第6話(1)古竜に、借用書を見せてもらう
九千億の借金を前にして、俺が最初にしたことは、借用書を見せてもらうことだった。
借金の相談で一番多いのは、「いくら借りているのか、本人もよく分かっていない」というパターンだ。次に多いのが、「実は払わなくていい借金まで払おうとしている」というパターン。
だから、まず契約書を読む。
相手が古竜でも、それは変わらない。
◇
「本気で言っているのか、貴様」
黒狼の背の上で、ゼファルが振り返った。
竜骨山への道は、ほとんど崖だった。普通の馬では登れない。そこで、黒狼公の狼を借りることになったのだが、狼は一頭しかいない。結果として、ゼファルが手綱を握り、その後ろに俺、さらにその後ろにセレスがしがみつく、という無理のある三人乗りになっていた。
右手の甲の数字は『三十九』。
「本気です。債権者と話さないと、借金は減りませんから」
「相手は古竜だぞ。一息で城ひとつ消し飛ばす化け物だ」
「でも、話は通じました。言葉が通じる相手となら、交渉はできます」
「お前のその妙な自信は、どこから来るのだ……」
背中のセレスが、げっそりした声で言った。狼が跳ねるたびに、彼女の鎧が俺の背中に当たって痛い。
「そもそも、なぜ俺がついてこなければならん」
ゼファルがぼやく。
「借金の話は、相続人の皆さんにも関係がありますから。勇者さんが欠格になれば、借金はあなたたちのところへ行くんですよ」
「……ちっ」
黒狼公は、それきり黙って手綱を握り直した。
ノクティアとルゥは城に残してきた。ガルムロッドには、二人から目を離さないよう頼んである。毒の茶葉のことも、黒薔薇のことも、まだ誰にも話していない。
聖女マリエルが玉座の間に入ったことがあるかもしれない。それだけで、何かを証明できるわけではない。俺が手にしているのは、まだ疑いだけだ。疑いだけで人を責めれば、相続の話し合いは二度とまとまらない。
それに。
四十九日目の夜明けまでに竜の問題を片づけなければ、誰が犯人であろうと、セレスの魂は持っていかれる。
◇
竜骨山の頂上は、平らに削られた岩の台地になっていた。
その真ん中に、古竜バハムルトが丸くなっていた。
近くで見ると、本当に山だった。鱗のひとつひとつが、魔王城の扉ほどもある。呼吸のたびに、生ぬるい風が台地を吹き抜けていった。
金色の目が、片方だけ開いた。
──来たか、異界の執行者。思ったより早かったな。
「おはようございます。遺言執行者の相馬です。本日は、債務の件でご相談に参りました」
俺は背広の襟を正して、頭を下げた。
ゼファルとセレスが、後ろで固まっているのが分かった。
──面白い男だ。命乞いではなく、相談か。
「はい。まず、契約書を拝見できますか」
──契約書?
「千年契約の誓文です。ご本人がお持ちのはずですよね。内容を確認しないと、どの借金をどれだけ返すべきか分かりませんので」
竜は、しばらく黙っていた。
それから、喉の奥で岩が転がるような音を立てた。笑っているらしい。
──よかろう。
竜の前脚の爪の先に、光の巻物が現れた。巻物は台地の上に広がり、端から端まで歩けば五十歩はありそうな長さになった。
俺は、その上にかがみこんだ。古い文字だったが、【遺言執行者】の加護のおかげか、不思議と読めた。
『千年契約
一、古竜バハムルトは、魔王家およびその領を、千年のあいだ守護する。
二、魔王家は、その対価として、毎年金貨九億枚を古竜に支払う。
三、支払いを怠った分は、債務として積み上がる。
四、債務の担保は、魔王の遺産を受け継ぐ者の魂とする。
署名 初代魔王 / 古竜バハムルト』
「……九億枚かける、千年」
なるほど、それで九千億か。
つまり、歴代の魔王は、千年間、一度も払っていなかったことになる。
「ずいぶん、気の長い取り立てですね」
──取り立てる必要がなかったのだ。余は、ほとんど眠っていたからな。
「眠っていた?」
──九百年ほど。目覚めたのは、ここ百年のことだ。
俺は、巻物の第一条を指でたどった。
『古竜バハムルトは、魔王家およびその領を、千年のあいだ守護する』。
金色の糸が、その一文の上で、ちかちかと光っていた。
「バハムルトさん。この三百年、人間の王国と魔王領は戦争をしていましたよね」
──していたな。
「その間、あなたは魔王領を守護しましたか」
竜の金色の目が、ほんの少しだけ細くなった。
──……しておらぬ。
「九百年眠っていて、起きてからの百年も、戦争には手を出さなかった」
──人間と魔族の小競り合いなど、余の知ったことではない。
「分かりました」
俺は立ち上がった。
「この契約は、双務契約です。あなたが守護をする。そのかわりに、魔王家がお金を払う。お互いがお互いに義務を負っている。そして、片方が義務を果たさなかったなら、もう片方の義務も発生しません」
頭の中で、日本の民法の条文がいくつも並んでいく。同時履行の抗弁。債務不履行。対価の危険負担。異世界でそのまま通じるかは分からない。けれど、世界律が「契約の理」なら、根っこの考え方は同じはずだ。
「守護されていない年の分は、払う理由がありません。つまり、九千億の債務は、ほとんど存在しないことになります」
台地の上を、ぬるい風が吹き抜けた。
ゼファルが、口をぽかんと開けていた。セレスは、俺の背広の袖をぎゅっとつかんでいた。
──……屁理屈だな。
「理屈です。屁はついていません」
──だが、面白い。
竜は、ゆっくりと首をもたげた。
──しかしな、執行者。それでもまだ、余が起きていた百年がある。たとえ守護していなくとも、余がこの地にいたというだけで、人間どもは魔王領に大軍を送れなかった。それも守護ではないと言うか?
鋭い。
さすがに、千年生きているだけのことはある。
「……それは、認めます」
俺は素直にうなずいた。
「あなたがここにいたことで、魔王領が守られた面はあるでしょう。仮に、その分を百年分の守護と認めるとして、九百億枚。ちなみに、魔王の遺産のプラスの財産は、金貨にしておよそ八千万枚です」
──まだ足りぬな。
「ええ。ですから、次の手です。セレスさん」
「な、なんだ」
「前に出てください」
セレスが、おそるおそる俺の横に並んだ。竜の巨大な目が、彼女を映す。




