第4話(2)どちらに転んでも、遺産は王国のもの
その瞬間だった。
頭の中で、金色の糸がはじけた。
財産目録の、債務の欄。『担保:魔王の遺産を受け継ぐ者の魂』。あの一行が、昨夜から一番強く光っていた理由。
担保というのは、債務者が払えないときに、債権者が取り上げることのできるものだ。取り上げられないものは、担保にならない。
もし、遺産を受け継ぐ者の魂が、最初から別の誰かのものだったとしたら。
「……セレスさん」
「なんだ」
「放棄、しなくていいかもしれません」
「は?」
「放棄するのではなく、受け取るんです。ただし、全部ではなく」
限定承認。
受け継いだ財産の範囲でだけ借金を返し、それを超える分は返さないという、相続の方法だ。日本では、手続きが面倒すぎて、ほとんど使われない。俺も、実際に扱ったのは二件しかない。
だが、限定承認は放棄ではない。託されたものを捨てるのではなく、受け取る方法だ。勇者の誓いには、触れない。
そして、もし担保の魂が取り上げられないものなら、竜の千年契約はそもそも──。
「執行者? おい、どうした。顔が怖いぞ」
「……すみません。たぶん今、すごく悪い顔をしていると思います」
あの魔王は、借金取りの竜にこう言い残した。『九千億の借金は、払わなくていい』と。
ただの強がりではなかったのかもしれない。
◇
セレスを部屋で休ませたあと、俺はガルムロッドを書庫に呼び止めた。
「西棟の使節団のことを、教えてください」
昨夜、四本目の糸が吸いこまれていった白い扉。あのことは、まだセレス以外の誰にも話していない。証拠もなく「相続人が王国の使節団にいる」と言えば、それだけで戦争の火種になりかねない。
「王国の使節団は、総勢三十二名でございます」
ガルムロッドは、記憶をたどるように目を閉じた。
「聖女マリエル殿。騎士団長ハロルド殿。聖騎士が十名、司祭が六名、王国の誓文官が三名。あとは侍従と料理人と馬丁でございます」
「いつから城に?」
「陛下がお亡くなりになる、前の晩からでございます」
俺は顔を上げた。
「通夜に来たんじゃなかったんですか」
「いえ。もともとは、和平交渉の使節団でございました。三百年続いた戦を終わらせるための。陛下ご自身が、王国に使節をお招きになったのです」
初耳だった。
「交渉は、どうなったんです」
「始まる前に、陛下がお亡くなりに。あの晩、聖女殿は陛下への謁見を願い出られましたが、陛下は『明日にせよ』とお断りになりました。かわりに、和平の贈り物だけをお受け取りになりました」
「贈り物?」
「聖都の銀燭台がひと組と、聖都の茶葉でございます。たいそう珍しい、銀色の葉だとか」
銀色の葉。
昨夜、ノクティアが淹れてくれた苦いお茶。杯の底に沈んでいた、見慣れない銀色がかった茶葉。
「……その茶葉は、今どこに」
「厨房にございます。姫様が、陛下に最後にお出ししたお茶も、確かその茶葉で……」
ガルムロッドの言葉が、途中で止まった。
老宰相の片眼鏡の奥で、目がゆっくりと見開かれていく。
俺は、自分が昨夜そのお茶を飲んだことを思い出していた。苦かった。それだけだった。体に異変は何もない。
人間の俺には、何も起きなかった。
「ガルムロッドさん。この件は、まだ誰にも言わないでください。特に、ノクティアさんには」
「……承知、いたしました」
もし毒だったとしても、俺にはまだ証明する手段がない。そして、それを最後に父親へ出したのは、あの子なのだ。
◇
書庫を出たところで、騒ぎに出くわした。
中庭に、白い鎧の騎士たちが整列していた。王国の聖騎士団だ。昨日までは十人ほどだったはずなのに、今は五十人を超えている。夜のうちに、転移の術で増援を呼んだらしい。
