第2話(2)借金取りの竜は、伝言を預かっていた
「黒薔薇は、陛下があの夜、ご自分で運び込まれたものです」
ガルムロッドが静かに言った。
「普段、玉座の間に花など飾られない方でしたのに。理由は、うかがっておりません」
まるで、誰かを迎える準備をしていたみたいだ。
頭の片隅で、そう思った。
「ガルムロッドさん。魔王が亡くなった夜のことを、もう一度、順番に教えてください」
「はい」
老宰相は、玉座に向かって一礼してから話しはじめた。
「あの夜、陛下はいつものように、姫様が淹れたお茶を召し上がりました。それから玉座の間にこもられ、『明け方まで誰も入れるな』と仰せになりました」
「お茶、ですか」
「姫様は毎晩、陛下にお茶をお持ちになるのです。陛下は苦いお茶がお嫌いでしたが、姫様のお茶だけは、必ず最後の一滴まで飲み干されました」
ガルムロッドの声が、わずかに湿った。
「黎明の鐘の少し前、胸騒ぎがして扉を開けますと、陛下が玉座でぐったりとしておられました。脈はなく、お体も冷えはじめておりました。わたくしは姫様にお知らせしようと、部屋を出ました。そして、戻ってきたときには……」
「戻れなかった?」
「左様でございます。扉の前に、血の結界が張られておりました。陛下の血を引く方しか通れない結界です。陛下が倒れられると、自動で張られるものでございました」
俺はセレスを見た。
「でも、あなたは入れた」
「私が来たときには、結界なんてなかった」
セレスは首を振った。
「玉座の間の前まで来ても、何の抵抗もなかった。扉を開けたら、あの人が死んでいて……玉座の肘掛けに、封をした羊皮紙が置いてあった」
「それが、あの遺言書」
「ああ」
結界は、いつ消えたのか。
魔王の脈が止まったのは黎明の鐘の前。遺言書の署名は、その三刻後。セレスが部屋に入ったのは、さらにその後。
その間、この部屋で何があったのか。
俺は黒薔薇の香りの中で、空っぽの玉座をじっと見つめた。綻びの糸が、この部屋のあちこちにかすかに光っている気がした。
◇
玉座の間を出たところで、セレスが用を足しに離れた。
ひとりで回廊の窓辺に立つと、急に体が重くなった。
そういえば、今日は朝から何も食べていない。埼玉の三兄弟の家で麦茶を一杯飲んだきりだ。
──あの家族は、どうなっただろう。
協議の途中で、担当の司法書士が光に包まれて消えたのだ。今ごろ警察沙汰になっているかもしれない。せっかく次男が柿の木の話をして、空気がほぐれかけていたのに。
「……途中で放ってきたのは、俺も同じか」
苦笑したとき、背後で足音がした。
「独り言の多い男ね」
振り向くと、ノクティアが立っていた。黒いドレスの上に、厚手の肩掛けをはおっている。手には、湯気の立つ陶器の杯を持っていた。
「東の塔に戻ったんじゃなかったんですか」
「眠れないのよ。……これ」
ぐい、と杯を突き出される。中身は、琥珀色のお茶だった。
「人間は、何か食べないと倒れるのでしょう。お茶しかないけれど」
「ありがとうございます」
ひと口飲んで、思わず顔をしかめた。苦い。驚くほど苦い。
「……苦いでしょう」
ノクティアが、少しだけ笑った。通夜の広間で炎を燃やしていた少女とは思えない、弱々しい笑顔だった。
「父上も、いつもそういう顔をしていたわ。苦いお茶が大嫌いなくせに、わたくしが淹れると、必ず全部飲むの。最後の一滴まで」
「いいお父さんですね」
「いい父上なものですか」
ノクティアは窓の外を見た。
「わたくしに何も遺さなかった。城も、領地も、軍も、ぜんぶ勇者に。わたくしには『名』だけ。名前なんて、生まれたときからもらっているのに」
声が震えていた。
「ねえ、執行者。父上は、わたくしのことが嫌いだったのかしら」
俺は、杯の中の苦いお茶を見つめた。
この質問を、俺は何度も聞いてきた。遺言書に名前のなかった子どもたちから。そして、そのたびに同じ答えを返してきた。
