第4話(1)勇者は、託されたものを捨てられない
「受け取らない」
朝食の席で、セレスはパンを握りしめたまま宣言した。
「私は魔王の遺産を受け取らない。城も、財宝も、借金も、呪いも、何ひとつだ。執行者、放棄の手続きを頼む」
右手の甲の数字は『四十四』になっていた。
俺はスープの匙を置いた。魔王城の朝食は意外とまともで、根菜のスープと黒パンと、なぜか目玉焼きが出た。黄身が二つある。何の卵かは聞かないことにした。
「放棄したい理由を、一応うかがってもいいですか」
「魂を取られるからに決まっているだろう!」
「ですよね」
当然の理由だった。
「それに」
セレスは目を伏せた。
「魔王を討つために旅をしてきた私が、魔王の遺産で城主になる。そんな話があってたまるか。私の村を焼いたのは、魔王軍だ」
食堂が静かになった。
同じ長卓の端で黙々とスープを飲んでいたノクティアの手が、止まった。ルゥは、ノクティアの隣で黄身が二つの目玉焼きと格闘していた。ゼファルは朝からいない。黒狼の散歩だそうだ。
俺は、言葉を選んだ。
「分かりました。放棄の書類を作りましょう」
「……いいのか?」
「依頼人が放棄を望むなら、その意思を確認して手続きをする。それが仕事です。ただし、放棄にはいくつか注意点があります」
俺は指を一本立てた。
「まず、『一切の財産を遺贈する』という書き方。これは、特定のものを渡す遺贈ではなく、財産を丸ごと、割合で渡す遺贈です。包括遺贈といいます」
「ほうかつ……」
「包括遺贈を受けた人は、相続人とほぼ同じ立場になります。財産だけでなく、借金も引き継ぐ。そのかわり、相続人と同じように、まとめて放棄することもできる。日本の法律ではそうなっています」
「なら、できるのだな」
「この世界の誓文でも同じなら、ですが」
俺はガルムロッドを見た。
老宰相は、いつものように食堂の壁際に控えていた。
「誓文による放棄は可能でございます。ただし、なお」
出た。
「放棄の誓文は、署名した者がそれまでに交わした誓文と矛盾してはなりません。矛盾があれば、世界律は古いほうの誓いを優先いたします」
「つまり?」
「勇者殿に、何か『放棄してはならない』と誓った覚えがなければ、問題ございません」
セレスは即答した。
「そんな覚えはない」
◇
放棄の誓文は、ガルムロッドの書庫で作ることになった。
魔王城の書庫は、書庫というより迷宮だった。天井まで届く書棚が何十列も並び、梯子が何本もかかっている。誓文用の羊皮紙と、真名を書くための特別なインクが用意された。
俺は机に向かい、羽根ペンを取った。
異世界でも、書類の書き方の基本は変わらない。誰が。誰の。何を。どうするのか。曖昧な言葉を使わず、解釈の余地を残さない。
『放棄の誓文
勇者セレス・アーデライトは、魔王ヴァルゼクスの遺言による包括遺贈の一切を放棄する。』
「これだけでいいのか」
「短いほうがいいんです。言葉が多いと、それだけ綻びも増えますから」
セレスは羽根ペンを受け取り、深呼吸をした。
真名で署名する。それは、この世界で一番重い行為だ。セレスは目を閉じ、しばらく何かをつぶやいてから、羊皮紙の下に名前を書きはじめた。
一画目。二画目。
三画目に入ったところで、異変が起きた。
「──っ、ぐ……!?」
セレスの右手首に、赤い光が走った。
光は、焼きごてのように皮膚に食いこみ、黒い紋様を描きはじめる。茨のような形だった。羽根ペンが、彼女の指から落ちた。
「セレスさん!」
「なん、だ、これは……!」
「違約の烙印でございます!」
ガルムロッドが叫んだ。
「勇者殿、すぐに署名をおやめください! 書き終えれば、烙印は魂まで届きます!」
俺は羊皮紙をつかみ、机から払い落とした。インクがにじみ、途中まで書かれた真名が崩れる。
それで、赤い光はようやく収まった。
セレスは手首を押さえて、床に膝をついていた。息が荒い。手首には、茨の形の黒い痣がくっきりと残っていた。
「大丈夫ですか」
