第1話(2)全財産は勇者へ。分けきれなきゃ、俺が次の魔王
ガルムロッドの説明は、こうだった。
この大陸ヴェルトラントには『世界律』と呼ばれる理がある。真名で署名された文書──誓文は世界そのものに刻まれ、絶対の拘束力を持つ。破った者の体には「違約の烙印」が浮かび、魔力も寿命も削られていく。
「誓文には、署名した時刻と場所も世界律によって刻まれます。後から書き換えることはできません。ゆえに、この世界で誓文を偽ることは不可能なのでございます」
「なるほど。公正証書と登記簿が、一緒になったようなものですね」
「こうせい……?」
「いえ、こちらの話です」
つまり、この世界では契約が魔法で、魔法が契約なのだ。剣より条文のほうが強い。
……司法書士には、悪くない世界かもしれない。
「三日前の黎明の鐘の少し前、陛下は玉座の間でお亡くなりになりました」
ガルムロッドの声が、わずかにかすれた。
「死因は分かっておりません。お体には、傷ひとつございませんでした」
「私が玉座の間に着いたときには、もう……」
正座したまま、勇者がつぶやいた。勇者セレス・アーデライト。三年かけて魔王城まで攻め上ってきた、人類最強の剣士だという。
「玉座の上で、眠るように死んでいた。私は、剣を抜くことすらしていない」
「嘘よ」
魔王の娘──ノクティアが、唇をかんだ。
「あの父上が、ひとりで死ぬはずがない。誰かが殺したのよ」
「だから、それは私では──」
「はい、そこまで」
俺はもう一度、軽く手を叩いた。今度は紋章は光らなかった。それでも、二人は口を閉じた。
「犯人探しは、後でゆっくりやりましょう。まず、故人が何を望んでいたのかを確かめるのが先です」
ガルムロッドに向き直る。
「遺言書の開封は、相続人と利害関係者が全員そろった場で行う。それで合っていますか」
「さすがは執行者殿。仰せのとおりでございます」
ガルムロッドが指を鳴らした。
棺の上に、一通の封書が浮かび上がる。俺を呼んだ封筒と同じ黒い革、同じ銀の封蝋。ただし、こちらはずっと分厚かった。
俺が手を伸ばすと、封蝋は音もなく割れた。
羊皮紙が広がり、光の文字が宙に浮かぶ。広間じゅうの視線が、それに集まった。
俺は息を吸い、いつもの調子で読み上げた。
『遺言書
余、魔王ヴァルゼクスは、真名をもって以下を遺す。
第一条 余の有する一切の財産を、勇者セレス・アーデライトに遺贈する。』
広間が凍りついた。
「……は?」
最初に声を上げたのは、受け取る当人のセレスだった。
「わ、私に? なぜ、魔王の財産を私が……」
「ふざけないでッ!!」
ノクティアの瞳で炎が燃え上がる。座らされたまま、床に爪を立てていた。
「父上が、自分を殺しに来た勇者に、何もかもを……!? そんなはずがない! これは偽物よ!」
「誓文に偽りはございません、姫様」
ガルムロッドの声は静かだった。ノクティアの肩が震える。
聖女マリエルは口もとに手を当て、「まあ」とだけ言った。その目が素早く計算を始めたのを、俺は見逃さなかった。勇者は王国の人間だ。勇者が受け取れば、魔王の財産はいずれ王国のものになる。そう考えたのだろう。
だが、俺の目は別のものに引きつけられていた。
『一切の財産』という文字が、ほのかに金色の糸を引いている。
なんだ、これは。読み間違いではない。その一語だけが、まるで「ここを見ろ」と言うようにほつれて光っていた。
……気になる。だが、今は先を読むしかない。
『第二条 余の娘ノクティアには、余の名を遺す。』
「……名、だけ……?」
ノクティアの炎が、ふっと消えた。
城も、軍も、領土も、宝もない。残されたのは名前だけ。父親が実の娘に遺したのは、たったそれだけだった。
うつむいた横顔は、怒っているというより、迷子の子どものように見えた。
この顔は、知っている。遺言書を読み上げたとき、自分の名前がなかった相続人の顔だ。俺はこれまで何度も見てきた。そして、そのたびに思ってきた。
──遺言書は、遺された者を傷つけるために書くものじゃない。
『第三条 前条までの財産には、余の負う一切の債務、契約、呪詛を含む。』
「債務?」
セレスが顔を上げた。
「なお」
ガルムロッドが片眼鏡の位置を直す。この老山羊が「なお」と言うときは、ろくなことがない。なぜか、もうそう分かってしまった。
「陛下の財産は、魔王城、七大ダンジョン、魔物三十万の主従契約、そして大陸のおよそ半分にあたる魔王領。いわば、世界の半分でございます」
広間がざわめいた。
