↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
94/120

第94話: 影の魔女の甘い誘い

「はっ……はぁ……っ!」


森の静寂を切り裂くのは、

悠真の荒い呼吸だけだった。


転移の余波で視界がぐにゃりと歪む。

着地の衝撃を殺せず、

悠真は泥の地面に膝をついた。


「悠真……休まないで。

次、跳ぶわよ」


セレスの声も、

かつてないほどに掠れている。


彼女の持つ《深淵の杖》は、

転移を繰り返すたびに周囲の魔素を強引に吸い上げ、

青白い火花を散らしていた。


「……セレス、今の……何回目だ?」


「十二回目。

……座標のズレが三メートルを超えたわ」


セレスが額の汗を拭い、

背後を振り返る。


そこには、

ただ暗い森が広がっているだけだ。

魔物の気配すらしない。


だが、その静寂こそが異常だった。


「……撒けて、ないんだな」


「ええ。私たちの移動の『終着点』を、

向こうは正確に把握している。

……あえて、見える距離を保ったまま」


悠真は奥歯を噛み締めた。


リシュヴァ。

あの影の魔将は、

本気で追ってきているのではない。


逃げ惑う獲物をじわじわと追い詰め、

魔力を枯渇させ、

精神が折れる瞬間を待っている。


これは追跡ではなく、歪んだ「遊興」だ。



数百メートル後方。


木々の影に溶け込むように、

リシュヴァは静かに浮遊していた。


「……ふふ。あの魔導師の娘、

なかなか粘るわね」


リシュヴァの瞳に、

転移の光の残滓が映る。


(今すぐ空間ごと握り潰すこともできるけれど……それは退屈な脚本だわ)


リシュヴァは薄く笑う。


セレスの術式は緻密で、

追跡を振り切るための「偽装の魔力痕」を幾重にも散布している。


魔将の彼女にとっても、この森の複雑な地脈の中で完全に断ち切るには手間がかかった。


「追い詰める必要なんてないわ。

……自ら、戻ってくるように仕向ければいいだけだもの」


リシュヴァは指先で宙をなぞった。

影の蛇が、地を這い、先行する二人の周囲へ「ある波長」を撒き散らし始める。



『あら……もうおしまい?

拍手喝采を送りたい気分だわ』


直接、脳に響く甘い声。


悠真は顔を上げた。

背後の影が、音もなく立ち上がる。


『もっと……もっと私を愉しませて。

あなたたちが絶望に喘ぐたびに、

あの子の血の匂いが、

最高に芳醇になるの』


「っ、……セレス!」


「跳ぶわ!!」


セレスが強引に杖を振り抜く。

空間が裂け、二人の姿を飲み込む。


その直後。

二人がいた場所を、

漆黒の鎌が薙ぎ払った。


『うふふ。いいわ、逃げなさい。

……でも、逃げた先にあるのは、

私の腕の中よ?』


闇の中で、リシュヴァの瞳が紅く光る。


魔将は急いでいない。

セレスの魔法がいつか枯渇することも、

悠真がリィナを見捨てられないことも、

すべて「確定した未来」として、

その掌の上にあるのだから。


「……待て。セレス、止まってくれ」


十四回目の転移を終えた直後、

悠真が掠れた声で制止をかけた。


膝をつき、肩で息をしながらも、

その目は周囲を冷徹に探っている。


「悠真? ここに留まるのは危険よ。

魔力痕跡を消しきれていないわ」


セレスが杖を握り直し、

焦燥を露わにする。


だが、悠真は首を振った。


「……リィナだ」


「えっ?」


「リィナの魔力波長が、

さっきからずっと……

意識の外から入り込んでくるんだ」


悠真は目を閉じ、

研ぎ澄まされた感覚で空間を捉える。


胸の奥では罪悪感と怒りが渦巻いていた。


(リィナ……俺のせいで……)


