第8話(1)印鑑証明は、本人の証明ではない
遺言書が二通出てきたら、まず日付を見る。
これは、相続の世界の鉄則だ。遺言は、何度でも書き直せる。そして、新しい遺言と古い遺言の内容がぶつかったときは、新しいほうが勝つ。古い遺言のぶつかる部分は、故人が自分で取り消したものとみなされるからだ。
だから、二通目の遺言書が出てきても、慌てる必要はない。
──普通なら。
◇
二通目の遺言書は、その晩のうちには開けなかった。
封筒は、ガルムロッドの書庫の金庫にしまった。相続人がそろわない場で遺言書を開けるのは、トラブルのもとだ。日本でも、勝手に開封すれば過料を取られる。
夜更けの書庫で、俺はひとり、一通目の遺言書の写しを読み返していた。
「まだ起きていたのか」
顔を上げると、セレスが立っていた。手に、黒パンとチーズの載った皿を持っている。
「夕食を食べていないと、ガルムロッドが心配していた」
「ありがとうございます。勇者さんに給仕してもらうなんて、恐縮ですね」
「勘違いするな。お前が倒れたら、私の限定承認がどうなるか分からないからだ」
セレスは、向かいの椅子に腰を下ろした。手首の包帯は、もう取れていた。茨の痣は、ほとんど見えなくなっている。
「……なあ、執行者」
「はい」
「全部終わったら、お前はどうするんだ。元の世界に、帰るのか」
黒パンをかじりかけて、手が止まった。
考えないようにしていたことだった。
「帰れるのかどうかも、分かりません。遺言書には、俺を帰す方法なんて書いてありませんでしたから」
「帰りたいのか」
「……仕事を、途中で放ってきたんです」
俺は、埼玉の三兄弟の話をした。長男と長女が怒鳴り合い、次男が柿の木の話をして、ようやく空気がほぐれかけたところで、俺は光に包まれて消えた。
「あの家族は、たぶん、まだ話し合いの途中です。担当者が消えたせいで、またこじれているかもしれない。それが、ずっと気になっていて」
セレスは、しばらく黙って俺を見ていた。
「お前は、本当に、仕事の話しかしないのだな」
「すみません」
「謝るな。……悪い意味ではない」
セレスは、窓の外に目をやった。
「私は、魔王を討ったら、そのあとのことを何も考えていなかった。だから、少しうらやましい。帰りたい場所がある、というのは」
俺は、何と答えていいか分からなかった。
セレスは立ち上がり、扉のところで振り返った。
「全部終わるまでは、帰るなよ。執行者」
「書類が片づくまでは、帰りません」
「……そういうところだ」
何がそういうところなのかは、教えてもらえなかった。
◇
二通目の遺言書の開封は、翌日、あの大広間で行われた。
一通目のときと同じように、関係者を全員そろえた。ノクティア、ゼファル、ルゥ。受遺者のセレス。立会人として、王国の聖女マリエルと騎士団長ハロルド。そして、王国誓文法廷の誓文官長オルド。
中立の裁定者がいなければ、どちらの遺言が有効かで、また争いになる。だから、オルドには俺から頼んで来てもらった。
右手の甲の数字は『三十三』。
「では、開封します」
黒い封筒に指をかけると、銀の封蝋は音もなく割れた。
光の文字が、宙に浮かび上がる。
『遺言書
余、魔王ヴァルゼクスは、真名をもって以下を遺す。
第一条 余の有する一切の財産、および余の名を、長子ゼファルに遺す。
第二条 遺言執行者に、宰相ガルムロッドを指名する。』
短い遺言だった。
そして、署名欄には、確かに『ヴァルゼクス』の名と、世界律の刻印が淡く光っていた。
『聖都 大聖堂 ──陛下崩御の十日前、夜半』
「……俺に、全部?」
ゼファルが、呆然とつぶやいた。
ノクティアが、唇をかんで遺言書を見上げている。ルゥは、何が起きているのか分からないという顔で、ノクティアの袖をつかんでいた。
「まあ」
マリエルが、口元に白い手袋の手を当てた。
「二通の遺言書。これは困りましたわね」
「困りません」
俺は言った。
「遺言が二通ある場合、新しいほうが優先されます。こちらは崩御の十日前。一通目は崩御の当日。内容がぶつかる部分は、新しい一通目が勝ちます。古い遺言は、故人が自分で撤回したものとみなされる」
「誓文法でも同じだ」
オルドが、重々しくうなずいた。
「後の誓文が前の誓文と抵触するとき、前の誓文はその限りにおいて効力を失う」
ゼファルが、何とも言えない顔で肩を落とした。期待していたわけではない、という顔だった。それでも、ほんの少しだけ、寂しそうに見えた。
これで終わりのはずだった。
だが、俺の目は、署名欄に釘付けになっていた。
『聖都 大聖堂』。
「ガルムロッドさん。魔王が亡くなる十日前、魔王はどこにいましたか」
「この城でございます」
老宰相は即答した。
「陛下は、この半年、一度も城の外へお出になっておりません。お体が弱っておられましたので。十日前の夜半といえば、わたくしと夜更けまで、和平交渉の段取りを詰めておりました」
「わたくしも覚えているわ」
ノクティアが言った。
「その夜も、お茶を持っていったもの。父上は、ガルムロッドと地図を広げていたわ」
広間が、ざわついた。
魔王は、城にいた。だが、刻印は『聖都』と記録している。
「誓文官長にお尋ねします」
俺は、オルドに向き直った。
「刻印は偽れない。では、刻印に記された場所が、本人のいた場所と違う。これはどういうことですか」
オルドは、長い沈黙のあとで答えた。
「刻印が記録するのは、真名、時刻、場所。それに偽りはない。だが」
老誓文官長の声が、低くなった。
「刻印は、筆を執った者の顔までは記録せぬ。真名を知る者であれば、その名で誓文に署名することができる。ゆえに、真名は秘されるのだ」
大広間が、静まり返った。
なるほど、と俺は思った。
「……印鑑と同じなんですね」
「いんかん?」
「俺の国の、ハンコです。印鑑証明書がついていれば、その印鑑が本物であることは証明される。でも、それを押したのが本人かどうかまでは証明されない。印鑑を盗まれたら、誰でも押せてしまう」
つまり、この二通目の遺言書は、魔王の真名を知る誰かが、聖都の大聖堂で書いたものだ。
偽造された遺言書だった。
◇
「では」
鈴のような声が、静けさを破った。
マリエルだった。
「一通目の遺言書も、同じことが言えるのではありませんか?」
聖女は、胸の前で手を組んだまま、穏やかに言った。
「一通目は、宰相殿が魔王の死を確かめた三刻後に署名されています。法廷では、世界律は死者の署名を刻まないから、魔王はまだ生きていたのだ、という理屈で有効と認められました。けれど今、真名を知る者なら誰でも署名できると分かった」
マリエルは、悲しげに首を振った。
「ならば、一通目もまた、死んだ魔王にかわって、真名を知る誰かが書いたものかもしれない。そうではありませんか、誓文官長様」
オルドの白い眉が、深く寄った。
「……一理ある」
広間が、どよめいた。
ノクティアが顔色を変えた。ゼファルが立ち上がった。セレスが、剣の柄に手をやった。
「一通目の有効性について、当法廷は再審理を──」




