第8話(2)故人の財産に聞けばいい
「待ってください」
俺は、声を上げた。
心臓が、うるさいほど鳴っていた。一通目が無効になれば、すべてが崩れる。セレスへの遺贈も、ノクティアへの名も、竜との限定承認も、合意解除も。俺の執行者としての指名でさえ。
そして、三十三日後の夜明け、魔王領は王国のものになる。
落ち着け。
故人の話をするんだ。故人が、最後に何を遺したのか。
「一通目の遺言書は、魔王本人が、生きているうちに書いたものです。それを証明します」
「どうやって?」
マリエルが、首をかしげた。
「死んだ方の口から、聞くわけにもいきませんのに」
「聞けますよ」
俺は、棺に右手をかざした。
「故人の財産に、聞けばいいんです」
紋章が光った。
大広間の宙に、半透明の巻物が広がっていく。魔王ヴァルゼクスの財産目録。俺は指で巻物を送り、ある一行を探した。
通夜の晩、最初に目録を開いたときから、ずっと気になっていた一行。
『【その他】
魔王核(第二心臓) 一 ──停止』
「魔王には、心臓が二つありました」
俺は言った。
「ガルムロッドさんも知らなかった、二つ目の心臓です。この目録に載っているということは、これも魔王の財産の一部として、世界律に記録されている。なら、記録はもっと詳しく見られるはずです」
俺は、その一行に指をあてた。「詳しく」と念じる。
文字が、ふわりと広がった。
『魔王核(第二心臓)
所有者 ヴァルゼクス
状態 停止
停止時刻 黎明の鐘より三刻半の後
停止場所 魔王城 玉座の間』
広間の全員が、その文字を見上げていた。
「黎明の鐘の前に止まったのは、一つ目の心臓です」
俺は、ゆっくりと続けた。
「ガルムロッドさんが脈を確かめたとき、魔王は二つ目の心臓で、まだ生きていた。そして、黎明の鐘の三刻後に遺言書に署名し、その半刻後、三刻半に、二つ目の心臓が止まった。それが、本当の死亡時刻です」
「──古竜バハムルトも、それを裏付けています」
セレスが立ち上がって言った。
「魔王は夜明けのあと、竜に念話を送っていた。『毒を盛られた。心臓がひとつ止まった。だが、まだ死ねぬ。書かねばならぬものがある』と。私と黒狼公が、その場で聞いた」
「……間違いない」
ゼファルが、低い声で言った。
オルドは、財産目録の文字を長いあいだ見つめていた。
それから、杖で床を一度だけ打った。
「財産目録は、世界律の記録である。当法廷は、これを信ずる。一通目の遺言書は、魔王ヴァルゼクスが生前、自ら署名したもの。先の判断を維持する」
魔族の傍聴人たちから、どっと歓声が上がった。
ノクティアが、その場にへたりこみそうになって、ルゥに支えられた。ガルムロッドが、片眼鏡の奥で目を閉じていた。
俺は、マリエルを見た。
聖女は、微笑んでいた。けれど、白い手袋をはめた右手が、また左の手首をそっと押さえていた。
◇
「残る問題は、二通目の遺言書を誰が書いたか、です」
歓声が静まるのを待って、俺は言った。
「ガルムロッドさん。魔王の真名を知っているのは、誰ですか」
「陛下ご自身と……」
老宰相は、少しためらってから答えた。
「陛下の血を分けたお子さまでございます。魔族の血は、親の真名を覚えております。お子さまは、意識して読もうとすれば、親の書いた文字の中に、その真名を読み取ることができるのです。わたくしでさえ、存じ上げませぬ」
ルゥが、はっとした顔で、胸に抱えた手紙を見下ろした。
──おとうさんのおなまえ、もうひとつあるの。うすくて、よめないの。
あの手紙の余白に光っていた金色の糸。あれは、魔王の真名だったのだ。血を引くルゥにだけ、かすかに見えていた。
「つまり、二通目を書いたのは、魔王の子どもの誰か」
広間の視線が、三人の相続人に集まった。
「俺じゃない!」
ゼファルが叫んだ。
「俺は届けられたものを持ってきただけだ。十日前の夜半、俺は北の城で家臣どもと飲んでいた!」
