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第58話: どうか笑わずに待っていてほしい

ルヴェリアの瞳が驚愕に見開かれる。


彼女でさえ成し遂げられなかった精度と速さで、氷壁が完成していた。


だが同時に、セレスの身体は大きく震えていた。小さな肩が上下し、膝が折れそうになる。


借りた力が大きすぎたのだ。幼い身に精霊の奔流はあまりに大きく、吐息が白く濃くなる。


そのとき、ルヴェリアがすぐ背後から抱き寄せた。


「もういい、よくやった……!」


その声は、初めて聞くほど優しかった。


セレスは霞む視界の中で、ルヴェリアの横顔を見つめた。


戦いの最中でも、その瞳は鋭く、髪は雪に濡れながら赤銅色に輝いている。


――ああ、この人みたいになりたい。


その思いだけが胸に浮かび、あとは意識が遠のいていった。


セレスの身体が力尽き、雪の上に崩れ落ちた瞬間だった。


祭壇の奥に鎮座する《氷柱の盾》が、深く澄んだ音を響かせた。


それは氷がきしむ音でも、鐘のような金属音でもない。氷精霊そのものの声が、空気の中に溶け出したかのような音だった。


青白い光が盾の縁からほとばしり、雪嶺の村全体を包むように広がっていく。


その光は次第に形を持ち、無数の細かい霜の粒子となって宙に浮かび、やがて村を取り囲む巨大な氷の結界を形成した。


ひび割れ崩れかけていた盾が、その瞬間だけ、蒼白の輝きを取り戻したのだ。


まるで、長きにわたる守護の役目を終えるため、最後の一滴まで力を振り絞り尽くしたかのように。


結界は雪嶺の峰々まで届き、魔物の突進をことごとく弾き返した。


「……っ、これは……」


ルヴェリアが振り返り、目を見開く。


自分の魔法でもなく、村人の祈りでもない、セレスひとりの叫びと盾の響応が、ここまでの奇跡を生み出したのだ。


結界の外では、なおも魔物たちが咆哮を上げていた。


だが氷の壁は崩れない。むしろ内側から伸びるように霜の棘が突き出し、群れを押し戻していく。


まるで村そのものが巨大な氷精霊に守られているかのようだった。


ルヴェリアは荒い息をつきながら、杖を握る指を白く染めた。


雪原に横たわるセレスは、もう動かない。


祭壇の《氷柱の盾》が生んだ結界は、なおも村を守り続けていた。


だが――その結界の内側にも、数体が入り込んでいる。


牙を剥き、逃げ場を失った獣のように、凶暴さを増していた。


「……っ来るな……!」


ルヴェリアは杖を振り抜き、雷光を叩きつける。


紫電が雪を割り、魔物の一体を焼き焦がす。しかし息を整える暇もなく、別の影が脇腹へ飛びかかってきた。


咄嗟に腕で防ぐと、爪が外套を裂き、血が飛んだ。


鋭い痛みに視界が歪む。彼女はよろめきながらも杖を突き出し、炎の奔流を吐き出させた。


爆風が二体まとめて吹き飛ばすが、衝撃で自分も膝をつく。


「まだ……終われない……」


雪を握りしめ、立ち上がる。


息は白く荒れ、胸は痛み、魔力が指先からこぼれ落ちそうだった。それでも足を前へ出した。


ひときわ大きな魔物が、低い唸り声とともに背を丸め、突進してくる。


ルヴェリアは後ずさりしながら杖を構え、氷の槍を呼び出す。


鋭い氷槍が幾本も生まれ、獣の胸を狙う。しかし獣はそれを砕き、なお勢いを止めない。


「くっ……!」


避けきれない。


そう思った瞬間、ルヴェリアは杖を地面に突き立て、周囲の雪を渦に変えた。


風が唸り、獣の足元を奪う。バランスを崩した隙に、彼女は至近距離から光の槍を叩き込んだ。


眩い閃光。爆ぜる衝撃。


獣が倒れ、雪煙が舞い上がる。


視界が真っ白に霞む。耳鳴りが続き、立っているのか倒れているのか分からなかった。杖を握る手は汗と血で滑り、吐く息は凍るように痛い。


