第四幕 誰の役目なのか
重苦しい空気が執務室を満たしていた。アシルは机の上の記録から目が離せない。ニノンが話していたこと。ニノンがしてきたこと。それらを一つ一つ整理すると、今迄見えていなかったものが見え始めていた。
それでもなお、一つだけ腑に落ちないことがあった。
「クレマン」
「はい」
「ニノン嬢が私を慕っていたとしても、それだけではないのか?」
「それだけ、とは?」
「私は恋愛感情など向けられていない」
アシルは断言した。クレマンはそうだろうなと思う。ニノンが向けているのは恋愛感情ではなく、姉から奪いたいという欲だ。自分のほうが相応しいと根拠もなく思い込んでいる自己愛から来る所有欲にも似たものだ。
「少なくとも、私はそう思う」
「殿下がそう思われる理由は何でしょう」
「ニノン嬢はジョゼットの妹だからだ」
「……」
「確かに距離は少し近いかもしれない。しかし、兄に甘えるようなものだろう」
クレマンは静かに問い返した。この王子は何も解っていない。こんなにも人の機微に疎くて王が務まるのだろうかと若干の不安を感じつつ、そう遠くない未来に自分はこの人の許から離れるのだろうと漠然とした予感が過った。
「では、ニノン嬢が本日最後に仰ったことを覚えておいでですか」
アシルは少し考えて頷く。
「『わたくしがお傍におりますと、アシル様も笑ってくださるので嬉しいです』だったか」
「それも問題ですが、その前です」
「前?」
「『お姉様はお忙しいのですもの。アシル様もお疲れでしょう? わたくしでしたら、いつでもお傍で癒して差し上げられますのに』です」
「ああ、それか」
アシルは苦笑した。
「よく言われる」
何が問題なのか全く解っていない様子のアシルにクレマンは彼の側近を辞するべきかと考える。いや、まだ決断するのは早い。全てはジョゼットの判断次第だ。
「殿下はその言葉をどう受け取っておられましたか」
「他意はないだろう」
即答だった。
「ジョゼットは忙しいからな。私は仕事で疲れている。だから、自分なら話し相手になれますよという程度だろう」
「なるほど」
クレマンは一つ頷く。執務においては決して無能ではない。特別優秀ではないが、歴代王と比べても問題ない程度の平均的な王にはなれるだろう。しかし、こうも女性の言葉の裏を読み取れないようでは妃となる人は余計な面倒を背負わねばならなくなりそうだ。
「では、お尋ねします」
「何だ」
「王太子妃の役目とは何でしょう」
「急だな」
「お答えください」
アシルは腕を組んだ。
「国母となること、社交、公務、王家を支えること、それくらいか」
「では」
クレマンは続ける。
「ニノン嬢の言う殿下を癒やすことは?」
「それも役目ではないのか?」
「平民や下位貴族なら妻の役目かもしれません。ですが、王太子妃の務めではありません」
クレマンはゆっくりと言葉を区切った。
「それは何の責任も持たぬ者が言う言葉です」
クレマンの言葉にアシルは息を呑んだ。
「殿下は散々ジョゼット嬢の妹だからと仰るが、血縁関係は礼儀を免除する理由にはなりません。寧ろ婚約者の妹だからこそ、距離を保つべきなのです」
こんなことを言わせるアシルに呆れが膨らむ。一部の家を優遇しないように、また婚約者との仲を疑われないように、婚約者の兄弟姉妹とは距離を置くべきなのだ。
「ですが、ニノン嬢は、その距離を縮め続けている」
クレマンは記録を指差す。
「そして毎回、ジョゼット様と比較し、彼女を貶める」
──お姉様はお忙しいですもの
──お姉様は冷たいんです
──わたくしでしたら
──わたくしのほうが
「お気づきになりませんか? 比較しているのです」
「比較?」
「ええ、ジョゼット嬢と自分を」
アシルは記録を見つめる。今迄何とも思わなかった言葉が、違う意味を持ち始めていた。『わたくしでしたら』という言葉は、裏を返せば『ジョゼットよりも』という意味になる。
「殿下」
クレマンの声は静かだった。
「婚約者を下げ、自分を上げる。それは何のためでしょう」
答えは一つしかない。だが、アシルは認めたくなかった。
「いや……違う」
「何が違うのでしょう」
「ニノン嬢はそこまで考えて」
「考えていなければ許されることではありません」
きっぱりと言い切る。
「無意識であればなお悪い。自分が何を口にしているのか理解していないのですから。そして恐らく姉のものは奪ってもいいとでも思っているのでしょう」
アシルは黙り込む。クレマンは更に続けた。
「そして、先ほど殿下は仰いました」
「何をだ」
「『堅物なジョゼットよりニノン嬢のほうが癒される。結婚するなら癒されるほうが良いかもしれない』と」
その瞬間、アシルは勢いよく顔を上げた。
「それは!」
「軽口ですか?」
「勿論だ!」
「では、ニノン嬢もそうだと思われたでしょうか? とてもご機嫌で帰られましたが」
「…………」
返事が出来ない。クレマンは静かに畳みかける。
「婚約者の妹としての特別扱い。毎週2,3回のティータイム。『わたくしでしたら』という比較。そして、殿下のそのお言葉」
一つずつ積み上げられていく。アシルにとっては不利な『実績』。クレマンは真っ直ぐにアシルを見た。
「殿下、癒されるという言葉は、王太子妃を選ぶ言葉ではありません」
「……」
「愛妾を選ぶ言葉です」
執務室が静まり返る。その一言は今迄で最も重かった。
「愛妾など! 私はそんなつもりではない!!」
アシルは机を叩くように手を付き立ち上がる。
「存じております」
「いいじゃないか!」
感情のままに叫ぶ。そして決定的な失言。
「同じ公爵令嬢だ! 姉から妹に変わったとて、大した違いは──」
そこまで行って、アシルは自分の口を自分で押さえた。言ってしまった。最も言ってはならないことを。
クレマンは悲しそうに目を伏せる。
「殿下、そのお言葉をジョゼット嬢がお聞きになったら、どう思われるでしょう」
答えられるはずがなかった。




