第59話:馬車でセレスとリィナに挟まれる俺と、ヴァルドレアの暗いざわめき
「……計算が合わないわね」
馬車の揺れに身を任せながら、セレスが帳簿を覗き込み、指先で数字をなぞった。
「昨日までの補給計画と、今日の食糧袋の重さ。……誰か、途中で摘まんだ?」
外套の裾が風を孕み、銀色の髪先がきらりと光を弾く。
「俺じゃないぞ」
悠真は苦笑して、革手袋越しに頭をかいた。
「途中の休憩で、馬がちょっと食っちまったって可能性もあるだろ?」
「それはそれで、もっと計算が狂うわ」
セレスは細い眉をわずかに上げる。
「馬の消費カロリー、ちゃんと把握してる?」
「……そこまで言われるとは」
「冗談よ」
そう前置きしてから、彼女は小さく息を吐いた。
「まあいいわ。旅の荷物なんて、世界の縮図みたいなもの。多少の誤差があっても、前に進むしかないってことね」
「うふふ、相変わらずだね」
リィナが笑い、セレスの隣に腰をずらした。
橙色の髪を三つ編みにまとめつつ、視線は窓の外へ向けられている。
「でも、そのくらい細かいほうが助かる。あたし、数字はほんと苦手だから」
「――ねえ、悠真」
セレスがふと声を落とす。
「馬車って、揺れるわりに落ち着くのね。なんだか、数式を考えるには、ちょうどいいわ」
そう言って、外套を整えながら、自然な動作で悠真の隣に腰を寄せた。
長い髪が彼の肩に触れ、ひんやりとした香りが漂う。
「数式?」
悠真は天井を見上げて、曖昧に笑った。
「また計算か。食糧の残りでも数えてるのか?」
「ううん、もっと単純よ」
セレスは視線だけで彼を見上げる。
「あなたと、わたしと、リィナ。誰がどれだけ荷物を持って、どれだけ休めば効率がいいか――“旅の最適化”ってやつ」
唇の端が、わずかに上がった。
「不思議なのよ。あなたを計算に入れると、毎回“異常値”が出るの」
「……それ、褒めてるのか?」
「もちろん」
迷いなく、セレスは悠真の腕に軽く触れ、そのぬくもりを確かめるように身を寄せた。
「あなたがいると、安全率が跳ね上がる。“例外”にできる存在がいるって、安心するものなの」
向かいの席で、その様子をリィナがじっと見ていた。
揺れのせいか、頬がほんのり赤い。
「ね、ねえセレス」
少し遅れて、リィナが口を開く。
「あんまりくっつくと、悠真も困るでしょ」
「そうかしら?」
セレスは涼しい顔のまま、肩を預ける角度をほんのわずか変えた。
「揺れ止めにちょうどいいの。安全策よ」
「それに」
小さく続ける。
「彼の腕、驚くほど安定してる。旅する椅子としては、優秀ね」
リィナは視線を逸らしつつ、悠真の横にすり寄ると両手で膝を抱え込んだ。
「あたしだって――」
そこまで言って口をつぐむ。
悠真は二人に挟まれ、軽く肩をすくめた。
「おいおい、からかわないでくれ」
馬車は交易都市ファルネラを離れ、北西へ伸びる街道を進んでいた。広大な穀倉地帯を抜け、やがて低い丘と森が交互に現れはじめる。
季節はまだ初春のはずなのに、空気にはどこか張りつめた冷たさがある。
「ねえ悠真」
リィナが窓の外を指さした。
「あれが、例の町?」
進行方向に、大きな石造りの外壁と、見張り塔がいくつも連なる都市が姿をあらわしていた。
門前には旅人や商人の列ができ、護衛の兵士たちが通行証を確かめ、静かな緊張が漂っている。
悠真は頷き、革袋から地図を取り出した。
「大都市ローダンの外縁にある中継都市――〈ヴァルドレア〉だ。補給にはちょうどいい」
「噂の震源地、ってやつね」
セレスは窓枠に肘をつき、薄く笑った。
「こういう町の酒場には決まって転がってるものよ。英雄譚と怪談が、だいたい半々で」
馬車はゆっくりと速度を落とし、三人を乗せたまま、街の影へと近づいていった。
⸻
町の門をくぐった瞬間、空気が一段、重くなった。
人の多さと声の洪水。それだけならどの交易都市にもある。けれど、この町には――ざわめきの底に、張りつめた何かが沈んでいた。