「……ああ。少し、焼けただけだ」
強がりだった。額に脂汗が浮いている。
ガルムロッドが、手首の痣をのぞきこんで低くうなった。
「途中で止めたので、軽い烙印で済んでおります。ですが、確かに、より古い誓いと矛盾しておりますな。勇者殿、何かお心当たりは」
「ない、はずだ……」
そう言いかけて、セレスの顔がこわばった。
「……いや。ある」
「聞かせてください」
セレスは、背中の聖剣を見た。
「勇者に選ばれたとき、女神の神殿で、この剣を授かった。そのとき、誓わされたんだ。『我は決して背を向けず、託されたものを決して捨てぬ』と」
「託されたものを、捨てない」
俺は、その言葉をくり返した。
遺贈とは、故人が託すものだ。放棄とは、それを捨てることだ。
「……つまり、勇者は、託されたものを放棄できない」
「なんということだ……」
セレスが、床の上で頭を抱えた。
「私は、女神に誓ってしまったせいで、魔王の借金から逃げられないというのか……!」
「なお」
ガルムロッドが、やや遠慮がちに言った。
「陛下は、その誓いのことをご存じだったはずです。勇者の誓文は、魔族の間でもよく知られておりますので」
俺は、床に落ちた羊皮紙を見た。崩れた真名のインクが、まだ乾いていない。
あの男は、知っていたのだ。勇者が遺贈を放棄できないことを。
知っていて、全財産を勇者に遺贈した。
嫌がらせなのか。それとも、別の意味があるのか。
◇
手当てを終えたあと、俺とセレスは書庫の窓辺に並んで座った。
セレスの手首には、ガルムロッドが持ってきた軟膏が塗られ、白い布が巻かれている。窓の外には、北の竜骨山が見えた。山頂の黒いかたまりは、今日も丸まったままだ。
「……すまない。手間をかけさせた」
「いえ。書類を作ったのは俺です。確認が甘かった」
「お前のせいではないだろう」
「いいえ、俺のせいです。依頼人の過去の契約を確かめずに書類を作るのは、司法書士として失格です」
セレスは少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「お前、妙なところで頑固だな」
「よく言われます」
しばらく、二人で山を眺めた。
「私の村はな」
セレスが、ぽつりと話しはじめた。
「大陸の南の、小さな村だった。十年前、魔王軍の一隊に焼かれた。父も母も、弟も死んだ。私だけが、井戸の中に隠れて生き延びた」
「……」
「だから、魔王を殺すと決めた。剣を習い、女神に選ばれて、三年かけてここまで来た。途中で、たくさんの魔族を斬った」
セレスは、包帯を巻いた手首を見つめた。
「でもな。旅の途中で分かったんだ。私の村を焼いたのは、魔王の命令じゃなかった。魔王に従わない、はぐれ諸侯の軍だった。魔王はむしろ、その諸侯を討伐していた」
「それでも、ここまで来たんですね」
「来るしかなかった。私は勇者だから」
背を向けず、託されたものを捨てない。
あの誓いは、きっと彼女にとって剣より重いのだろう。
「玉座の間であの人を見たとき、私はほっとしたんだ。斬らずに済んだ、と」
セレスの声が、少しだけ震えた。
「勇者失格だろう?」
「いいえ」
俺は首を振った。
「少なくとも、あなたが魔王を殺していないことは、よく分かりました」
「……信じるのか」
「信じる、とは違います。俺は書類と証拠しか信じません。ただ、斬らずに済んでほっとする人は、毒を盛ったり、寝首をかいたりはしないと思うだけです」
セレスは、しばらく黙っていた。
それから、窓の外に視線を戻した。耳が少し赤い。
「……それを、信じると言うのではないか」
「そうかもしれません」
俺は、ふと思い出して聞いた。
「ところで、勇者の誓いには、ほかにも何か約束ごとがあるんですか」
「誓いはそれだけだ。あとは、加護だな」
「加護?」
「勇者の魂は、選ばれたときに女神へ預けられる。だから、魅了も、呪いも、死霊術も、勇者の魂には届かない。魔王軍の呪術師に何度狙われても平気だったのは、そのおかげだ」




