第9話(2)許すことと、守ることは別だ
「その名前は、母しか知らないはずでした。聖教会の誰も知らない。私自身も、血統の書の封印の奥に、ずっと閉じこめていた名前でした。なのに、あの人は知っていた。最初から、ずっと」
──今夜は、会わねばならぬ者がいる。
──あれの母親が、好きだった花だ。
「あの人は、言いました。『二十年、探した。教会がお前を隠していた。聖女が使節団の長として来ると聞いて、もしやと思った。だから、使節を招いた』と」
和平交渉の使節団を招いたのは、魔王自身だった。
それは、三百年の戦を終わらせるためであり、そして、二十年探し続けた娘に会うためだった。
「『茶が苦かった。聖水の味がした。お前だと分かった。分かっていて、飲んだ』」
マリエルの指の隙間から、涙がこぼれ落ちた。
「『飲まなければ、お前はもう一度、別のやり方で私を殺しに来る。そのたびに、お前の手が汚れる。それなら、一度で終わらせてやりたかった』……そう言って、あの人は、私の手を握ったんです」
大広間が、静まり返っていた。
ノクティアが、震える手で自分の胸を押さえていた。ゼファルが、顔をそむけていた。ルゥは、何が起きているのかよく分からないまま、それでもマリエルを見つめて、ぽろぽろと泣いていた。
「最後に、あの人は言いました。『エレナは、お前を愛していた。私もだ。黒薔薇は、エレナが好きだった花だ。お前にも、見せたかった』。それから、笑って」
マリエルは、言葉を続けられなかった。
勇者セレスが、玉座の間で見た光景。笑って死んでいた魔王。何かをやり終えたような顔。
あれは、二十年ぶりに見つけた娘の手を握ったまま、死んだ男の顔だったのだ。
◇
「……なぜ、ですか」
マリエルが、顔を上げた。涙で濡れた目で、俺を見た。
「なぜ、あの人は遺言に、第四条を書いたのですか。『余を殺めし者は、一切を受ける資格を失う』と。私を許すなら、あんなものを書く必要はなかったはずです」
「それは」
俺は、答えに迷わなかった。十年間、遺言書を読み続けてきたのだ。故人が最後に何を考えたのかは、条文の中にしか書いていない。
「許すことと、守ることは、別だからです」
マリエルが、目を見開いた。
「もしあなたが遺産を相続すれば、それは聖教会のものになる。魔王領は、教会の思うままにされる。ノクティアさんも、ゼファルさんも、ルゥさんも、そして魔王領に暮らす三十万の民も、守れなくなる。だから、第四条で、あなたが相続できないようにした」
俺は、竜の言葉を思い出していた。
「でも、お父さんは竜にこう伝えていました。『あの子を、責めないでやってくれ』と。条文では、あなたから相続の資格を奪った。でも、心では、あなたを責めなかった。それが、お父さんの出した答えだったんだと思います」
マリエルは、もう何も言わなかった。
ただ、その場に膝をつき、声をあげて泣いた。聖女としてではなく、父親を失った娘として。
俺は、オルドを見た。
老誓文官長は、長いあいだ目を閉じていた。それから、静かに杖で床を打った。
「判断を言い渡す。相続人リーゼ、すなわち聖女マリエルは、被相続人を死に至らしめた者として、遺言第四条により、一切を受ける資格を失う。また、遺言書を偽造した者としても、相続人たる資格を失う。勇者セレス・アーデライトの欠格の疑いは、晴れたものとする」
広間が、どよめいた。
セレスが、その場で大きく息を吐いた。俺と目が合うと、何か言おうとして、結局、小さく笑っただけだった。
そのとき、銀の光がひらめいた。
「──させるか!」
騎士団長ハロルドだった。抜き身の剣が、膝をついたマリエルの首筋に向かって振り下ろされる。
口封じだ。聖女が枢機卿の命令を口にした。教会にとって、もう彼女は生かしておけない。
