第11話:鏡の中の猜疑
「がはっ……っ!?」
死角からの痛烈な一撃。
石壁に叩きつけられた悠真の視界が、火花を散らして暗転しかける。
手から滑り落ちた槍が、カランと虚しい音を立てて床を転がった。
「悠真――ッ!!」
リィナの絶叫が木霊する。
彼女は即座に矢を放ち、悠真に迫る黒い質量を射抜いた。
だが、その一瞬の隙を影喰いたちは見逃さない。
別の影が、獰猛な爪を剥いてリィナへと肉薄する。
「きゃっ……!?」
痛ましい悲鳴と共に、リィナの白い腕から鮮血が飛び散った。
「あ、ぐ……っ」
至近距離での強襲。
弓を持つ細い手が激しく震え、次の矢をつがえる余裕すら与えられない。
瞬く間に三体の影喰いが彼女を壁際へと追い詰め、その細い喉元へ黒い牙を突き立てようと迫る。
(クソッ……ここまで、なのか……!?)
激痛の走る脇腹を押さえ、悠真は必死に手を伸ばして槍を拾い上げる。
だが――その混乱の中、ふと目に入る光景があった。
倒すたびに増える影。
そして、増殖を繰り返すごとに、壁の発光苔が、目に見えて衰弱し、輝きを失っていく。
まるで、何かがこの空間のエネルギーそのものを貪り喰っているかのように。
「……そうか」
悠真は歯を食いしばり、弱っていく発光苔と影の増え方を同時に見た。
「リィナ! 影じゃなく、本体を探すんだ!」
「本体……?」
リィナが驚きに目を見開く。
その瞬間、背後で影が牙を剥き、再び喉元に迫った。
「光が吸われていく方向だ!こいつらが偽物ってわけじゃない。でも本体がいる……光を喰ってる核だ! きっとどこかに隠れてる!」
リィナは光が消えていく方に耳をすませた。
猫耳族の驚異的な聴覚が、闇のざわめきを、悲鳴を、怒号をすべて濾し取っていく。
その最奥――右奥の崩れた石壁の裏から、ドクン、ドクンと不気味に脈打つ「心臓の音」を捉えた。
「――あった! 壁の向こうに、何かいるっ!」
「任せろ!」
悠真は爆発的な踏み込みで、敵を蹴散らしながら突進する。
全ての群れが一斉に背後から追い縋る。
リィナが負傷した腕で、目標の先へと一筋の矢を放った。
「そこかあ!」
一歩。二歩。最短距離で肉薄する。
壁際にたどり着いた瞬間、悠真は高く跳躍し、己の全体重と闘志のすべてを白銀の穂先へと込めた。
「天穿――貫けええええッ!!」
叫ぶと同時に渾身の一撃が石壁を爆砕し、その奥に隠されていた禍々しい黒い結晶を深々と突き穿つ。
――ギチィィィィィィィィアアアアアッ!!!
耳を裂くような、世界の悲鳴。
結晶がパキンと音を立てて粉砕された瞬間、広間を埋め尽くしていた影喰いたちの群れが、煙となって霧散していった。
静寂が、まるで真空のように空間を支配した。
「ふぅ……、あ、危なかったにゃ……」
リィナがその場にへなへなと座り込み、大きく肩を揺らして息を吐いた。
悠真は槍を引き抜き、額の汗を拭う。
「……危なかった。リィナがいなけりゃ、確実に詰んでた」
リィナは痛む腕を押さえながら、ふいと顔を上げて、いたずらっぽくニヤリと笑った。
「お互い様だよ。アタシが援護して、悠真がトドメを刺す。……やっぱり、アタシたちって最高のコンビだね」
「そうだな、相棒。……頼りにしてるよ」
悠真が屈託のない笑みを向けると、リィナは一瞬、言葉を失ったように目を丸くした。
ランタンの微かな残光に照らされた悠真の横顔が、いつもより妙に大人びて、頼もしく見えた。
リィナの胸の奥が、ふっと高鳴った。
「ん? どうした、顔が赤いぞ」
「……っ! な、なんでもないってば! ほら、早く先を急ぐよ!」
慌てて視線を逸らすリィナに、悠真は首をかしげるだけだった。
しかし、迫る現実が二人の甘い余韻をすぐに打ち消した。
「……悠真。ここ、どう見ても中層なんかじゃないよね?」
リィナの声から、いつもの軽快さが完全に消えていた。
「ああ。漂う魔力の質が違いすぎる。床が抜けたせいで、予定よりずっと深いエリアに落ちてしまったみたいだ」
「……上に戻る道は、ない。なら、進むしかない、か」
リィナが無理に作った笑顔の裏で、彼女の尻尾はピンと張り詰め、恐怖に警戒していた。
悠真は静かに頷き、槍を強く握り直す。
「覚悟を決めよう」
ーーー
階段を降り切った瞬間、二人は息を呑んだ。
そこは、これまでの泥臭い洞窟とは明らかに違う、異様な空間だった。
床も壁も天井も、冷徹に磨き上げられた鏡面で覆われている。
蠢くような生物的な銀色の輝きを放っていた。
一歩踏み出すだけで、無数の自分が無限に連なり、上下左右の感覚が一瞬で狂う。
「こりゃあ……ただの階層じゃないな」
リィナが尻尾をピンと立て、掠れた声で言った。
「冒険者ギルドで噂になってたやつだ……鏡の迷宮の魔物。最下層のボスじゃないかって話だったにゃ……」
その言葉が無数の鏡に反響し、不気味に幾重にも重なった。
悠真は冷や汗を拭い、鏡の中の自分を凝視した。
(……今、俺の幻影が、僅かに笑わなかったか?)