「確認させてください」
俺は、ゼファルの前に立った。
「これは、遺言の執行にかかわる確認です。黒狼公ゼファル。あなたは、この二通目の遺言書を作りましたか」
右手の紋章が光った。言葉に、世界律の重みが乗るのが分かった。この問いに偽りで答えれば、違約の烙印が刻まれる。
ゼファルは、俺の目をまっすぐに見た。
「作っていない」
何も起きなかった。烙印は浮かばない。
同じ問いを、ノクティアにも、ルゥにもした。二人とも「作っていない」と答え、何も起きなかった。
「では、三人の誰でもない」
俺は、広間を見回した。
「日本の法律には、こういう決まりがあります。遺言書を偽造した者は、相続人になれない。この遺言書を書いた人物は、魔王の子でありながら、偽の遺言で相続をかき乱そうとした。それだけで、相続人の資格を失います」
そして、と俺は続けた。
「刻印の場所は聖都の大聖堂。崩御の十日前、聖都にいた魔王の子。それは、血統の書で見つかった、四人目の相続人しかいない」
ざわめきが広がった。
「ガルムロッドさん。もうひとつ。玉座の間の血の結界には、通った者の記録が残りますか」
「結界石に、残っておりますはずです。ですが、なお……あの夜、結界を通れたのは陛下のお子さまだけ。お子さま方は、皆さま別の場所におられた。ですから、わたくしは記録を確かめようとも……」
ガルムロッドの声が、途中で止まった。
老宰相は、玉座の間の方角を振り返り、それから、すまなそうに目を伏せた。
「……すぐに、お持ちいたします」
結界石は、拳ほどの大きさの黒い石だった。
ガルムロッドが手のひらに乗せると、石の表面に、赤い文字が浮かび上がった。
『通過記録
黎明の鐘より三刻と少しの後 ──封じられし血 一名』
三刻と少し。魔王が遺言書に署名したあと。そして、二つ目の心臓が止まる三刻半の、少し前。
魔王が本当に死んだとき、玉座の間には、四人目の相続人がいたのだ。
そして、竜は言った。あの子を、責めないでやってくれ、と。
◇
「ルゥさん」
俺は、小さな相続人の前に膝をついた。
「その手紙を、もう一度見せてもらえますか」
ルゥはうなずいて、古い手紙を差し出した。
俺は、余白の金色の糸ではなく、本文の続きに目をこらした。最初に読んだとき、手紙は『ヴァル』という署名で終わっていると思っていた。
けれど、その下に、もう一行あった。
インクではなく、薄い光の文字で。血を引く者と、【遺言執行者】の目にしか見えない文字で。
『追伸 リーゼのことも、いつか必ず見つけ出す。
あの子は、ルゥの姉だ。黒薔薇の好きな、勇者の娘だ。』
「……リーゼ」
俺は、その名をつぶやいた。
四人目の相続人の、真名。
広間の天井近くで、白い封印に包まれた四本目の糸が、ぴくりと震えた。
「封印は、真名で呼ばれれば解けまする」
ガルムロッドが、かすれた声で言った。
「どれほど高位の術であろうと、真名には逆らえませぬ」
「相続人の方へ」
俺は立ち上がり、糸に向かって言った。右手の紋章が、これまでで一番強く光った。
「被相続人ヴァルゼクスの相続人、リーゼさん。遺産分割協議を行いますので、ご出席ください」
白い封印が、音を立てて砕け散った。
糸がぴんと張り、まっすぐに伸びていく。
広間の外ではなかった。西棟でもなかった。
糸は、この大広間の中の、ひとりの人物の胸に、まっすぐ突き刺さっていた。
白い手袋が、ぱちんと弾けて床に落ちた。その左の手首に、黒い茨の形の、違約の烙印が刻まれていた。停戦の誓文を破った者の印だった。
白い法衣のフードがずれ落ち、金色の髪のあいだから、小さな黒い角が二本、のぞいていた。
聖女マリエルは、胸に刺さった赤い糸を見下ろして、静かに微笑んだ。
「……ずいぶん懐かしい名前で、呼んでくださるのですね」
(第9話「相続欠格」へ続く)




