第5話(2)聖女は、知るはずのない香りを口にした
しまった、と思った。
第一の訴えを崩したことで、第二の訴えを強くしてしまった。魔王が長く生きていればいるほど、セレスが殺した可能性は高くなる。
マリエルは、最初からこうなることを読んでいたのだ。
「やはり勇者か!」
傍聴席から、ゼファルの怒声が飛んだ。
「親父が生きていたなら、なおさらだ! 生きている親父の首を、その女が──」
「静粛に」
オルドの杖が床を打つ。ゼファルは舌打ちをして腰を下ろしたが、その金色の目はセレスをにらみつけたままだった。魔族の傍聴人たちのあいだにも、不穏なざわめきが広がっていく。
証言台の横で、セレスがうつむいた。鎖につながれた両手を、強く握りしめている。
俺は、机の下で自分の手を握った。
焦るな。依頼人の前で、担当者が焦った顔を見せてはいけない。遺産分割の席で俺が真っ先に覚えたのは、条文でも判例でもなく、それだった。
こういうときは、相手の主張を細かく分けるのだ。マリエルの言い分は、ひとつの大きな塊に見える。だが実際には、いくつもの前提を積み重ねてできている。どこか一つを抜けば、塔は崩れる。
勇者が殺した。王命で殺した。だから戦果だ。だから王国のものだ。
──王命。
俺は、ガルムロッドに目くばせした。老宰相が、かすかにうなずいた。
◇
「第二の訴えについて」
俺は、深く息を吸った。
セレスが殺していないことを、今ここで証明する手段はない。死因も分からない。毒の茶葉の件も、まだ証拠がない。
なら、別の角度から崩すしかない。
「王国側は、勇者が王命を受けて魔王を討ったのだから、これは戦争の戦果だとおっしゃいました」
「ええ」
「ガルムロッドさん。あの晩、王国の使節団は、なぜこの城にいたんでしたっけ」
ガルムロッドが立ち上がった。この打ち合わせは、昨夜のうちに済ませてある。
「和平交渉のためでございます。陛下ご自身が、王国に使節をお招きになりました」
「そのとき、何か誓文を交わしましたか」
「はい」
老宰相は、懐から一通の羊皮紙を取り出した。
「交渉期間中の、停戦の誓文でございます。『交渉の期間中、魔王領と王国は、互いに一切の害をなさない』。署名は、魔王ヴァルゼクス陛下。そして、王国全権代理──聖女マリエル殿」
大広間が、どよめいた。
オルドが羊皮紙を受け取り、刻印を確かめる。
「……刻印に偽りなし。双方の真名による停戦誓文である」
「誓文官長にお尋ねします」
俺は続けた。
「停戦中に、王国の勇者が、王命を受けて魔王を討ったとします。その場合、どうなりますか」
「王国は停戦の誓文に違約したことになる」
オルドは淡々と答えた。
「違約の烙印は、王国の全権代理、すなわち署名者に刻まれる。また、違約によって得たものは、戦果とは認められぬ」
視線が、いっせいにマリエルへ向いた。
聖女は、微笑んだままだった。けれど、組んだ両手のうち、右の指先が、左の手首を白い手袋の上からそっと押さえたのを、俺は見た。
「──まあ」
マリエルは、困ったように首をかしげた。
「では、王国が王命で魔王を討ったというのは、私の言い間違いでしたわ。勇者様は、王命ではなく、ご自分の意思で玉座の間へ向かわれた。そういうことになりますわね」
あっさりと引いた。
王国が殺したことにすれば、停戦違約になる。だから、勇者個人の行動ということにした。そのかわり、戦利品の主張は捨てた。
切り捨てるのが、早すぎる。
「王国は、第二の訴えのうち、戦利品の主張を取り下げます」
マリエルは、なめらかに続けた。
「ですが、勇者様が魔王を殺したかどうかは、別の問題です。勇者様が個人として魔王を殺したのなら、遺言の第四条により、勇者様は欠格。遺贈は消えます」