鏡の中の悠真は瞬きをせず、首の動きが現実よりも僅かに遅れ、口角がゆっくりと不気味に吊り上がっていく――。
「悠真……?」
リィナが怪訝そうに振り返った、その瞬間だった。
――ゴボリ、と。
硬質であるはずの鏡面が、水面のように音もなく揺らめいた。
美しい波紋が広がり、その銀色の深淵から、一歩、また一歩と人影が歩み出てくる。
それは――悠真自身だった。
「……っ!?」
悠真は反射的に槍を構える。
服装も、体格も、白銀の槍も、完全に同じ“もう一人の悠真”。
「な、なにこれ……幻影魔法……!?」
リィナの声が恐怖に震える。
別の鏡面から、今度はリィナ自身が這い出てきた。
本物と寸分違わぬ姿、同じ武器、同じ猫耳を揺らして。
偽物の悠真が、本物と全く同じ声で静かに冷ややかに言った。
「……相棒、なんて言葉を本気で信じてたんだ?」
「え……?」
「お前が後ろにいるだけで、俺の動きが全部鈍る。ただ足が速いだけの獣だよ。ここまで連れてきたのは、俺の最大の失敗だった」
リィナの顔からみるみる血の気が引いていく。
畳みかけるように、偽物のリィナが愛らしい声で、甘く残酷に囁いた。
「悠真ぁ……本当にアタシを信じてるの?
『いつかこの子は牙を向けるんじゃないか』って、心のどこかでずっと怯えているんでしょ?」
「――っ……!!」
胸の奥を抉られるような衝撃が悠真を襲う。
二人が絶対に口にしなかった、最も醜く澱んだ猜疑心を、完璧に突かれた。
「……こいつら、俺たちの心の迷いを、正確に抉ってくる気か……!」
幻影たちが一斉に凶刃を剥いた。
「来るぞ、惑わされるな!」
悠真の叫びと同時に、二本の槍が同時に閃いた。
鏡像のように完全に重なり合い、穂先が正面から激突する。
耳を劈く金属音と共に火花が爆ぜた。
「ちぃっ……! まるで鏡合わせだな!」
リィナの矢も、偽リィナの矢と正面衝突し、木端微塵に砕け散った。
その混沌の中、偽物の悠真が嘲るように勝ち誇った笑みを浮かべた。
「ほら見ろ、リィナ。お前の矢は遅い。もう俺の戦いの速度にはついてこれないんだよ」
「あ……ぐ……っ!」
致命的な動揺の隙を、偽リィナの矢が容赦なく頬を切り裂いた。
「リィナ――ッ!!」
その叫びと同時に――鏡面がカチリと音を立てて歪んだ。
偽者たちの輪郭がぼやけ、魔力が目に見えて膨れ上がる。
(心が揺らぐたび……奴らが強くなる……?)
「よそ見をしていいのか?」
仲間を案じた一瞬の隙に、偽悠真の槍が神速の突きで迫る。
さらに追い打ちのように、偽リィナが歪んだ笑みで囁いた。
「ねえ、悠真ぁ……いつまで前世の秘密、隠し通すつもりなの?
相棒だなんて言っておきながら、結局アタシのこと『便利な道具』くらいにしか見てなかったんでしょ?」
「違う……っ! そんなわけ、あるか……っ!!」
その激昂が、最悪のトリガーとなった。
――ガコンッ……!!!
床下から、空間全体が鳴動するような、不気味で重苦しい駆動音が響き渡った。
鏡が生き物のようにぐにゃりと歪み、ヒビのような黒い筋が無数に走った。
偽者たちの肉体から溢れる魔力が、一回り大きく膨れ上がっていく。
「そんな……嘘、でしょ……?」
リィナの声が震え、目がうるんでいた。
悠真は歯を喰いしばり、最悪のルールを理解した。
――この空間は、心を試す試練。
互いへの不信、恐怖、迷い――心を囚われれば囚われるほど、幻影はどこまでも「本物以上に」強くなっていくのだ。
ありがとうございます。
この先、もう戻れません。
次回『心の枷を砕いて』
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