「あと……少しよ……」


ふらつく足を無理やり踏み出し、残る影へ向かう。


魔物が振るった爪が、頬をかすめた。


温かい血が雪に散る。だがルヴェリアは怯まず、杖の先に小さな光球を宿した。


次の瞬間、それは弾丸のように魔物の頭蓋を貫いていた。


残り一体。


牙をむき、背を丸める影。自分の魔力はほとんど残っていない。呼吸を整えることもできない。それでも杖を上げた。


「おねがい……これで……終わって……!」


最後の魔力を絞り出し、雷氷風をひとつに束ねる。


稲妻の軌跡が雪面を走り、氷の槍がその背を貫き、風の刃が首を裂いた。


魔物が絶叫し、雪に崩れ落ちる。


静寂。


ルヴェリアは杖に体を預け、その場に膝をついた。


視界の端で、氷の結界が青白く輝き、村を守り続けているのが見える。


「よかった…..」


顔を上げると、村人たちが息を呑みながらこちらを見ていた。


誰かが堪えきれずに駆け寄り、ルヴェリアの肩を支えた。


「ルヴェリア様……あなたがいなければ、村は……!」


別の者が膝をつき、血の滲む彼女の袖を見て顔を歪めた。


「こんなに……傷を……」


「もう大丈夫です、休んでください、結界が――」


口々に感謝と安堵の声が飛び交う。恐怖に震えていた村人たちの目に、いま初めて光が宿っていた。


ルヴェリアは弱々しい笑みを浮かべ、肩で息をしながら首を振った。


「……私じゃない……あの子よ」


囁くようにそう告げると、視線を結界の中心に向ける。


そこには、雪の上に横たわる小さな影――セレスがいた。


村人たちが一斉にその方向へ目を向ける。


その静かな動きは、雪崩の前触れのようにゆっくりだが、確実に広がっていった。


「……あの子が……」


「《氷柱の盾》が……応えたのか……」


小さな囁きが雪のように広がっていく。


長老が杖をついて歩み出る。


セレスに手を伸ばしかけ――その寸前で、指を止めた。そして、何も触れぬまま深く頭を垂れた。


「雪嶺の守り手……この目で見ることになるとは……」


その言葉に、村人たちの視線が、自然と雪へ落ちた。


誰に命じられたわけでもない。そうするのが正しいと、全員が悟ったのだ。


雪の中、ひとり立ち尽くすルヴェリアは、震える指先で杖を握りしめた。


血で濡れた外套、裂けた袖、浅く荒い呼吸。


――あの子の結界が、わたしをも守ってくれていた。


――もう、あの子は私を追い越し始めているのかもしれない。


視線の先で、セレスは静かに眠っている。


声をかけようとは思わなかった。ただ、守られている村と、その中心にいる少女の姿を目に焼きつけた。


氷精霊の囁きが、遠くからかすかに響く。


雪嶺の村に、ようやく静けさが戻った。だがその静けさは、もはや以前と同じ意味を持っていなかった。


ーーーーー


――これは、あのとき雪の上に倒れていた私自身の記憶だ。


あの日から、もう二年と少しが経った。


時間というものは、氷と似ている。


溶けるのにひどく長くかかるかと思えば、一瞬で砕け散ることもある。


私にとってルヴェリアとの日々は、いまだ胸の奥で解けずに残っている氷片のようなものだ。


触れれば痛むし、同時にどこか甘美でもある。


いや、甘美というよりは、そうだな……例えるなら、数式がようやく答えに収束した瞬間の心地よさに近い。


最後に彼女を見たのは、戦いの後だった。


荒れ果てた大地の上、血と炎と氷が交じり合う中で、彼女は微笑んでいた。


あの微笑みは、何というか……不公平だ。


勝利の証とも別れの合図ともつかない顔で、「じゃあね」と一言だけ残して背を向けたのだから。


私は呼び止められなかった。いや、呼び止める方程式が頭に浮かばなかったと言うべきか。


