第6話(2)九千億の借金が消えた日
「契約の第四条。『債務の担保は、魔王の遺産を受け継ぐ者の魂とする』」
俺は巻物の文字を読み上げた。
「遺言により、遺産を受け継ぐのは、この勇者セレス・アーデライトです。バハムルトさん、彼女の魂を取ることはできますか」
──試してみよう。
「ちょっ……!?」
セレスが叫ぶより早く、竜の前脚が動いた。
巨大な爪の先から、黒い光の鉤爪が伸びて、セレスの胸に突き刺さる──
──寸前で、はじけた。
セレスの体から、真っ白な光があふれ出した。光は、まるで盾のように彼女を包みこみ、黒い鉤爪を粉々に砕いた。台地の上に、鐘を打ち鳴らしたような澄んだ音が響きわたる。
──……ほう。
竜の目が、大きく見開かれた。
──女神の印か。
「勇者の魂は、選ばれたときに女神へ預けられています」
俺は、静かに言った。
「つまり、勇者の魂は、勇者自身のものではない。女神のものです。担保というのは、債務者の持っているものにしか設定できません。他人のものを担保にすることはできない。だから」
「だから、担保は、取れない……」
セレスが、自分の胸を押さえてつぶやいた。
「魔王は、それを知っていたんです」
俺は続けた。
「勇者が遺贈を放棄できないことも。勇者の魂が、竜に取られないことも。だから、全財産を勇者に遺贈した。この世界でたった一人、九千億の担保を取られない人に」
あの遺言書の第一条を読んだとき、広間の誰もが、魔王の悪意を疑った。宿敵に借金を押しつける、最後の嫌がらせだと。
でも、違った。
あれは、娘たちを守るための条文だったのだ。遺産をノクティアに遺せば、九千億の担保はノクティアの魂になる。ゼファルでも、ルゥでも同じだ。だから魔王は、自分の子どもたちの誰にも、財産を遺さなかった。
「……親父が」
ゼファルが、かすれた声でつぶやいた。黒狼公の顔から、いつもの不敵な笑みが消えていた。
「親父が、俺たちを、守ったというのか」
「少なくとも、条文はそう読めます」
俺は、セレスに向き直った。
「そして、最後の仕上げです。セレスさん、この誓文に署名してもらえますか」
懐から、一枚の羊皮紙を取り出した。昨夜のうちに、ガルムロッドの書庫で書いておいたものだ。
『限定承認の誓文
勇者セレス・アーデライトは、魔王ヴァルゼクスの遺言による包括遺贈を承認する。
ただし、遺贈によって得た財産の限度においてのみ、その債務を弁済する。』
「放棄ではありません。受け取るんです。託されたものを捨てるのではなく、受け取ったうえで、受け取った分の範囲でだけ責任を持つ」
セレスは、羊皮紙をじっと見つめた。
前回、放棄の誓文に署名しようとしたとき、彼女の手首には違約の烙印が焼きついた。包帯は、まだ取れていない。
「……もし、また烙印が出たら」
「すぐに止めます。でも、たぶん出ません」
「なぜ分かる」
「あなたの誓いは『託されたものを捨てない』です。これは、捨てる書類ではありませんから」
セレスは、俺の顔を見た。
それから、小さくうなずいて、羽根ペンを取った。
一画目。二画目。三画目。
四画目を書き終えても、赤い光は走らなかった。
最後の一画を書き終えたとき、羊皮紙が金色に輝き、世界律の刻印が浮かび上がった。署名者、セレス・アーデライト。時刻、場所。そのすべてが、何の抵抗もなく刻まれた。
セレスの手首の包帯の下から、ふっと黒い痣が薄れていくのが見えた。
「……出ない」
「出ませんでしたね」
「本当に、出なかった……!」
セレスの顔が、くしゃりとゆがんだ。泣きそうなのか笑いそうなのか、自分でも分からないという顔だった。
──見事だ。
竜が、地響きのような声で言った。
──余は、担保の魂を取れぬ。守護を果たさなかった年の対価も取れぬ。残る債務は、遺産の限度まで。ずいぶんと値切られたものだ。
「それでも、八千万枚はお支払いすることになります。遺産は、ほぼなくなってしまいますが」
俺は、少し考えてから言った。
「ただ、その前に、ひとつ提案させてください」
──言ってみよ。
「この契約を、解除しませんか」
竜の目が、まっすぐ俺を見下ろした。
「千年契約は、魔王家を縛っていました。でも、同時にあなたのことも縛っていた。守護の義務がある限り、あなたはこの地を離れられない。九百年眠っていたのも、ここから動けなかったからではありませんか」