転移の着地点。

その周囲の空気。

そこには、微かだがはっきりと、

リィナ特有の魔力の残響が漂っていた。


セレスも自身の感覚を広げ、

数秒後に顔を蒼白にさせた。


「……本当ね。

でも、これ、おかしいわ。

広域に散布されすぎている」


それは道標ですらなかった。

リシュヴァが、

あえて隠すこともせず、

リィナの魔力を「撒き餌」として世界に滲ませているのだ。


「俺たちを誘導してるんじゃない。

……見せつけてるんだ」


悠真の拳が、怒りで震える。


『リィナはここにいる』。

その事実を、

逃げる二人の鼻先に突きつけ、

いつでも戻ってこいと嘲笑っている。


「……あいつは俺たちが逃げ切ることすら、全部想定に入れてる。……その先で、俺たちが戻ってくるって、知ってやがるんだ」


しかし、セレスの瞳に、

絶望ではない別の光が宿った。


「……いいえ、これはむしろチャンスよ……利用できるかもしれない」


「利用する? 罠に飛び込めって言うのか」


「リシュヴァは、

私たちの消耗を計算に入れている。

そして、私たちが『逃げ切れる』ことも前提に待ち構えているわ。……だったら、それを逆手に取るの」


セレスは《深淵の杖》の石突きを地面に立てた。

無意識に自身の指に嵌められた《碧環の指輪》を強く握りしめる。


今はまだその力が必要になる時ではないが、彼女の決意は固かった。


「リィナの波長が撒かれているということは……彼女のいる場所を、教えてくれているようなものよ。向こうが門を開けて待っているなら、それを使って『裏側』へ滑り込めばいい」


セレスは冷徹な魔導師の顔を取り戻し、

術式の構成を練り始める。


「それに、今、このタイミングを逃したら、

二度と救出することはできない」


それは、リシュヴァという絶対的な強者の「待ち」の姿勢を欺くための、あまりに危うい虚実の計画。


「悠真。……私を、信じてくれる?」


悠真は、森の奥へと沈むリィナの波長の源を見つめ、静かに、けれど力強く頷いた。


「ああ。……リィナを、連れ戻すんだ」


暗い森の中、二人の逃亡者は、

初めて「獲物」から「狩人」へとその意志を翻した。



「……ッ、がはっ……!」


十八回目の転移。

その着地と同時に、

悠真の体が無様に地面を転がった。


今までの精密な転移とは明らかに違う。

空間の繋ぎ目がガタつき、

排出される際の衝撃が肉体をダイレクトに叩いたのだ。


「悠真! 大丈夫!?」


セレスが駆け寄るが、

彼女自身の足元もおぼつかない。


《深淵の杖》から放たれる青白い光は、

まるで接触不良を起こした電球のように激しく明滅し、

不安定な魔素が周囲の空気をバチバチと焼いている。


「座標が……ズレた。左に、二十メートル……」


悠真が泥を吐き捨てながら立ち上がる。

その動作は、素人目にも分かるほど鈍い。


セレスは震える手で術式を編み直そうとするが、

その指先からは魔力が霧散し、

不完全な魔法陣が空中でパリンと乾いた音を立てて砕け散った。


「……っ、魔力循環が、追いつかない……」


セレスは苦渋に満ちた表情で、無意識に《碧環の指輪》を握りしめた。



後方。


影の中からその様子を観察していたリシュヴァは、薄く唇を吊り上げた。


「あらら? 消耗が激しいのかしら。

あんなに鮮やかだった術式が、

見る影もなく崩れていく……

壊れゆく過程もまた、一興ね」


彼女の眼には、セレスが「転移に失敗し続けている」ように映っていた。


(どうせ最後は、あの娘の波長に誘われて戻ってくるのでしょうけれど……)


しかし、その余裕が徐々に薄れていく。


十九回目の転移。

セレスが杖を振った瞬間、

空間が歪にねじ曲がり、光が爆ぜた。


「あ……っ!」


セレスの悲鳴。

転移は不発。

いや、不完全な発動だった。


悠真の体は半分だけ空間に呑まれかけ、

激しい拒絶反応とともに地面に叩きつけられた。


動かない。

悠真は意識を失ったように、

泥の中に突っ伏した。


「悠真! 悠真ッ!!」


セレスが泣き叫びながら彼に縋りつく。


この瞬間、

リシュヴァの「遊び心」が、

確実な「殺意」へと変質した。


「……ふふ。このまま殺せちゃうわね」


影が爆発的に膨張した。

遊びは終わりだ。


リシュヴァは物理的な距離をゼロにするため、一気に加速する。


「……ふふ。幕引きね。

一番美味しい絶望の瞬間を、私の手で飾ってあげましょう」


森の木々が影に呑まれ、

リシュヴァの指先が、

無防備な悠真のうなじに届こうとしたその時――。


セレスの瞳の奥で、

氷のように冷たい計算の光が閃いたのを、

魔将はまだ知らなかった。

第94話、ありがとうございます。


ここからが本当の戦いです。


次回『囮と本命の救出作戦』


★での応援、励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。