第10話(1)誰も遺産を欲しがらない
遺産分割協議で一番こじれるのは、分ける財産が少ないときではない。
全員が「私はいらない」と言い出したときだ。
遠慮。意地。罪悪感。故人への複雑な思い。そういうものが絡まり合うと、人は欲しいものを欲しいと言えなくなる。そして、欲しいと言えないまま判を押した協議書は、たいてい数年後に、もっと深い溝になって返ってくる。
だから俺は、協議の席でいつも同じことを言う。
──数字の話の前に、故人の話をしましょう。
◇
右手の甲の数字は『十二』になっていた。
犯人が分かってから、三週間が過ぎていた。
その三週間、俺はほとんど眠っていない。財産目録を一行ずつ洗い直し、魔物三十万体の主従契約を確かめ、諸侯十二家の臣従契約を読み、七大ダンジョンの権利関係を調べ上げた。攻略中のまま放置されていたダンジョンについては、セレスに頭を下げて、一緒に後始末に行ってもらった。
九千億の借金が消えた今、魔王の遺産は、純粋に巨大なプラスの財産だった。
そして、案の定、誰も欲しいと言わなかった。
「私はいらないと言っている」
協議の席で、セレスは腕を組んで言った。
大広間の長机には、相続人と受遺者が全員そろっていた。ノクティア、ゼファル、ルゥ。そしてセレス。立会人としてガルムロッドと、誓文官長オルド。
四人目の相続人、リーゼの席はない。欠格者は、協議に加われない。
「城も財宝も、すべて魔王の子どもたちに返す。それで終わりだ」
「でも、セレスさんは放棄ができません。誓いがありますから」
「だから、お前が何とかしろ」
「勇者のくせに、人任せね」
ノクティアが、つんと顔をそむけた。
「わたくしは、名前だけで十分よ。父上がそう決めたのだから。城や財宝なんて、勇者が持っていればいいわ」
「親父の金なんぞ、誰がいるか」
ゼファルが、鼻を鳴らした。
「俺は自分の牙で北を獲った。今さら施しを受ける気はない」
「ルゥは、おとうさんのすきだったもの、ひとつだけでいい」
ルゥが、小さな手を挙げて言った。
俺は、こめかみを押さえた。
全員が、遺産を押しつけ合っている。日本でも、ときどきあるパターンだ。そして、たいていの場合、その裏には「受け取ったら、故人を許したことになる」という気持ちが隠れている。
だが、ここでは、それだけでは済まない。
「状況を整理させてください」
俺は、机の上に一枚の地図を広げた。
「三日前、聖教会の枢機卿が、聖騎士団一万を魔王領の国境へ向かわせました。名目は『異界から来た異端の執行者を討つため』。到着は、四十九日目の夜明けの予定です」
ゼファルが、舌打ちをした。
「誓文法廷の判決が出たのに、か」
「法廷は、王国の訴えを退けました。でも、教会は王国とは別の組織です。それに、もし四十九日目の夜明けまでに遺産の分割が終わらなければ、魔王領は『治める者のいない地』のままです。そこへ一万の騎士が入れば、既成事実ができてしまう」
「そして、お前が魔王になる」
セレスが言った。
「はい。俺が魔王になって、聖騎士団一万と戦うことになります。剣も魔法も使えない、ただの司法書士が」
広間が、しんとなった。
「なので、皆さんには、ちゃんと受け取ってもらわないと困ります」
俺は、全員の顔を見回した。
「でも、その前に。数字の話をする前に、お父さんの話をしましょう」
◇
「……父上の、話?」
ノクティアが、眉をひそめた。
「はい。お父さんは、何が好きでしたか」
誰も、すぐには答えなかった。
最初に口を開いたのは、ルゥだった。
「おてがみ、かくのがすきだったとおもう。ルゥのおなまえ、おてがみでつけてくれたから」
「そうですね。羽根ペンが四十本も目録に載っていました」
「苦いお茶が嫌いだったわ」
ノクティアが、ぽつりと言った。
「嫌いなくせに、わたくしが淹れると、全部飲んだ。……それから、恋愛小説が好きだった。読みかけのまま、二十冊も」
「人間の書いた、甘ったるい話ばかりだったな」
ゼファルが言った。全員が、驚いて彼を見た。
「……昔、一度だけ、北の城に親父の使いが来た。そのとき、荷物の中に恋愛小説が一冊まぎれこんでいた。勇者と魔王が恋に落ちる、ばかばかしい話だ。たぶん、親父が自分で書いたものだったんだろう」
黒狼公は、ばつが悪そうに顔をそむけた。
「最後まで読んだ。暇だったからな」
セレスが、小さく笑った。
「私は、あの人のことを、何も知らない。玉座の上で笑って死んでいた顔しか」
彼女は、自分の手首を見つめた。烙印は、もう跡形もなかった。
「でも、あの人は、私の誓いを知っていた。私の魂が竜に取られないことも。会ったこともない敵の勇者を、あの人は、ちゃんと見ていたんだと思う」
俺は、うなずいた。
「お父さんは、皆さんのことを、ちゃんと見ていました。ルゥさんには名前を。ノクティアさんには、名と国を。ゼファルさんには、北の領地を認める臣従契約を。そして、セレスさんには、誰にも取られない魂ごと、全部を預けた」
俺は、遺言書の写しを机の上に置いた。
「セレスさん。あなたは放棄できない。託されたものを捨てられない。でも、託されたものを、託した人の思いどおりに分けることは、捨てることではありません。それは、託されたものを、最後まで果たすことです」
セレスは、遺言書の写しを見つめていた。
長いあいだ、黙っていた。
「……託した人の、思いどおりに」
「はい。そのために、俺がいます」
◇
それから十日間、協議は続いた。
数字の話が始まると、案の定、揉めた。
ゼファルは、七大ダンジョンのうち北の三つの管理権を譲らなかった。北の辺境の民の暮らしがかかっている、というのが理由だった。ノクティアは、魔王城を魔王の名とともに継ぐべきだと言い張った。セレスは、宝物庫の財宝の半分を、戦で焼かれた村々の再建に使いたいと言い出した。人間の村も、魔族の村も、区別なく。
「人間の村にまで、父上の財宝を?」
「三百年の戦で焼けたのは、どちらの村も同じだ」
「……ふん。好きにすればいいわ。どうせ、あなたの取り分だもの」
ノクティアはそっぽを向いた。けれど、セレスの再建計画の書類に、魔王領の地図を一枚、黙って添えていた。
ルゥの「ひとつだけ」は、最後まで決まらなかった。
何を見せても、ルゥは首を振った。宝石も、魔剣も、ドレスも。そして、四十八日目の夕方、ようやく、書庫の机の上に置かれていた一本の羽根ペンを指さした。
「これ」
黒い羽根の、古びたペンだった。
「おとうさんが、ルゥのおなまえを書いたペン?」
ガルムロッドが、ペン先を確かめて、静かにうなずいた。
「左様でございます。陛下が、お手紙を書くときにだけ使われていたものです」
ルゥは、羽根ペンを両手で抱きしめた。
俺は、それに加えて、宝物庫の金貨の一部をルゥの名義で信託に回すよう提案した。ルゥが大人になるまで、ガルムロッドが管理する。ルゥは未成年なので、協議書への署名には代理人がいる。後見人のガルムロッドは魔王家の家臣で、利害がぶつかる。そこで、中立の誓文官長オルドに、特別代理人を引き受けてもらうことにした。
「異界の者は、細かいことまでよく気がつく」
オルドは、あきれたように、それでも少しだけ愉快そうに言った。




