第2話(1)九千億の借金と、恋愛小説二十冊
死んだ人間は、遺言書に署名できない。
これは日本でも異世界でも同じはずだ。少なくとも、俺はそう信じて三十二年生きてきた。
「……ありえませぬ」
最初に口を開いたのは、ガルムロッドだった。山羊の顔から、さっきまでの余裕がすっかり消えている。
「わたくしは確かに、黎明の鐘の前に陛下の脈を確かめました。冷たくなっていくお手も、この手で握っておりました」
「誓文の刻印は偽れないんですよね」
「はい。世界律に誓って」
「なら、どちらかが間違っていることになります。あなたの確認か、世界律か」
広間がしんと静まった。
この世界の住人にとって、世界律を疑うことは、太陽が西から昇ると言うのと同じなのだろう。全員の目が、俺を化け物でも見るように見ていた。
「──ひとまず、保留にしましょう」
俺は羊皮紙をたたみ、棺の上にそっと戻した。
「遺言の効力は、あとで必ず確かめます。でも今日は通夜です。故人を送る夜に、犯人探しの続きをするのはやめましょう」
ノクティアが何か言いかけて、口をつぐんだ。セレスはうつむいたままだった。
聖女マリエルだけが、変わらず微笑んでいた。
「お優しいのですね、執行者様。四十六日しかないというのに」
「優しくはありません。手順の問題です」
俺は右手の甲を見た。光る『四十六』の数字は、ちくちくと皮膚を刺し続けている。
「相続手続きには順番があります。一に相続人の確定、二に財産の調査、三に遺産の分割。順番を飛ばすと、だいたい後で地獄を見ます」
「では、執行者殿。まずは何から」
「財産です」
即答した。
「誰が何を相続するかで揉める前に、何があるのかを知っておかないといけません。あとから『実は借金が』と出てきて、全部がひっくり返った家族を何組も見てきましたから」
ガルムロッドが、片眼鏡の奥で目を細めた。
「……なお」
嫌な予感しかしない。
「その『借金』につきましては、すでに一件、存じております」
「古竜でしたっけ」
「左様でございます」
◇
【遺言執行者】の加護には、財産目録を見る力があるらしい。
ガルムロッドに言われるまま、棺に右手をかざして目を閉じる。「故人の財産を見せてほしい」と、心の中で頼んでみた。
次の瞬間、まぶたの裏に、光の文字が滝のように流れ落ちてきた。
「うわっ」
目を開けても、文字は消えなかった。俺の目の前の空中に、半透明の巻物が広がっている。登記簿と預金通帳と固定資産税の明細を、全部まとめて百倍にしたような代物だった。
ノクティアとセレスが、恐る恐るのぞきこんでくる。
『魔王ヴァルゼクス 財産目録
【不動産】
魔王城 一(付属:尖塔七、地下牢獄三層、温室一)
魔王領 ヴェルトラント大陸のおよそ半分
七大ダンジョン 各一(うち一つは現在、勇者一行によって攻略中)』
「……攻略中」
「途中で放ってきた」
セレスが小声で言った。放ってくるな。
『【動産】
宝物庫の財宝 金貨換算でおよそ八千万枚
魔剣・魔具 三百十二点
陛下の私物 羽根ペン四十本、読みかけの恋愛小説二十冊、ほか』
「恋愛小説……」
「ち、父上の趣味に口出ししないで!」
ノクティアの耳が赤くなった。娘の前で読みかけの恋愛小説を晒される魔王。少し気の毒だ。
『【契約】
魔物三十万体との主従契約
黒狼公ほか魔族諸侯十二家との臣従契約
【その他】
魔王核(第二心臓) 一 ──停止』
俺の目が、そこで止まった。
「臓器まで財産扱いなんですか、こっちは」
「魔王核は、魔力の源でございますゆえ」
ガルムロッドが首をかしげた。
「しかし、陛下に第二の心臓がおありだったとは……わたくしも、初めて知りました」
「長年仕えてきたあなたが?」
