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第93話: 魔将の餌となった猫耳少女

北部戦線は――崩壊した。

指揮系統は断たれ、陣形は裂け、

統制は消えた。


残されたのは、

包囲をかろうじて抜けた者たちの、

泥を這うような敗走だけ。


「止まるな! 振り向くな!

生き残るんだっ!!」


叫びは冷たい風に掻き消される。

背後で爆音が響くたび、

誰かの命が露のように消えた。


振り向いた兵の視界を、

巨大な黒い影が薙ぎ払う。

影が膨張し、

次の瞬間には兵ごとその場から呑み込んで消し飛ばしていた。


悲鳴すら、残らない。


別の場所では、負傷した戦友を担いだ若い兵士が森へ駆け込んでいた。


「もう少しだ……あと少しで――」


地面から噴き出した蛇が、

その足首を容赦なく絡め取る。

倒れ込みながらも仲間を庇う。


だが、

降りてきた「影」に森の奥は沈み、

血の匂いだけが広がった。


包囲は、完成していた。


閉じた輪の内側。

立ち昇る黒煙の下に、

もはや「戦線」など存在しない。


あるのは掃討。

あるいは「処理」という名の蹂躙だ。


グローデンが歩くたび、

大地が沈み、

抵抗する兵たちが等しく踏み潰される。


盾も、魔術も、誇りすら、

そこでは何の意味も成さなかった。


そして、包囲の外側。

奇跡的に逃げ延びた者たちを待っていたのは――リシュヴァ。


彼女は影を広げ、

森そのものを魔力で侵食していた。


「あぁ、そんなに焦らないで」


無数の蛇が囁く。


「……恐怖っていうのはね、

一番に熟れた『その瞬間』を摘み取るのが、最高に美味しいのよ」


影が枝の間を縫い、

逃げる兵の足を一本ずつ摘み取っていく。


北部戦線は、この日、

地図から消えようとしていた。


♦︎


森の奥。


空間が裂け、

転移の光とともに悠真とセレスが転がり出た。


「はぁ……はぁ……ッ!」


セレスの顔は蒼白だった。


「……南西三十キロ圏内。

でも、まだ安全じゃない……」


言葉の途中で膝をつく。

魔力の消耗が激しい。


悠真は立ったまま、動かない。

遠く、空を汚す黒煙を見つめている。


「……終わった」


感情が削げ落ちた、空虚な声。


セレスは息を整え、顔を上げた。


「終わっていないわ」


静かに。

揺れはあるが、声は落ち着いている。


「北は崩れた。でも王都は残っている。

中央もまだ持ちこたえている。

戦争は、一箇所で決まるものじゃない」


理性的な声音。

現実を直視しながら、

切り捨てない言葉。


だが。


「北は壊滅したんだ」


悠真が遮る。

声は、ひび割れた鏡のように冷たい。


「兵も、陣地も、全部」


「……リィナも」


沈黙。

風が森を揺らす。


悠真の拳が、

白くなるほど震えていた。


「……助ける」


小さく。

自分に言い聞かせるように。


セレスはゆっくり頷いた。


「ええ。必ず助けるわ」


感情論ではない。決意として。


悠真はかすかに笑った。

壊れたように。


「でも、どうやって?」


返答できない。分かっている。


魔将二人。

完全包囲。

圧倒的戦力差。


現実は重い。


「俺のせいだ」


ぽつり。


「俺が止まったから。

俺が、弱かったから……!」


「違うわ!」


セレスが叫ぶ。


「あなた一人に背負わせるほど、

王国は軽くない。

あなたは止まってなんていない!

あなたは――」


言葉が詰まる。


「リィナは、捕まった。それが現実だ」


悠真の目が、

濁ったままセレスを射抜く。


「俺は……災厄だ」


セレスの呼吸が乱れる。


「それは因果を飛躍させすぎよ。

あなたが弱かったから捕まったんじゃない。敵が強かったからよ」


理屈は正しい。

だが届かない。


その瞬間。


森の奥で枝が折れる音。


セレスが顔を上げる。


魔力反応が複数、しかも速い。


「……追ってきてる」


低い声。


「転移座標を読まれたわ」


影が木々の間を走る。

黒い気配。魔王軍の追撃隊。


執拗だ。狙いは明確、悠真だ。


「動いて!」


セレスが立ち上がる。


「もう一度跳ぶわ。長距離は無理。

でも刻めば逃げ切れる」


悠真は動かない。

足が地に縫い付けられたように。


「悠真!」


影が迫る。

矢が飛ぶ。

セレスが防壁を展開。衝撃が走る。


「……お願い、立って」


声が震える。


「今ここで止まったら、

本当に全部終わる」


悠真は動けない。

身体じゃない。心が、動かない。


リィナを置いてきた。

助けられなかった。

その事実が、足枷のように絡みつく。


「彼女が繋いだものを、

ここで断ち切るの?」


セレスの声が刺さる。


「あなたを生かすために、

あの子は残ったのよ!」


悠真の瞳が、揺れた。

脳裏に浮かぶ、遠ざかる彼女の姿。


(――信じてる。)