沈黙が落ちた。
長い、長い沈黙だった。
──……ヴァルゼクスも、同じことを言った。
竜の声から、からかうような響きが消えていた。
──一月前、あやつはここへ来た。病みやつれた顔でな。そして言ったのだ。「いずれ、異界の男が来る。そいつと話せ。お前が本当に欲しいものを、そいつなら分かる」と。
「本当に欲しいもの」
──海を、見たいのだ。
山のような竜が、ぽつりとそう言った。
──この山からは、海が見えぬ。千年、一度も見ておらぬ。
俺は、懐からもう一枚の羊皮紙を取り出した。これも、念のために書いておいたものだった。
「合意解除の誓文です。双方の債務を、すべて消滅させます。あなたはもう魔王家を守らなくていい。魔王家も、あなたに一枚も払わなくていい」
セレスとゼファルが、ぎょっとした顔で俺を見た。
「お前、最初からこれを……!」
「借金の交渉では、落としどころを二つ用意していくのが基本です」
竜は、巻物を見下ろし、それから空を見上げた。
そして、前脚の爪の先で、羊皮紙に真名を刻んだ。
続いて俺が、遺言執行者として、遺産に属する契約の解除に署名する。紋章が光り、世界律の刻印が浮かんだ。
千年続いた契約が、音もなくほどけていった。
九千億の借金は、こうして消えた。
ついでに、と言うべきか。
俺の目の前に、財産目録の巻物がひとりでに開いた。【債務】の欄が、すうっと空白になっていく。そして、その下の【呪詛】の欄の数字も、みるみる減りはじめた。
百八。七十。三十。五。
「呪いまで、消えていく……?」
セレスが目を丸くした。
──その大半は、余がかけたものだ。
竜が、少しばつが悪そうに言った。
──支払いが滞るたびに、督促のかわりに一つずつ呪いをかけた。「毎朝小指をぶつける呪い」などは、なかなかの傑作だったと思うが。
「督促状のかわりに呪いを送らないでください」
まったく、異世界の債権回収は乱暴だ。
数字は、やがて『一』で止まった。
残った一行を見て、セレスが固まった。
『「勇者に恋をする呪い」──継承者:未定』
「な、なぜそれだけが残るのだ!?」
──それは余ではない。ヴァルゼクスが、己でかけた呪いだ。
竜は、どこか懐かしむように目を細めた。
──あやつは昔、一人の勇者に惚れた。そのときに、自分で書き足したのだ。「この想いが、呪いと呼ばれようとも構わぬ」とな。まったく、酔狂な男よ。
魔王が、勇者に惚れた。
俺は、玉座の間の黒薔薇を思い出していた。『あれの母親が、好きだった花だ』。ノクティアから聞いた、魔王の言葉。
「……その勇者は、どうなったんですか」
──さあな。人の子は、すぐにいなくなる。
竜はそれ以上、何も言わなかった。
「お、おい執行者。継承者が未定というのは、どういう意味だ。まさか、私に……」
「それは、遺産分割の協議で決めましょう」
「決めるな!!」
セレスの悲鳴が、山頂にこだました。ゼファルが、こらえきれずに吹き出した。黒狼公が笑うのを、俺は初めて見た。
◇
別れ際、竜は翼を広げた。
台地の上に、暴風が吹き荒れる。ゼファルが黒狼にしがみつき、セレスが俺の腕をつかんで飛ばされないよう踏んばった。
──礼をせねばならぬな、執行者。
「お気遣いなく。仕事ですので」
──いや。これは、伝えておくべきことだ。
竜の金色の瞳が、急に冷たく光った。
──ヴァルゼクスが死んだ夜、あやつから念話が届いた。夜明けのあとだ。
俺は、息をのんだ。
夜明けのあと。黎明の鐘の後。魔王が死んだとされている時刻の、さらに後だ。
──あやつは言った。「毒を盛られた。心臓がひとつ止まった。だが、まだ死ねぬ。書かねばならぬものがある」と。
「……誰に毒を盛られたのか、言っていましたか」
──名は言わなかった。だが、最後にこう言った。
竜は、そこで一度、言葉を切った。
山の上の風が、ぴたりと止んだ。
──「あの子を、責めないでやってくれ」と。
ゼファルの顔が、こわばった。セレスが、俺の腕をつかむ手に力をこめた。
あの子。
魔王が「あの子」と呼ぶ相手は、限られている。
──執行者よ。ヴァルゼクスは、自分を殺す者が誰か、知っていた。
──それは、あやつ自身の子だ。
竜は大きく羽ばたき、南の空へと飛び去っていった。千年ぶりに、海を見るために。
残された山頂で、俺たちは誰も、口をきけなかった。
(第7話「遺留分」へ続く)




