第7話(2)父上が遺した『名』の意味
その夜、ノクティアは東の塔の屋上にいた。
ガルムロッドに居場所を聞いて、俺は階段を上った。石の手すりの向こうに、魔王領の夜景が広がっている。遠くの村々の灯りが、星のように散らばっていた。
「……来ないで」
背を向けたまま、ノクティアが言った。
「わたくしは、もう何もいらない。遺産も、名前も、何も。父上を殺した娘が、父上の何を受け取るというの」
「遺留分の話をしに来ました」
「いりゅうぶん……?」
ノクティアが、思わず振り返った。目が赤く腫れていた。
「なんで今、そんな話をするのよ」
「仕事なので」
「……あなたって、本当に最低ね」
「よく言われます」
俺は、手すりにもたれた。
「日本の法律には、遺留分というものがあります。遺言で全財産を他人に遺すと書かれていても、故人の子どもには、最低限これだけは受け取れるという取り分がある。それが遺留分です」
「この世界にも、そんなものがあるの?」
「あるかどうか、ずっと考えていました。でも、たぶん関係ありません」
「……どういうこと」
「お父さんは、遺留分なんかよりずっと大きなものを、あなたに遺しているからです」
俺は、懐から遺言書の写しを取り出した。ガルムロッドの書庫で、何度も読み返したものだ。
月明かりの下で、第二条の文字が、ほのかに金色に光っていた。
『第二条 余の娘ノクティアには、余の名を遺す。』
「通夜の晩から、ずっとこの一文が光って見えていました。俺の加護は、条文の綻びや、解釈の余地を、金色の糸として見せてくれるんです」
「……名前なんて、何の役にも立たないわ」
「第一条を思い出してください。『余の有する一切の財産を、勇者に遺贈する』。勇者に遺贈されたのは『財産』です。では、名前は財産でしょうか」
ノクティアは、眉をひそめた。
「違う、と思うけれど」
「俺も、そう思います。だから、名前は第一条には含まれない。勇者のものにはならない。そして、九千億の借金の担保にもならなかった」
俺は、遺言書の写しを裏返した。そこには、財産目録の一部を書き写しておいた。
『【契約】
魔物三十万体との主従契約
黒狼公ほか魔族諸侯十二家との臣従契約』
「この契約を、ガルムロッドさんに確かめてもらいました。魔物たちとの主従契約も、諸侯との臣従契約も、こう書いてあるそうです。『我らは、ヴァルゼクスの名に従う』」
ノクティアの目が、ゆっくりと見開かれていった。
「魔王の軍も、諸侯の忠誠も、魔王領を治める力も、すべて『ヴァルゼクスの名』に結びついている。城や財宝は勇者に渡せても、魔王であるということそのものは、名前と一緒にしか渡せないんです」
「……それは、つまり」
「お父さんは、あなたに魔王領を遺したんです。借金と一緒にじゃなく、借金を全部勇者に預けて、きれいな形で」
夜風が、ノクティアの黒髪を揺らした。
「城も、財宝も、王国が欲しがるものは全部勇者に持たせた。勇者の魂は、竜にも取れない。そして、本当に大切なもの、三十万の民と、この国の明日だけを、あなたの名前に乗せた」
それに、と俺は付け加えた。
「法廷で、誓文官長が言っていました。魔王の遺産が国庫に帰属するのは、『魔王領を治める者がいなければ』だと。名を継いだ魔王がいれば、王国は手を出せません」
ノクティアは、手すりを両手で握りしめた。
「……そんなの、ずるいわ」
震える声だった。
「全部、何も言わずに。わたくしには『名だけ』なんて書いて、嫌われたって思わせて……っ」
「遺言書は、故人が最後に書く手紙です」
俺は、通夜の晩と同じことを言った。
「最後まで読まないと、意味が分からないことがある。お父さんの手紙は、ちゃんとあなた宛てでしたよ」
ノクティアは、何も答えなかった。
ただ、手すりに額を押しつけて、肩を震わせていた。さっきの厨房とは違う泣き方だった。
俺は、少し離れたところで、夜景を見ていた。
遠くの村の灯りが、ひとつ、またひとつと消えていく。三十万の魔物と、そのもとで暮らす魔族の民。その一人ひとりが、いま、この少女の背中に乗ろうとしている。
