第95話: 囮と本命の救出作戦
「……ふふ。
このまま殺せちゃうわね」
膨張した影が、鎌の形を成して悠真の首筋に迫る。
リシュヴァの顔には獲物を追い詰めた完璧な余裕が浮かび、
セレスは悠真の体に覆いかぶさり、絶望に顔を歪めていた――。
だが。
その影が肉を断つ寸前、悠真の唇がわずかに動いた。
「……今だ」
昏倒を装っていた悠真の瞳が、冷徹な光を宿して見開かれる。
同時に、セレスの絶望が消えた。
彼女は《深淵の杖》を地面に突き立て、温存していた全魔力を一気に解放する。
「――術式分割展開!」
リシュヴァの眉が驚愕に跳ねる。
「なっ……!?」
セレスの周囲に、三つの巨大な転移方陣が同時に浮かび上がった。
まず一つは、あまりに強大で不安定な悠真の痕跡を撒き散らす「暴走転移」の偽装。
二つ目は、気配を極限まで殺した悠真を逃がすための本命の転移。
そして最後の一つ――
セレス自身が派手に転移する「自己囮」だ。
これはリシュヴァに見抜かれることを前提で仕掛けたもの。悠真を守るための自己犠牲に見せかけ、彼女の注意を強く引きつけるための囮——。
「しまっ――」
リシュヴァが影を伸ばすが、遅い。
セレスがわざと繰り返してきた「失敗転移」の残滓が、周囲の地脈を撹乱し、追跡能力を著しく低下させていた。
「悠真……絶対、生きて! 私が必ず……!」
「ああ、頼んだぞセレス!」
術式が分岐する。
刹那、爆発的な白光が森全体を吞み込んだ。
三つの巨大な転移方陣が同時に輝きを増し、裂帛の魔力奔流が夜空を引き裂くように三方向へと弾け飛んだ。
地面が激しく震え、木々が光の奔流に晒されて一瞬白く透け、森がまるで昼のように明るく染め上がる。
リシュヴァは迷わない。
彼女の狙いは、あくまで「進化士」である悠真だ。
最も強烈な魔力の尾を引いて森の深奥へと跳んだ「悠真の気配」を、本能のままに追尾する。
「小賢しい真似を……! 逃がさないよ!」
リシュヴァの姿が影に溶け、一瞬で「悠真」を追って消失した。
――だが。
光が収束したとき、リシュヴァが追っていたのは、派手な魔力の残滓を撒き散らす囮に過ぎなかった。
本物の悠真は別の座標へと転移していた。
そしてセレスもまた、逆方向へと跳んでいた。
彼女が向かった先は、リィナの波長が最も濃く漂う「救出地点」。
セレスは冷たい汗が掌に浮かぶのを感じ、杖を握り直した。
(リシュヴァはきっと、私の派手な転移を「悠真の囮」だと思うはず……。
だからこそ、私はリィナの元へ行ける)
「……グローデンはまだ北部戦線を制圧中。
今なら、あそこに『守り』はいない」
悠真が命懸けで時間を稼いでくれている。
この短い空白が、二人が泥を啜り、無様を晒してまで作り上げた、唯一の勝機だった。
「待ってて、リィナ。
今、助けるから」
セレスの姿が、今度は迷いなく闇の中へと消えていった。
♦︎
「……逃がさないと言ったはずよ」
次元の隙間を影が滑る。
リシュヴァは最も強い魔力の糸を掴みながら、しかし唇を歪めた。
「……なるほど。二重に仕掛けてきたのね」
派手な囮の裏側に残る、薄い気配。地脈の撹乱で一瞬遅れたが、魔将の感覚は確実に本物を捉えていた。
「面白いわね……姑息な真似を。
でも所詮は小細工。私を欺けると思ったのかしら? 傲慢ね」
リシュヴァの軌道が一瞬で修正される。
瞳が怒りで紅く燃える。
魔将である自分を、あんな小娘の術式が一瞬でも「足止め」させた事実に、プライドが激しく逆撫でられた。
「……いい度胸ね。その足掻き、
どこまで私を愉しませてくれるか……
見届けてあげるわ。」
影が爆ぜ、漆黒の爪が空間を無理やり引き裂き、軌道を捻じ曲げた。
♦︎
だが、そこで待っていたのは、
一方的な蹂躙ではなかった。
セレスが生み出した、一瞬の「隙」を突いた――渾身の一撃。
(リィナ……!)