どんな言葉を並べても、彼女の歩みを止める係数にはならなかっただろう。彼女は、外の世界へ進むことを選んだ人だった。


村に残った私は、氷魔法の鍛錬に没頭する日々を送っている。


鍛錬といっても華やかなものではない。朝、凍てつく泉で魔力の流れを整え、昼は畑の雪解けを手伝いながら術式の応用を考える。


夜になると、ひたすら氷柱を打ち出し、その形と強度を観察する。


要するに、氷と私、そして計算ばかりの生活だ。


退屈かと問われれば、まあ、答えは否だな。


退屈という概念は「目的-手段=0」のときに成立する。私はまだ解に到達していない。だから退屈にはなりようがないのだ。


ただ、時折思い出す。ルヴェリアの背中を。


彼女の術が描いた軌跡を。そして、私に残した言葉を。


――「またね」。


この曖昧で、しかし確かに希望を含んだ一言が、今の私を動かしている。


私は彼女に追いつくと決めた。方程式で言えば、私の未来=ルヴェリア+α、というやつだ。


αは努力でも執念でも、あるいは未だ解けぬ感情でもいい。とにかく、解を導き出すために私は氷魔法を磨き続けている。


村の人々は私を少し変わり者だと思っているらしい。「理屈っぽい」と笑われることもしばしばだ。


けれど、自分ではそれほど自覚がない。私はただ、物事を理解しやすい形に並べ替えているだけだ。


氷の結晶が六角形を選ぶように、私の言葉も自然に数式めいてしまうのだ。


まあ、正直に言えば、時々「面倒な性格だな」とは自分でも思う。けれど、それもまた私という方程式の一部。消去するには惜しい。


だって、ルヴェリアはそんな私を否定しなかったのだから。


……そう、彼女は否定しなかった。


戦いの最中も、私が理屈を並べ立てた時も、彼女は苦笑しながら受け止めてくれた。


あの寛容さがどれほど貴重だったか、今になって思い知らされる。


だから私は、彼女にもう一度会いたい。ただ再会するだけではない。


胸を張って「ここまで来た」と言える自分でありたい。追いつき、肩を並べ、その先で新しい定理を描きたい。


いつの日か。


その言葉を、私は何度も心の中で反芻する。


氷が溶け、水となり、再び凍り、また形を変えるように、時間が巡ってもこの誓いは消えない。


ルヴェリア。あなたは今どこを歩いているのだろう。


遠い地で、知らない誰かと笑っているのだろうか。それとも、一人で杖を振り続けているのだろうか。想像するたび、胸の奥がぎゅっと痛む。


でも、その痛みは私を立ち止まらせない。むしろ逆だ。


あなたの背中を思い出すほど、私は足を前に出す。


だから今日も、私は氷柱を打ち出す。砕け散る音は、未来へと伸びる合図だ。


「努力=私の毎日。結果=あなたに届く日。


まだ答えは出ていないけれど、必ず解いてみせる」


氷魔法を操る少女、セレス。


私は、必ず、あなたが歩んだ先に辿り着く。


この村の片隅で氷と語らう私が、遠い未来のあなたに並ぶことを、


――どうか笑わずに待っていてほしい。


夜空に凍りつく星々が瞬いた、まるで、その声を聞いているかのように輝いた。


ーーーーー


――その美しい誓いは、ひどく泥臭い喧騒にかき消される。


場所は現在、中継都市〈ヴァルドレア〉の酒場。


馬車を降りた悠真たちが足を踏み入れたその店内で、彼らの耳には届かない席から、酔客たちの粗野な声が漏れていた。


「おい、黒炎の城で勇者を庇い、殿しんがりを務めた天才魔術師……あの赤銅色の髪の女が、崩落に巻き込まれて行方不明だって噂、マジなのか……!?」

第58話、ありがとうございます。


ここからが本当の戦いです。


次回『馬車でセレスとリィナに挟まれる俺と、ヴァルドレアの暗いざわめき』


★での応援、励みになります。

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