通り沿いの露店には、剣や槍、簡易防具が所狭しと並び、乾燥肉や保存食、薬草の束が乱雑に積まれている。
商人たちは声を張り上げ、値を叩き合い、笑顔を作っているが――
その合間を縫うように、着古した外套を羽織った人々や、包帯を巻いた兵士の姿が目についた。
肩を落とした背中。視線を伏せたまま歩く足取り。
活気と不安が、同じ通りで同時に息をしている。
「……なんか、思ったよりもピリピリしてる」
リィナが耳を伏せ、声を潜めた。
「戦況が悪化してる証拠よ」
セレスは通りを一瞥し、淡々と言った。
「人はね、不安な時ほど声が大きくなる。飲んで、笑って、騒いで……そうしないと、夜を越えられないから……よくある話よ」
悠真は答えず、二人を促すように歩調を早めた。
町の中央広場に面した、ひときわ大きな木造の建物。年季の入った看板には、《勇者の角笛亭》の文字。
「ここにしよう」
昼間だというのに、扉の向こうはすでに満席だった。
扉を押し開けた途端、熱気とともに、酒と燻製肉の匂いが一気に押し寄せてくる。
油染みの床、壁に掛けられた鹿角と盾、揺れるランタンの光が、酔客たちの顔を赤く照らしていた。
怒号と笑い声が渦を巻き、断片的な言葉が、耳に飛び込んできた。
「黒炎の城、勇者たちが攻め落としたらしいぞ!」
「おい、それ、本当か? おめぇ、到底落ちないだろうって言ってたじゃねぇか」
「いや、確かな筋から聞いたんだ」
「…ついにあの魔城が――」
「……でも、無事じゃ済まなかったって話だ」
「仲間を何人も失ったとか……」
「冗談だろ……他の前線は総崩れだって聞くぜ」
「竜までやられてるって……もう、終わりなんじゃねぇか」
朗報と悲報が、同じ杯の中で混ざり合っている。
酔いで赤くなった顔、震える指、無理に笑い飛ばす者、誰もが噂を掴み、噛み砕き、都合のいい形にして飲み込んでいた。
悠真たちはそんな喧騒をすり抜け、壁際のカウンターの隅に腰を下ろした。
椅子は硬く、傷だらけの木の感触が手に伝わる。
給仕の少年が忙しそうにグラスを拭きながら顔を上げる。
「いらっしゃい、何にする?」
「鹿肉の煮込みと黒パン、それにエールを」
悠真が即座に答える。
「あたしはミネストラとチーズ、温かいミード」
リィナが続ける。
「じゃあ私は――この町で一番辛いシチューと、冷えた白ワインを」
セレスがさらりと言い、視線を客席に走らせた。
料理を待つ間も、ざわめきは途切れない。
勇者の戦果、失われた仲間、竜の噂――誰もが、明日の生存率を量るように言葉を重ねている。
「黒炎の城……本当に落ちたのかな」
リィナがぽつりと言った。
「勝っても、負けても、血は流れるわ」
セレスがスプーンを指先でくるくる回しながら、皮肉っぽく笑った。
「それに、今聞こえた話の半分は誇張。四分の一は伝言ゲーム。残りだけが……たぶん、事実ね」
「それでも、あの三人が前に進んでるのは確かだ」
悠真は静かにうなずいた。
「すごいと思うよ。……でも、あいつらが無事かどうかはわからないし、俺たちは俺たちで、もっと力をつけなきゃいけない」
その横顔を見て、セレスは一瞬、言葉を失った。
理由はわからない。ただ、胸の奥が妙に熱い。
「……悠真、あなたって、不思議な人ね」
「え? 急にどうした」
「あなたを基準にすると、人生の計算式がいつも崩れるの」
セレスは冗談めかして笑う。
「でも……その誤差、嫌いじゃないわ」
リィナは視線を落とし、指先をぎゅっと握った。
「……あたしも。あたしだって、悠真の隣に立てるくらい、強くならなきゃ」
そのとき、奥のテーブルから、低い声が聞こえてきた。
「飛行魔物が輸送路を潰してるらしい」
「護送隊が、丸ごとやられたってよ」
一瞬、空気が沈む。
すぐに別の笑い声がそれを掻き消したが――不穏な響きは、静かに残った。
ありがとうございました。
まだ“底”です。ここから上がります。
次回『輸送路の惨状と空の脅威』
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