胸の奥が焼けるように痛んだ。守れなかった後悔と無力感が、手を震わせる。
それでも悠真は歯を食いしばり、剣を振り上げた。
「――っらぁぁッ!!」
転移直後のリシュヴァを正確に捉えた、
悠真の全力の横薙ぎだった。
《雷光の剣》が咆哮し、
森を白く焼き尽くす。
「ふふ……まだ、そんな目ができるの?
いいわねぇ。……最高にゾクゾクするわ」
リシュヴァは影の壁でそれを受け流したが、その衝撃にわずかに目を細めた。
先ほどまで罪悪感に押し潰され、ただ怯えていた少年の目じゃない。
(……ここで動かなければ、本当に何もかも失う……!)
リィナを失う恐怖と、セレスまで失うかもしれない焦燥が、折れかけた心を無理やり引きずり上げていた。
虚空に手を翳す。
焼けつくような決意が、彼の背中を押していた。
そして、その瞬間。
その瞳には、もう迷いはなかった。
「来い――!」
悠真は《迅環の魔輪》を召喚した。
青白い光の輪が左腕に強引に食い込み、視界が一瞬で加速する。世界がゆっくりと動き出し、鼓動が爆音のように鳴り響いた。《迅環の魔輪》が肉体を「先の時間」へと無理やり引きずり出す。
殺意を孕んだ影が、弾丸のように踏み込む。
ドッ、と空気が爆ぜる。
「がっ……、はぁぁッ!!」
リシュヴァが放った影の刃を、
悠真は紙一重、文字通り数ミリの差で回避した。
「かわした?」
リシュヴァの声に、初めてわずかな興味が混じる。
猛攻が加速した。
一撃一撃が地脈を割り、大気を震わせる。
悠真は《雷光の剣》で斬撃をいなし、《氷柱の盾》を盾面に滑らせるようにして直撃を避ける。
盾の防御障壁を展開しても、魔将の一撃は一瞬でそれを砕き散らす。
呼吸が裂ける。視界が明滅する。
それでも、悠真は止まらない。
「避ける、避ける、避ける——!
それだけか、進化士!」
リシュヴァの猛攻がさらに加速する。
魔輪の反動固定が強引に傷を「なかったこと」に補助し続ける中、悠真はただ――秒数だけを数えていた。
一秒でも長く。一瞬でも多く。
リシュヴァは、苛立っていた。
ネズミ一匹、一瞬で握り潰せるはずだった。
なのに、こいつは死に物狂いで食らいつき、「時間だけ」を消費させてくる。
「……何を待っているの? 逃げもしない、勝ち目もないのに……ネズミの分際で」
ふと、リシュヴァの意識に異質な違和感が混じる。
(餌が……あの小娘の生命活動が、消えた?)
リシュヴァの感覚の中で、監禁していたリィナの糸が切れたように崩れ落ちた。
「あら……人形が壊れた? 気絶したか、自害したか……つまらないわね。興醒めだわ」
その言葉が終わると同時に、ほんの一瞬、遠くの拘束空間へと向いた。
——その刹那。
悠真が、捨て身の突進を仕掛けた。
盾を捨て、ただ剣一本にすべての魔力を込めた、文字通りの特攻。
「行か……せないッ!」
ガキィィィンッ!!
「……ふふ、そうだったわ。もうあの小娘は用済み。
だって、お前をここで消せば、すべて片付くもの。所詮、ただの餌……哀れな小道具に過ぎなかったのだから」
そう言いながら、リシュヴァはリィナの拘束を解いた。
途端、膨大な魔力が奔流のように彼女の体内へ還り、眼前の標的を消し去るための術式が一瞬で構築されていく。
大気が鳴動し、森の木々が黒い渦に呑み込まれていく。
――まさに今。
それは、
セレスがリィナを奪還するための、
最短で唯一の――そして最も危険な、
空白だった。
悠真の瞳が、燃えた。
「今だ、セレス……!」
ありがとうございます。
この先、戻れません。
次回『絶望の淵で、まだ立ち上がる』
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