「陛下は、ご自分のことをあまりお話しにならない方でしたので」
気になった。が、目録はまだ続いている。俺は指で巻物を送った。
そして、本当の地獄はそこからだった。
『【債務】
古竜バハムルトに対する千年契約上の債務 金貨換算 およそ九千億枚
(担保:魔王の遺産を受け継ぐ者の魂)
【呪詛】
歴代魔王より継承せし呪い 百八種
うち主なもの:「勇者に恋をする呪い」「毎朝小指をぶつける呪い」「千年眠れぬ呪い」……』
「九千億」
声に出したら、少し気が遠くなった。
財宝が八千万枚。借金が九千億枚。差し引きで、ざっと一万倍の債務超過だ。
日本なら、迷わず相続放棄をすすめる案件だった。
「ちょっと待て」
セレスが、震える指で一行を指さした。
「担保……魔王の遺産を受け継ぐ者の、魂?」
「つまり、遺産を受け取った人が、借金のかたに魂を取られるということでしょうね」
「受け取るのは、私なのだろう!?」
「遺言どおりなら、そうなります」
セレスの顔から、音を立てるようにして血の気が引いた。
「魔王め……! 死んでまで私を殺す気か……!」
「それと、呪いのほうですが」
俺は眉間をもみながら言った。
「『勇者に恋をする呪い』も、受け継がれるんでしょうか」
「……っ!?」
セレスが真っ赤になって剣の柄を握った。いや、俺に怒られても困る。
ガルムロッドが咳払いをした。
「呪詛の継承先は、条文の解釈しだいでございます。財産とともに移るのか、血とともに移るのか、名とともに移るのか。歴代でも例がございません」
「つまり、分からないと」
「左様で」
俺は巻物を見上げた。
さっき遺言書の中で金色に光っていた『一切の財産』と『含む』の文字。それと同じ光が、この目録の中にもいくつか灯っている。債務の『担保』の欄。呪詛の『継承』の欄。そして、なぜか、停止した『魔王核』の行。
綻びだ。
まだ意味は分からない。それでも、俺の加護はこう言っている。ここには、ほどける糸がある、と。
◇
通夜が一段落したのは、真夜中を過ぎてからだった。
ノクティアは魔族の侍女たちに連れられて東の塔へ戻り、聖女の一行は客人用の西棟へ引き上げた。セレスは「疑いが晴れるまで城を出るな」と言い渡され、なぜか俺の護衛役ということになった。
「なぜ私が、お前の護衛なのだ」
「執行者殿が殺されては困りますので。それに、勇者殿が城内で一番お強い」
ガルムロッドがしれっと言う。体のいい監視だ。セレスもそれは分かっているようで、不機嫌そうに剣を背負い直した。
「行きたい場所があるんです」
俺は言った。
「魔王が亡くなった場所を、見ておきたい」
「玉座の間、でございますか」
「現場を見ないで書類だけ作る司法書士は、だいたい失敗しますから」
本当は、相続手続きで現場検証なんて普通はしない。けれど、これはただの相続じゃない。故人が死んだ六時間後に署名した遺言書なんて、どこの国の実務書にも載っていない。
玉座の間は、城の最上層にあった。
黒曜石の大扉を、ガルムロッドが押し開ける。中は意外なほど狭かった。いや、通夜の広間と比べれば、の話だ。それでも、学校の教室くらいの広さはある。
奥に、黒い玉座がひとつあった。
背もたれは高く、両側の肘掛けには竜の頭の彫刻がついている。その足もとに、黒い薔薇の鉢がいくつも並んでいた。
甘い香りがした。
強い。むせるほどではないのに、一度吸いこむと、肺の奥にまとわりついて離れない香りだった。
「……この匂いだ」
セレスが、ぽつりと言った。
「あの日も、この匂いがしていた。扉を開けたら、この香りが一気にあふれてきて……あの人が、そこに座っていた」
彼女の視線の先には、空っぽの玉座があった。