だが、刃は届かなかった。
ガキン、と金属が鳴った。セレスの聖剣が、ハロルドの剣を受け止めていた。
「……勇者が、王国の騎士に剣を向けるか」
「向けていない」
セレスは、静かに言った。
「私は、背を向けなかっただけだ」
次の瞬間、ハロルドの剣が、根元から砕け散った。
「この場で血を流そうとした者は、訴えの資格を失う」
オルドの声が、冷たく響いた。
「ハロルド。貴殿の身柄は、誓文法廷が預かる。王国の訴えは、これをもってすべて退ける」
聖騎士たちが、ハロルドを取り囲んだ。今度は、彼を拘束するために。
◇
ハロルドが連れ出されたあとも、大広間には重い沈黙が残っていた。
最初に動いたのは、ノクティアだった。
彼女は、床に膝をついたままのマリエルの前に歩み寄った。角のまわりの炎は、消えていた。
マリエルが、顔を上げた。
二人の娘が、向かい合った。毒を贈った姉と、それを知らずに淹れた妹。同じ父親の血を引き、同じ父親の死にかかわった二人。
「……あなたが、父上を」
ノクティアの声は、かすれていた。
「わたくしのお茶で。わたくしの手で、父上を殺させたのね」
「ええ」
マリエルは、目をそらさなかった。
「許してほしいとは言いません。私は、あなたからも父を奪った」
ノクティアの手が、振り上げられた。
広間の誰もが、息をのんだ。ゼファルが半歩前に出かけて、止まった。
だが、その手は振り下ろされなかった。
ノクティアは、震える手を、ゆっくりと下ろした。
「……許さないわ」
ぽつりと言った。
「一生、許さない。でも」
彼女は、唇を強くかんだ。
「父上が、あなたを責めるなと言ったのなら、わたくしは、父上の言葉に逆らえない。……それだけよ」
ノクティアは踵を返し、背を向けた。肩が、小さく震えていた。
ルゥが、とてとてとマリエルに駆け寄った。そして、服のポケットから、ノクティアにもらった蜂蜜の飴をひとつ取り出して、マリエルの手に握らせた。
「……おねえちゃんも、おとうさんのこども?」
「……ええ」
「じゃあ、ルゥのおねえちゃんだね」
マリエルは、飴を握りしめたまま、何も言えなくなっていた。
ゼファルが、腕を組んだまま、深いため息をついた。
「親父め。どれだけ子どもを泣かせれば気が済むんだ」
その声も、少しだけ湿っていた。
俺は、黙ってその光景を見ていた。
遺産分割の席で、俺はたくさんの家族が壊れるのを見てきた。そして、ほんのときどき、壊れかけた家族が、故人の死をきっかけにもう一度つながるのも見てきた。
この家族が、どちらに転ぶのか。それは、まだ分からない。
ただ、少なくとも今、この大広間で、魔王の四人の子どもたちは、初めて全員がそろっていた。
◇
騒ぎが収まったあと、マリエルは誓文法廷の預かりとなった。
法廷の兵に連れられていく前に、彼女は一度だけ俺のほうを振り返った。
「執行者様。最後に、ひとつだけ」
「なんでしょう」
「あの人は、私の手を握りながら、もうひとつ言っていました。伝えてくれと頼まれたのです。異界から来る、執行者に」
マリエルは、泣き腫らした目で、まっすぐに俺を見た。
「『この遺言には、まだ続きがある。執行者がすべての遺産を分け終えたとき、六つ目の条文が開く』と」
六つ目。
遺言書は、第五条で終わっていたはずだ。
「それを読んだとき」
マリエルは、かすかに微笑んだ。もう聖女の笑みではなかった。少しだけ、ノクティアに似た笑い方だった。
「あなたは、きっと、元の世界には帰れなくなる。……そう、父は言っていましたわ」
白い法衣の背中が、回廊の向こうに消えていった。
右手の甲で、数字がじくりと痛んだ。
『三十三』。
犯人は見つかった。だが、遺産はまだ、一つも分けられていなかった。
(第10話「遺産分割協議書」へ続く)