無音の言葉が、

胸の奥で火花を散らす。


蛇が幹を這い、牙が目前に迫る。


悠真は、

ゆっくりと拳を握りしめた。

まだ、何も決まっていない。

だが。


「……跳べ」


短く。


セレスが唱えると同時に、

光が走る。

影が食らいつく直前、

二人の姿は掻き消えた。


残されたのは、裂けた大地と、

執拗に匂いを追う黒い蛇だけだった。


♦︎


意識が浮上する。

冷たい、石の感触。


「……っ」


リィナは瞼を開けた。

薄紫の燐光が壁を伝う、

人工的な洞窟。


身体を動かそうとするが、

黒い蛇が四肢に絡みつき、

脈動しながら締め上げていた。


「……最悪」


小さく吐く。


声は震えていない。


恐怖はある。

でも、まだ飲み込まれていない。


「起きたのね」


甘い声とともに、

リシュヴァが現れる。

指先で蛇を撫でる。


「……暴れないで?

綺麗な表情が台無しよ。

……そう、その顔。希望が腐っていく瞬間を、もっと近くで、ねっとりと味わいたいの。」


「拷問? それとも餌?」


リィナは弱さを見せず、

リシュヴァを睨みつける。


リシュヴァが笑う。


「どちらも違う」


一歩近づく。瞳が、楽しげに細まる。


「あなたは鍵よ」


リィナの背筋が冷える。


「……悠真を釣るため?」


「賢い子」


蛇が顎を持ち上げる。

無理やり視線を合わせさせる。


「あなたが壊れれば、あの子も壊れる。

あなたが死ねば、あの子は暴走する。

……どちらも、

最高に美しい結末だと思わない?」


リィナは鼻で笑う。


「残念。あいつは、そんな単純じゃない」


だが、内心は震えていた。

悠真の、あの空虚な目が離れない。


「そうかしら?」


リシュヴァの指が頬に触れる。冷たい。


「あなたが惨めに泣き叫ぶ姿を見せても……それでもあの子は、来ないのかしら?」


沈黙。


リィナは目を逸らさない。


「泣くわけないでしょ」


強がりではない。意地だ。


「……あいつは来ないわ」


静かに。はっきりと言い切った。


リシュヴァの眉が、わずかに動く。


「ほう?」


「これは罠。見え見え。

あいつはもう、戦場を背負ってる。

あたし一人のために、

全てを捨てるようなバカじゃない」


言葉にすると、胸の奥が軋む。

でも続ける。


「来ない。来させない。

それがあたしの役目」


蛇が締まる。

骨が軋む。

呼吸が削れる。


それでも、視線は逸らさない。


リシュヴァはしばらく黙っていた。


「……素敵」


指先が、額に触れる。


「でもね。来る来ないは、

あなたが決めることじゃないの。

それはあの子が決めること」


リシュヴァが微笑むと同時に、

壁面に転移式の紋様が浮かび上がった。

広域伝播魔法。


「あなたの“位置”は、

もう撒いてあるわ。

魔力の波長、血の匂い。

あなたが息をするたび、世界に滲む」


理解する。

狩りだ。


悠真を理不尽な選択に追い込み、

精神を削り殺すための。


「あの子が理性を失えば、それでいい。

来なくてもいい。

焦ればいい。迷えばいいわ」


リシュヴァは愉悦に肩を揺らし、

闇の奥へと歩き出す。


「――いい子で待っててね。

あの子と、

もう少しだけ遊んでくるから」


足音が遠ざかる。

闇が戻る。


静寂の中、

リィナは深く息を吐いた。


来ないで。来てほしくない。

でも――。


リィナは視線を落とした。


黒い蛇のような魔力が、

肋骨を軋ませるほど締め上げている。


息が吸えない。


視界が白く弾ける。


だが。


(違う)


本気で殺す拘束ではない。

締める力に、わずかな“余白”がある。


殺すなら、もっと速い。

もっと確実に潰せる。


なのに――


潰さない。


(ああ、そういうこと)


私は餌だから。


悠真を引きずり出すための。


なら。

私はまだ“使い道がある”。


蛇が締め上げる。

骨が軋む。


それでもリィナは、ゆっくり目を閉じた。


(利用してやる……あいつを、絶対に。)

ありがとうございます。


まだ見えていない“何か”があります。


次回『影の魔女の甘い誘い』


面白ければ★お願いします。

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