「一方、債務としましては、古竜バハムルト様への千年契約の借財。金貨に換算しますと、王国の国家予算のおよそ三百年分。ほかに、歴代魔王が背負ってきた呪いが百と八つ」
「さ、三百年……」
セレスの顔から、さあっと血の気が引いた。
「受け取らない! 私は受け取らないぞ、そんなもの!」
気持ちは分かる。相続放棄の相談に来る人も、だいたいこういう顔をしている。
そして、俺の目にはまた金色の糸が見えた。『含む』の一語が、さっきより強く光っている。
……この遺言書、何かがおかしい。
『第四条 相続人および受遺者のうち、余を殺めし者は、この遺言による一切を受ける資格を失う。』
今度は、ざわめきさえ起きなかった。
全員の視線が、ゆっくりとひとりに集まっていく。魔王を討つためにこの城へ来た、ただひとりの人間に。
セレスは正座したまま、膝の上でこぶしを握った。
「……私は、殺していない」
かすれた声だった。
「信じてもらえなくてもいい。でも、私は殺していない。私が来たときには、あの人は……もう、笑って死んでいたんだ」
ノクティアが、はっと顔を上げた。
「……笑って?」
「ああ。まるで、何かをやり終えたみたいな顔だった」
沈黙が落ちた。
相続欠格。被相続人を殺した者は、相続する資格を失う。日本の民法にもある規定だ。まさか異世界の魔王が、同じ条文を遺言に書いてくるとは思わなかった。
つまり、こういうことだ。
犯人が分かるまで、この遺産は誰のものにもならない。
残りは、最後の一条だけだった。
俺は羊皮紙に目を戻した。
そして、読み上げる前に、その一文を目でなぞってしまった。
『第五条 遺言執行者・相馬律は、余の死より四十九日のうちに、遺産の分割を完了せよ。
これを果たせぬときは、遺言執行者を次代の魔王とする。』
「…………は?」
声が裏返った。
右手の甲が、また燃えるように熱くなる。紋章の下に、新しい光の文字が刻まれていった。
『四十六』。
「残り日数でございます」
ガルムロッドが、気の毒そうに言った。
「陛下がお亡くなりになって、今日で三日目。四十九日の期限まで、あと四十六日でございます」
「待ってください。俺は執行者であって、相続人じゃない。なんで俺が魔王に──」
「なお」
出た。
「魔王位には、先ほどの債務と呪いがすべてついてまいります。それから、全人類から討伐対象として狙われる立場も」
「冗談じゃない!」
思わず叫ぶと、なぜか聖女マリエルが、くすっと笑った。
「あらあら。でしたら、四十六日のうちにきちんと分けていただかないと。ねえ、執行者様?」
その目は、まったく笑っていなかった。
◇
落ち着け。
俺は深く息を吸った。
千組の家族を見てきた。もっとひどい遺言書も見てきた。「全財産を愛人に」と書かれた遺言書を、本妻と六人の子どもの前で読み上げたこともある。
遺言書に問題があるなら、まずやることは決まっている。
形式の確認だ。
日付、署名、押印。日本の自筆証書遺言なら、日付がひとつ欠けているだけで無効になる。この世界の誓文に同じルールがあるかは分からない。それでも、十年かけて染みついた手順は、こんなときでも俺の目を動かした。
羊皮紙の一番下。署名欄。
そこには、力強い筆跡で『ヴァルゼクス』と記され、その横に世界律の刻印が淡く光っていた。
署名の時刻と場所。誓文には、それが自動で刻まれる。後から書き換えることはできない。ガルムロッドはそう言っていた。
『魔王城 玉座の間 ──黎明の鐘より三刻の後』
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
「ガルムロッドさん。もう一度確認させてください」
「はい、執行者殿」
「魔王ヴァルゼクスが亡くなったのは、何時ですか」
「三日前の黎明の鐘の、少し前でございます。わたくしが、この手で脈を確かめました」
山羊頭の宰相は、迷わずそう答えた。
ノクティアも、セレスも、聖女も、黙って俺を見ている。
俺は羊皮紙を広間の全員に向けて掲げた。光の刻印が、青白い燭台の炎の中でちらちらと揺れた。
三刻。この世界の時間で、およそ六時間。
喉が、からからに渇いていた。
「──この遺言書は」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
「魔王が死んだ六時間後に、署名されています」
(第2話「九千億の借金と、恋愛小説二十冊」へ続く)
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