その中央に、聖女マリエルが立っていた。隣には、騎士団長ハロルド。そして、見知らぬ老人がひとりいた。灰色の長衣を着て、胸に天秤の紋章をつけている。
「王国誓文法廷の、誓文官長オルド殿でございます」
いつのまにか隣に来ていたガルムロッドが、小声で言った。
「大陸で、最も誓文法に通じた方。国と国との争いを裁く、中立の裁定者です」
中立、という言葉に、ガルムロッドは妙な力をこめた。
中庭の反対側には、ノクティアとルゥ、それに散歩から戻ったゼファルが、魔族の兵たちとともに立っていた。にらみ合いになっている。
マリエルが、俺たちに気づいて微笑んだ。
「ちょうどよいところに。執行者様、勇者様」
鈴を転がすような声だった。
「王国は本日、誓文法廷に訴えを起こしました。魔王ヴァルゼクスの遺産の帰属について、正式な裁きを求めます」
「どういう訴えですか」
俺が聞くと、マリエルは胸の前で手を組んだまま、すらすらと言った。
「訴えは二つ。ひとつ。魔王の遺言書は、死者の手で署名された、ありえない文書です。よって無効」
聖騎士たちが、いっせいに槍の石突きで地面を打った。
「ふたつ。王国の勇者セレス・アーデライトは、王命を受けて魔王を討ち取った。これは王国と魔王領との戦争における、正式な戦果です。よって魔王の遺産は、すべて戦利品として、王国に帰属する」
ざわめきが中庭を走った。
「ふざけるな!」
吠えたのは、ゼファルだった。黒狼が牙をむき、魔族の兵たちが武器を構える。
「親父の領地を戦利品だと? 人間どもが、三百年かけても一歩も踏みこめなかった土地を、死んだとたんに横取りするつもりか!」
「父上の遺したものに、指一本触れさせないわ」
ノクティアの角のまわりで、火の粉が舞いはじめた。ルゥが怯えて、彼女のドレスにしがみつく。
聖騎士たちも、いっせいに剣を半ばまで抜いた。中庭の空気が、一瞬で張りつめる。
誓文官長オルドが、杖で石畳を一度だけ打った。乾いた音が響いた。それだけで、魔族も騎士も、ぴたりと動きを止めた。
「法廷の外で血を流した者は、その時点で訴えの資格を失う。双方、心得られよ」
しわがれた、しかしよく通る声だった。
セレスが、一歩前に出た。
「待て! 私は魔王を討っていない! 玉座の間に着いたとき、あの人はもう──」
「ええ、ええ。勇者様はお優しいから、そうおっしゃると思っていましたわ」
マリエルは、悲しそうに首を振った。
「でも、ご心配なく。王国は、勇者様の功績をきちんと認めますもの」
そして、騎士団長に目くばせした。
ハロルドが進み出て、白銀の鎖を掲げた。鎖には、聖教会の聖印がびっしりと刻まれていた。
「勇者セレス・アーデライト。王国誓文法廷の名において、魔王殺害の当事者として、あなたの身柄を預かる」
聖騎士たちが、セレスを囲んだ。
セレスは剣の柄に手をかけ、そして、止まった。王国の騎士に、勇者が剣を向けることはできない。それもきっと、誓いのうちなのだ。
白銀の鎖が、セレスの両手首に巻きついた。包帯を巻いた右手首の上に、冷たい音を立てて。
「執行者様」
マリエルが、俺に向き直った。その瞳は、少しも笑っていなかった。
「法廷は、三日後に開かれます。勇者様が魔王を殺したと認められれば、遺言の第四条により、勇者様はすべてを失う。遺言そのものが無効と認められれば、なおのこと」
聖女は、天使のように微笑んだ。
「どちらに転んでも、魔王の遺産は王国のものですわ」
鎖につながれたセレスが、俺を振り返った。
その目は、助けを求めてはいなかった。ただ、まっすぐに俺を見ていた。
──信じると言うのではないか。
さっき書庫で聞いた声が、耳の奥でよみがえった。
(第5話「国庫に帰属すべし」へ続く)