「分かりません。でも、遺言書は故人が最後に書く手紙です。手紙は、最後まで読まないと意味が分からないことがあります」
「……最後まで、って」
「条文の一文字一文字まで、です。俺はそれが仕事なので」
ノクティアは、しばらく黙っていた。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「なら、早く読み解きなさい。四十六日以内に」
「善処します」
「それから、父上を殺した者を見つけて。わたくしは、そいつを絶対に許さない」
そう言い残して、彼女は肩掛けをひるがえして去っていった。
空になった杯の底に、細かな茶葉が数枚沈んでいた。見慣れない、銀色がかった葉だった。
◇
異変が起きたのは、その少しあとだった。
戻ってきたセレスと、長い回廊を歩いていたとき、城全体が、ずん、と揺れた。
「地震?」
「違う」
セレスが即座に剣を抜き、回廊の窓に駆け寄った。
俺もその後ろから外をのぞいた。
夜空が、なかった。
いや、正確には、空いっぱいに「何か」がいた。月を隠し、星を隠し、魔王城の尖塔よりもはるかに大きな翼が、夜空をまるごと覆っていた。
鱗が、月の光を受けて鈍く光る。山のように巨大な頭が、ゆっくりとこちらを向いた。金色の瞳ひとつが、回廊の窓の三倍は大きかった。
「古竜……バハムルト……」
ガルムロッドの声がかすれていた。
「なお……債権者様が、お見えのようでございます」
言わなくても分かる。
城のあちこちで、悲鳴と怒号が上がりはじめた。魔族の兵士たちが中庭に飛び出し、槍を構えては、空を見上げたまま立ちすくんでいる。槍で突ける相手ではない。あれは生き物というより、天災だ。
西棟のバルコニーに、白い法衣の人影が見えた。聖女マリエルだ。護衛の騎士たちが慌てて彼女を中へ引き戻そうとしているのに、本人は空を見上げたまま、少しも動かなかった。遠くて表情までは分からない。けれど、なぜか怯えているようには見えなかった。
竜が口を開いた。言葉は耳ではなく、頭の中に直接響いてきた。
──ヴァルゼクスが死んだと聞いた。
──千年契約に基づき、取り立てに来た。
声だけで窓ガラスにひびが入った。セレスが俺の前に出て、剣を構える。足が震えているのが見えた。人類最強の勇者でも、震えるのだ。
──担保は、魔王の遺産を受け継ぐ者の魂。
──四十九日目の夜明けに、受け継いだ者の魂をいただく。
金色の瞳が、すっと細くなった。
その視線は、まっすぐセレスを射抜いていた。
そして、竜は、なぜかほんの少し愉快そうに付け加えた。
──それから、異界の執行者よ。
──ヴァルゼクスから、貴様への言伝を預かっている。
俺は思わず、窓枠を握りしめた。
死んだ魔王が、死ぬ前に、借金取りの竜に、俺への伝言を残していた。
つまり、あの男は最初から分かっていたのだ。自分が死ぬことも。俺がここに来ることも。
──『九千億の借金は、払わなくていい』。
払わなくていい。
九千億枚の金貨を。魂を担保にした、千年の契約を。
頭の中で、目録に灯っていた金色の糸が、ちかちかと瞬いた。『担保』の欄。『含む』の二文字。あの男は、借金取り本人に向かって「払わなくていい」と言い放ったのだ。踏み倒すつもりなら、わざわざ債権者に伝言なんて頼まない。
つまり、払わずに済む方法が、どこかにある。
あの遺言書の中に。
「……ずいぶん、無茶ぶりをしてくれますね」
俺がつぶやくと、隣のセレスが信じられないという顔でこちらを見た。
「お前、笑っているのか?」
「笑ってません。……たぶん」
嘘だった。難しい案件を前にすると口元がゆるむのは、昔からの悪い癖だ。
竜が笑った。夜空が、震えた。
──さあ、どうやって払わずに済ませるつもりだ? 見せてもらおうではないか。
(第3話「相続人は誰だ」へ続く)




