第五幕 婚約者は誰か
執務室に長い沈黙が落ちる。アシルは立ち尽くしたまま動けなかった。自分の口から飛び出した言葉が、耳にこびりついて離れない。
──同じ公爵令嬢だ。姉から妹に変わったとて。
腹を立てて、勢いで口にしただけだった。そう言い訳することは出来る。だが、思わず口に出てしまったということは、心のどこかでそう考えていたということでもある。
「……最低だな」
掠れた声が漏れた。クレマンは何も言わない。その沈黙が今は有難く、そして怖かった。
「ジョゼットは」
アシルはゆっくりと椅子に腰を下ろす。
「この1年、どれほど忙しい?」
「ご存じでしょう」
「ああ」
王妃教育、王太子妃としての実務、来年の結婚式の準備、王妃が苦手とする書類仕事の補佐。どれも王家のためだ。そして、自分のためだ。
「私は何をしていた」
自嘲の苦い笑みが浮かぶ。
「その婚約者の妹と茶を飲み、世間話をし、彼女の悪口を聞き、なのに癒されるなどと言っていた」
クレマンが静かに口を開く。
「殿下」
「何だ」
「ジョゼット嬢は一度でもニノン嬢のことを殿下に訴えられましたか」
「いや……忙しいのだ、知らなかったのでは」
本当に何も解っていないとクレマンの声が尖る。
「我々側近には幾度も詫びを申されましたよ。妹が邪魔をして申し訳ないと。それにあのニノン嬢が姉君を見下すために殿下とのお茶会のことを告げぬわけがないでしょう」
本当に何も知らない、何も見ていないのだ、この王子は。これが王太子で大丈夫かと不安にもなる。一度父やジョゼットの兄ポワリエ小公爵にも相談したほうがいいかもしれない。
「そう……なのか」
「ええ、ですが、殿下には何も仰らなかった。妹との面会を止めてほしいとも、嫉妬の言葉も苦情も。何も仰らなかった」
アシルはハッとする。そうだ、ジョゼットは一度も言わなかった。いや、言えなかったのではないか。王妃教育だけでも手一杯。王妃の仕事まで担わされ、そこへ更に『妹が婚約者に付き纏っています』などと口にすれば、妹を悪者にする姉、そうみられる可能性もあった。だから黙っていた。耐えていた。
だが、クレマンは違う可能性を感じていた。恐らく、ジョゼットはアシルに対して期待するのをやめたのだと。
「殿下はジョゼット嬢の誠実さと寛大さに甘えすぎておられました。そして、ニノン嬢はそれを利用した」
否定できなかった。ジョゼットは何も言わない。だから問題ない。そう思っていたのは自分だけだった。
「クレマン、私はどうすればいい」
側近に聞くのかと呆れはしたものの、このまま自分だけの考えで突っ走られるよりはずっといい。クレマンは少しだけ目を閉じ、アシルが今現在最も受け入れやすいであろう案を答えた。
「まず、ニノン嬢とお会いになるのをお止め下さい。婚約者の妹だからという理由だけで、私的に面会することは今後一切なさらないように」
「ああ、そうする。二度と私的な面会はしない」
「その際、曖昧なお断りでは意味がございません。かの御令嬢であれば都合よく解釈して何度も訪ねて参りましょう」
「どう伝えるべきだ?」
クレマンは迷わずに答えた。
「『未婚の貴族令嬢と王太子が私的に面会する理由はない。婚約者の妹であっても同じだ。これまでの私の行動は軽率であり、害悪であった。ゆえに今後個人的に会うことは一切ない』」
アシルはゆっくりと頷く。
「害悪、か」
「はい。殿下だけの問題ではありません。ジョゼット嬢の名誉、王家の権威、そしてニノン嬢自身の将来、全てを傷つける行為です」
その通りだった。今なら理解できる。自分は誰一人幸せにしていなかった。優しくしているつもりで、誰に対しても無責任だった。
「そして、ジョゼット嬢へ謝罪なさってください」
クレマンは真剣な眼差しでアシルを見つめる。
「ああ、そうだな。謝らなくては」
ジョゼットは自分の揺らぎを知っていたのだろう。どんなに傷ついたか判らない。
「ですが、赦していただけるとは思ってはいけません。赦しを強要してはいけません」
「!」
「殿下は信頼を損いました。謝罪一つで戻るものではありません」
謝っても赦されないというのか。私は自分の非を認めたのに。王太子が頭を下げるのに赦されないのか。
そんな傲慢な思いがアシルの胸を過る。
「これまで殿下が為さってきたこと、ジョゼット嬢を蔑ろにし続けてきたことが、たった一度の謝罪でなかったことになるとでもお思いか」
そんなアシルの傲慢さを感じたのだろう。これまで聞いたこともないほどの冷たい声がクレマンから発せられた。
「それをご理解なさるまで、謝罪も出来ませんね。今謝罪してもそれは赦しの強要にしかならない。本心から殿下がジョゼット嬢に謝罪の心を持たねば、意味はありません」
厳しい言葉だった。不敬だと言いたくなった。けれど、この言葉はこれまでのアシルの言動の結果なのだ。
「……そうだな。赦される赦されないに拘らず、まずは謝罪が必要なんだ。謝罪して努力して、その果てに漸く赦される時が来るかもしれない。そう思うことにする」
「それがよろしいかと」
クレマンは静かに一礼した。側近に叱られた今は殊勝にしているが、それがいつまで続くかは判らない。けれど、アシルの表情にはこれまでの甘さが多少は削ぎ落されているようにも見える。
「クレマン。ニノン嬢との執務室での茶会は今日で終わりだ」
「承知いたしました」
「次からは、執務室に通すことはない。ただ一度だけ、今後の面会拒否を私から伝える」
「そのように手配いたします」
「それと」
アシルは窓の外へ目を向ける。王宮のある方角だった。
「ジョゼットへ面会を申し込んでくれ。本日中に」
「……はい」
クレマンは一礼する。ああ、やはり簡単には変われないのだと失望を感じつつ。ジョゼットへの本日中の面会要請など、彼女の都合を何も考えていないではないか。
だから、最後にもう一度釘を刺した。
「殿下、本日の話をお忘れなきよう」
「忘れないさ、忘れられるものか」
その返事に、クレマンは何も言わずに頭を下げ、執務室を後にした。
一人残されたアシルは、机の上に残された記録へ視線を落とす。
そこにはニノンが王城を訪れた日付が並んでいる。これほど多くの機会がありながら、自分は一度も疑わなかった。一度も婚約者の立場に立って考えなかった。その愚かさをこれから償っていかなければならない。
窓の外では、夕日が王宮の屋根を赤く染めていた。その先には自分が最も謝らなければならない相手がいる。失った信頼は簡単には戻らない。それでも、ジョゼットなら。
漸くアシルは、その信頼を取り戻すための一歩を踏み出そうとしていた。




