第5話:「指名不可」
金曜の夜だった。
仕事を終えて帰宅し、
スーツのままソファに倒れ込む。
奏は重くなってきた前髪をかき上げながら、
スマホを開いた。
「あ……そろそろ行かなきゃ」
最近また忙しい。
気づけば残業続きで、
鏡を見る余裕もなかった。
美容院の予約アプリを開く。
いつもの店。
いつもの担当。
もう流れ作業みたいに、
自然と指が動く。
『一ノ瀬玲』
その名前を押して──
奏は止まった。
「……え?」
画面に表示された文字を、
もう一度見る。
『指名できるスタッフが存在しません』
一瞬、
意味がわからなかった。
アプリの不具合かと思い、
ページを更新する。
もう一度検索する。
それでも、
一ノ瀬玲の名前は出てこない。
「……は?」
心臓が嫌な音を立てた。
急いで店のホームページを開く。
スタッフ一覧。
見慣れた写真の並び。
その中に、
玲だけがいなかった。
喉の奥が、
妙に乾く。
「……辞めた?」
ぽつりと呟く。
異動?
退職?
独立?
何も聞いていない。
最後に会ったのは一ヶ月半前。
いつも通り、
軽口を叩いて、
笑って、
「またね」
って終わった。
なのに。
もういない。
それだけで、
部屋の空気が急に冷えた気がした。
奏はスマホを握ったまま、
しばらく動けなかった。
おかしい。
ただの美容師だ。
何年か通っていただけの、
担当美容師。
それなのに。
どうしてこんなに、
落ち着かないんだろう。
胸の奥が、
妙にざわつく。
喪失感に近い何かが、
静かに広がっていく。
「……何やってんだ、俺」
小さく息を吐き、
ソファに沈み込む。
玲は人気美容師だった。
独立してもおかしくないし、
辞める理由だっていくらでもある。
別に、
自分へ連絡する義理もない。
わかってる。
わかっているのに。
奏は無意識に、
店のSNSを開いていた。
スタッフアカウント、
個人アカウント、
タグ検索。
玲の名前を探してしまう。
でも出てこない。
「……マジか」
こんなに探している自分に、
少し引いた。
スマホを置こうとして、
また画面を見る。
最後に玲が切った髪。
前髪の流れ。
横の軽さ。
セットのしやすさ。
全部、
玲仕様だった。
その事実に、
今さら気づく。
自分はずっと、
玲に髪を作ってもらっていた。
玲じゃないと、
どう頼めばいいかわからないくらいに。
奏はスマホを伏せ、
深く息を吐いた。
「……別の美容院、探すか」
そう呟いた声は、
思ったより空っぽだった。
読んでいただきありがとうございます!
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久しぶりに行くと美容院の担当さん辞めてたことよくありません?私は割と何度か経験あります…
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