔から、表情が消えた。
「……疑っているの? わたくしを」
「いいえ。順番を確かめたいだけです」
彼女はしばらく俺をにらんでいたが、やがて目を伏せた。
「夜半の鐘のころよ。いつもより遅かったわ。父上が、玉座の間で書き物をしていたから」
「書き物?」
「何を書いているのかは、教えてくれなかった。でも、変なことを言っていたわ」
ノクティアは、思い出すように夜空を見上げた。
「『今夜は、会わねばならぬ者がいる』って。だから、あの部屋に黒薔薇を飾ったのですって。『あれの母親が、好きだった花だ』って」
「あれ、というのは」
「分からないわ。聞いても、笑ってごまかされた。それで、わたくしが淹れたお茶を飲んで……『今夜のは、ずいぶん苦いな』って顔をしかめて」
声が、かすかに震えた。
「それが、最後に聞いた父上の声よ」
俺は、黙ってうなずいた。
会わねばならぬ者。その母親が好きだった黒薔薇。
魔王は、誰かを待っていた。そして、その誰かは、魔王の子どもの母親を知っている人物だ。
「明日、勝ってきなさい」
ノクティアが、ぶっきらぼうに言った。
「父上の遺言を守れるのは、あなたしかいないのだから」
「善処します」
「善処じゃなくて、勝ちなさい」
そう言い捨てて、彼女は塔の階段を駆け上がっていった。
◇
「王国側、訴えを述べよ」
オルドに促され、マリエルが立ち上がった。
今日の彼女は、いつもの白い法衣に、肘までの白い手袋をはめていた。胸の前で手を組み、まるで祈りを捧げるように話しはじめる。
「王国の訴えは二つでございます」
鈴のような声が、大広間に響いた。
「第一に、魔王の遺言書の無効。宰相ガルムロッド殿の証言によれば、魔王ヴァルゼクスは黎明の鐘の前に息を引き取っています。しかし遺言書の署名は、その三刻後。死者が筆を執ることはできません。この遺言書は、何者かが魔王の名を騙って作った偽物です」
傍聴席がざわついた。
「第二に、勇者セレス・アーデライトは王命を受けて魔王城に攻め入り、魔王を討ちました。これは王国と魔王領の戦における戦果であり、魔王の遺産はすべて戦利品として王国に帰属します」
マリエルは、最後に慈しむような目でセレスを見た。
「勇者様ご本人は否定なさっていますが、勇者様が玉座の間に入られたとき、他には誰もいなかった。それは勇者様ご自身がお認めになっていることですわ」
セレスが、唇をかんだ。
よくできた訴えだ、と思った。
第一の訴えが通れば、遺言はなくなる。第二の訴えが通れば、セレスは魔王殺しとして欠格になり、遺産は戦利品になる。どちらか片方でも通れば、王国の勝ちだ。
逆に言えば、俺は両方を崩さなければならない。
「執行者、反論を」
俺は立ち上がった。
膝が少し震えていた。傍聴席の何百もの目が、背広姿の冴えない男に注がれている。
大丈夫だ。いつもと同じだ。故人の話をすればいい。
「まず、第一の訴えについて」
俺は、遺言書をオルドの前に差し出した。
「誓文官長にお尋ねします。誓文の刻印は、偽ることができますか」
「できぬ」
オルドは即答した。
「誓文の刻印は、世界律そのものが刻むもの。署名した者の真名、時刻、場所を、誤りなく記録する。それが世界律の理だ」
「では、もうひとつ。世界律は、死んだ者の署名を刻みますか」
オルドの白い眉が、わずかに動いた。
「……刻まぬ。死者の手は、世界律に何も誓えぬ」
「ありがとうございます」
俺は、傍聴席のほうへ向き直った。
「つまり、こういうことです。この遺言書には、魔王ヴァルゼクスの真名で、黎明の鐘の三刻後に署名した刻印がある。世界律は死者の署名を刻まない。ならば、黎明の鐘の三刻後、魔王はまだ生きていたことになります」
大広間が静まり返った。
「間違っているのは、遺言書ではありません。魔王が死んだとされている時刻のほうです」
「ですが、ガルムロッド殿は脈を確かめたと」
マリエルが、穏やかに口をはさんだ。
「宰相殿が嘘をついているとおっしゃるのですか?」
「いいえ。脈が止まっていたのは本当でしょう。ただ、何らかの理由で、魔王はそのあとも生きていた」
「何らかの理由、とは」
「それは、まだ分かりません」
正直に言った。マリエルの口元に、小さな笑みが浮かぶ。
だが、オルドは杖で床を打った。
「理由は、この場では問わぬ。問われているのは、遺言書が本物か否かだ」
老誓文官長は、遺言書の刻印に手をかざした。手のひらの下で、刻印が淡く光る。しばらくの沈黙のあと、オルドは重々しく言った。
「刻印に偽りなし。署名者、ヴァルゼクス本人。当法廷は、この遺言書を有効と認める」
傍聴席の魔族たちから、どよめきが起きた。ノクティアが胸の前で手を握りしめるのが見えた。
マリエルは、表情ひとつ変えなかった。
「承知いたしました。では、遺言書が本物だとして」
彼女は、白い手袋の指先をセレスに向けた。
「魔王は黎明の鐘の三刻後まで生きていた。その後に亡くなった。そして、その後に玉座の間へ入ったのは、勇者様だけ。ますます、勇者様が魔王を討ったことになりますわね」