「それを決めるのは、まだ早い」
オルドが言った。
「証拠が足りぬ。勇者が殺したとも、殺していないとも、当法廷は判断できぬ」
老誓文官長は、杖で床を打った。
「判決を言い渡す。一、魔王ヴァルゼクスの遺言書は有効。二、王国の戦利品の主張は、取り下げにより退ける。三、勇者セレス・アーデライトの欠格については、判断を保留する。勇者の身柄は、遺言執行者の監督のもとに置く」
セレスの手首から、白銀の鎖が外れて床に落ちた。
傍聴席の魔族たちが歓声を上げた。ルゥが「やったー!」と跳びはね、ノクティアに口をふさがれていた。ゼファルは腕を組んだまま、小さく鼻を鳴らした。
セレスが、俺のほうを見た。何か言おうとして、言葉にならないようだった。
俺は、小さくうなずいた。
「なお、付け加える」
オルドの声が、歓声を断ち切った。
「誓文法の定めにより、四十九日目の夜明けまでに、相続人および受遺者がすべて欠格となるか、あるいは存在しないと認められた場合、魔王の遺産は主なき財として、その地を治める国の国庫に帰属する」
大広間が、再び静まった。
「その地を治める国とは」
「魔王領を治める者がいなければ、隣接する王国となろう」
俺は、右の机を見た。
マリエルは、相変わらず天使のように微笑んでいた。
なるほど、と思った。この人は、最初から勝つつもりなどなかったのだ。遺言を無効にできなくても、戦利品が認められなくても、構わない。
四十九日目の夜明けまでに、相続人を全員、消してしまえばいいのだから。
◇
閉廷のあと、大広間を出た回廊で、俺はマリエルに呼び止められた。
「お見事でしたわ、執行者様」
彼女は、護衛のハロルドを少し離れたところに待たせて、ひとりで近づいてきた。
「異界の方が、誓文法をあれほど使いこなされるなんて。王国の誓文官たちが青ざめていましたわ」
「書類の読み方は、どこの世界でもあまり変わりませんから」
「ご謙遜を」
マリエルは、窓の外を見た。夕暮れの空に、北の竜骨山が黒く浮かんでいる。
「でも、少し悲しいですわね。魔王陛下は、本当は黎明の鐘のあとも生きていらしたなんて」
「ええ」
「誰にも看取られず、たったお一人で。あの黒薔薇の甘い香りの中で、静かに逝かれたのでしょうね。お可哀想に」
聖女は胸の前で手を組み、目を伏せた。
「……ずいぶん、詳しいんですね」
思わず口にすると、マリエルは顔を上げて、きょとんとした。
「何がでしょう?」
「いえ。お一人で逝かれた、と」
「だって、そうでしょう? 勇者様がいらしたときには、もう亡くなっていたのですもの」
マリエルは、子どもに言い聞かせるように微笑んだ。ほんの一瞬だけ、その笑顔の奥で、何かが揺れた気がした。けれど、まばたきをしたときには、もういつもの聖女の顔に戻っていた。
「それでは、ごきげんよう。四十一日後に、またお会いしましょう」
白い法衣のすそをひるがえして、マリエルは去っていった。
俺は、回廊に立ちつくしていた。
黒薔薇の甘い香り。
玉座の間に黒薔薇が飾られていたのは、あの夜だけだ。魔王が自分で運びこんだと、ガルムロッドは言った。普段は花など飾らない人だったのに、と。
あの部屋に入ったのは、魔王本人と、脈を確かめたガルムロッドと、遺体を見つけたセレス。それから、通夜の晩に現場を見に行った俺と、ガルムロッド。
俺たち以外に、黒薔薇のことを知る者はいない。少なくとも、俺は誰にも話していない。法廷でも、誰ひとり、薔薇の話などしていない。
そして、聖女マリエルは、魔王に謁見を断られている。
背筋を、冷たいものが這い上がっていった。
聖女は、玉座の間に入ったことがないはずだった。
(第6話「竜と限定承認」へ続く)