十六歳には、重すぎる荷物だ。
でも、あの父親は、この子なら背負えると思ったのだろう。
「……ねえ、執行者」
しばらくして、ノクティアが顔を上げた。
「父上は、わたくしのお茶に毒が入っていたことに、気づいていたのかしら」
「分かりません」
「気づいていたなら、どうして飲んだの」
「……それも、分かりません。ただ」
俺は、竜の言葉を思い出していた。
あの子を、責めないでやってくれ。
「お父さんは、最後に誰かを責めないでほしいと言い残しました。それが誰のことなのか、俺はまだ分かりません。でも、少なくとも、あなたが自分を責めることを、お父さんは望んでいないと思います」
ノクティアは、唇をかんだ。
それから、ぐい、と袖で目元をぬぐった。
「……決めたわ」
「何をですか」
「父上を殺した者を、見つける。そして、父上の名前を、ちゃんと受け取る。わたくしが、次の魔王になる」
月明かりの下で、真紅の瞳に、また炎が灯っていた。
通夜の晩の、怒りの炎とは違う。もっと静かで、もっと強い火だった。
「だから、四十九日以内に、ちゃんと全部分けなさい。わたくしの名前が、宙ぶらりんのままじゃ困るのよ」
「善処します」
「善処じゃなくて」
「はい。分けます」
ノクティアは、ふん、と鼻を鳴らした。いつもの調子だった。
俺は、少しだけほっとした。
◇
塔を降りると、階段の下でルゥが待っていた。
寝間着姿で、あの古い手紙を胸に抱えている。
「おねえちゃん、だいじょうぶ?」
「大丈夫ですよ。もう泣いていません」
「よかった」
ルゥは、にこっと笑った。
「ルゥね、おねえちゃんがないてるの、はじめてみた。おねえちゃん、つよいのに」
「強い人も泣きますよ。強い人ほど、一人のときに泣くんです」
「しっこうしゃさんも?」
「俺は、仕事が終わったあとに、こっそり泣きます」
「へんなの」
ルゥはくすくす笑った。八歳の子に笑われる三十二歳。異世界に来てから、こういうことばかりだ。
「ねえ、しっこうしゃさん。おとうさんのいさん、ルゥももらえるの?」
「ルゥさんも相続人ですから、話し合いに参加する権利があります。何か、ほしいものはありますか」
ルゥは、少し考えてから言った。
「おとうさんの、すきだったもの。なんでもいいの。ひとつだけ」
俺は、思わず言葉に詰まった。
埼玉の三兄弟の次男が言った、縁側と柿の木の話を思い出した。どこの世界でも、子どもが最後に欲しがるものは同じなのかもしれない。
「……探してみましょう。一緒に」
「うん!」
それから、ルゥは手紙を俺に差し出した。
「あのね。おねえちゃんに、字をおしえてもらったの。それでね、この字、よめるようになったんだよ」
ルゥは、手紙の最後の一文字を、小さな指でなぞった。
「ヴァル。おとうさんのなまえ」
「そうですね」
「でもね、へんなの」
ルゥは首をかしげた。
「おとうさんのおなまえ、もうひとつあるの。ここ。うすくて、よめないの」
ルゥが指さしたのは、手紙の一番下の余白だった。
何も書かれていないように見えた。けれど、目をこらすと、そこにも、かすかな金色の糸が光っていた。
【遺言執行者】の加護が、何かを見せようとしている。
俺がその余白に指をかざそうとした、そのときだった。
「執行者!」
回廊の向こうから、ゼファルが駆けてきた。黒い外套が乱れ、息が上がっている。手には、一通の黒い封書を握りしめていた。
「……悪かった。小娘には、あとで詫びる」
黒狼公は、ぶっきらぼうに言った。
それから、封書を俺の目の前に突きつけた。
「だが、その前にこれを見ろ。今朝、北の俺の城に届けられたものを、家臣が今しがた狼で運んできた。差出人は分からん。だが、封蝋は間違いなく親父のものだ」
黒い革の封筒。銀色の封蝋。角の生えた髑髏の紋章。
俺を異世界に呼んだあの封筒と、まったく同じものだった。
表には、魔王の筆跡で、こう書かれていた。
──遺言書。
「親父の遺言書は、もう一通あったんだ」
(第8話「二通目の遺言書」へ続く)




