第7話(1)毒は、和平の贈り物だった
「お前の茶だな、小娘」
城に戻るなり、ゼファルはそう言った。
止める暇もなかった。東の塔の談話室で、ノクティアはルゥに文字を教えていた。机の上には、ルゥが母親からもらったあの古い手紙が広げてあった。
二人が、きょとんとした顔で振り向いた。
「……何の話」
「親父は毒を盛られた。竜がそう言った。毒を盛ったのは親父の子だ、ともな」
黒狼公の金色の目が、ノクティアを射抜いた。
「親父が最後に口にしたのは、お前が淹れた茶だそうだな」
談話室の空気が凍りついた。
右手の甲の数字は『三十四』。
「ゼファルさん」
俺は、二人のあいだに割って入った。
「その話は、まだ証拠がありません」
「証拠なら十分だろう! 毎晩茶を運んでいたのはこいつだ。親父の一番そばにいたのもこいつだ。それに、遺言で何ももらえなかった。動機もある」
「動機……?」
ノクティアの声が、かすれた。
「わたくしが、父上を……殺したと、言うの?」
「違うと言えるのか」
「違うに決まっているでしょう!!」
炎が、天井まで噴き上がった。机の上の手紙が、熱風にあおられて舞い上がる。ルゥが悲鳴を上げて、手紙を両手でつかまえた。
ぱん、と俺は手を叩いた。
紋章は光らなかった。それでも、二人は口を閉じた。
「疑いがあるなら、確かめればいいんです。セレスさん、お願いできますか」
◇
厨房の棚の奥に、その茶葉の缶はあった。
白磁に金の縁取りがされた、美しい缶だった。蓋には、聖教会の聖印が浮き彫りにされている。中には、銀色がかった細い葉が、まだ半分ほど残っていた。
セレスが、缶の上に手をかざした。
背中の聖剣が、かすかに震えて、鈴のような音を鳴らした。
「……聖水だ」
セレスの顔が青ざめていた。
「茶葉に、聖水が染みこませてある。それも、ものすごく濃い。聖都の大聖堂の、一番奥の泉でしか汲めない聖水だ。人間には何の害もない。けれど、魔族が飲めば……」
「体の中から、焼かれる」
ガルムロッドが、低い声でつぶやいた。
「外傷は残りませぬ。陛下のお体に、傷ひとつなかったのも……」
厨房が静まり返った。
俺は、通夜の晩に飲んだあの苦いお茶の味を思い出していた。人間の俺には、何も起きなかった。苦かっただけだ。
「この茶葉は、王国の使節団からの和平の贈り物でしたね」
「左様でございます」
「つまり、毒は、王国から届いたものだった」
俺は、ゼファルを見た。黒狼公は、口を開きかけて、閉じた。
「ノクティアさんは、それを知らずにお茶を淹れただけです。毒を盛ったのは、彼女じゃない」
だが、それで終わりにはならなかった。
ノクティアが、厨房の入り口に立っていた。いつからそこにいたのか分からない。ルゥが、彼女のドレスのすそを心配そうにつかんでいる。
「……わたくしが、淹れたのね」
ノクティアの顔は、真っ白だった。
「知らなかったとしても。わたくしが淹れたお茶で、父上は死んだのね」
「ノクティアさん」
「父上は、『今夜のは、ずいぶん苦いな』って言ったの」
声が、ひび割れていた。
「わたくし、新しい茶葉だから少し苦いのよって、笑って言ったわ。そうしたら父上、顔をしかめて、それでも全部飲んでくれた。最後の一滴まで。わたくしが淹れたから」
彼女の膝が、がくりと折れた。
ルゥが「おねえちゃん!」と叫んで抱きついた。ノクティアは、床に座りこんだまま、小さな妹の肩に顔をうずめた。
声をあげずに、泣いていた。
俺は、何も言えなかった。ゼファルも、セレスも、ガルムロッドも、誰ひとり。
厨房のかまどの火だけが、ぱちぱちと音を立てていた。
◇
ノクティアをルゥに任せて、俺たちは書庫に集まった。
俺、セレス、ガルムロッド、そしてゼファル。机の上には、聖印つきの茶葉の缶が置かれている。
「人間どもの仕業だ」
ゼファルが、拳で机を叩いた。
「和平の贈り物に毒を仕込むとは。これは宣戦布告だ。今すぐ西棟の連中を一人残らず──」
「竜の言葉を思い出してください」
俺は言った。
「『ヴァルゼクスは、自分を殺す者が誰か知っていた。それは、あやつ自身の子だ』」
「だから、小娘でないなら……」
ゼファルは言いかけて、止まった。
「……俺を疑っているのか」
「いいえ。あの晩、あなたは北の城にいた。血統の書で呼び出すまで、この城には一歩も入っていません」
「当たり前だ」
「ルゥさんも同じです。辺境の村から、八歳の子が聖都の茶葉を手に入れられるとは思えない」
セレスが、はっと顔を上げた。
「……四本目の糸か」
俺はうなずいた。
それから、三人に打ち明けた。血統の書から伸びた四本目の糸が、聖印の封印に包まれていたこと。その封印がわずかにほつれていて、細い金色の線が西棟の白い扉へ続いていたこと。
「封じられた四人目の相続人は、王国の使節団の中にいます。毒の茶葉を贈ったのも、王国の使節団です。そして竜は、毒を盛ったのは魔王自身の子だと言った」
書庫が、静まり返った。
「人間の中に……親父の子が、いるというのか」
ゼファルが、信じられないという顔でつぶやいた。
「魔族の角も持たずに?」
「角は、封印で隠せるのかもしれません。血の糸を隠せるくらいですから」
ガルムロッドが、片眼鏡を外して目頭を押さえた。
「なお……陛下は、お若いころ、人間の女性と深く心を通わせたことがあったと、聞き及んでおります。詳しいことは、わたくしも存じませぬが」
勇者に恋をする呪い。竜の言葉が、頭の中によみがえった。あやつは昔、一人の勇者に惚れた。
「三十二人の誰かです」
俺は言った。
「でも、まだ誰かは分からない。分からないうちに西棟へ踏みこめば、それこそ戦争になります。停戦の誓文もまだ生きている。こちらから手を出せば、違約するのは魔王領のほうです」
「……ちっ」
ゼファルは、乱暴に椅子に座りこんだ。
しばらく黙っていたが、やがて、ぼそりと言った。
「親父は、俺たちを守った。そう言ったな、執行者」
「条文は、そう読めます」
「なら、なぜ俺には一度も会いに来なかった」
黒狼公の金色の目が、窓の外の夜を見ていた。
「ルゥには手紙を書いた。小娘とは毎晩、茶を飲んでいた。俺には、何もなかった」
俺は、財産目録の写しをめくった。【契約】の欄。『黒狼公ほか魔族諸侯十二家との臣従契約』。
「十二家のうち、黒狼公家だけ、契約の日付が新しいんです。ガルムロッドさんに調べてもらいました」
ゼファルが、こちらを見た。
「あなたが黒狼公の座についた、その年です。お父さんは、あなたが自分の力でのし上がったことを、ちゃんと知っていた。そして、真っ先に臣従契約を結び直した。北の辺境を、あなたの領地として正式に認めるために」
「……」
「会いには行かなかった。でも、見てはいたんだと思います」
ゼファルは何も言わず、顔をそむけた。
窓ガラスに映った黒狼公の横顔は、ほんの少しだけ、ノクティアに似ていた。




