ホワイトデー前編:「見間違い」
バレンタインの翌日。
朝。
奏は部屋を片付けながら、
ソファの隙間に小さな黒いケースを見つけた。
「……玲さんの」
昨日泊まった時、
外したピアスケースだった。
奏はそれを手に取る。
玲らしい、
シンプルな黒。
「忘れてる……」
少しだけ笑ってしまう。
仕事帰りに渡そうかとも思った。
でも今日は、
たまたま玲の美容院近くで外回りの予定がある。
「……今届けるか」
◇
昼過ぎ。
美容院の前へ着く。
昼間の玲の店を見るのは、
なんだか少し新鮮だった。
ガラス越しに見える店内。
明るい照明。
営業中の空気。
玲は鏡越しに客と笑っていた。
楽しそう。
仕事中の玲は、
やっぱり格好いい。
奏は少しだけ口元を緩めながら、
扉へ手をかけた。
その瞬間。
「……え」
奥。
玲が女性客へ顔を近づけていた。
距離が近い。
近すぎる。
玲の手が、
相手の頬へ軽く触れている。
そして。
顔が重なるように見えた。
一瞬。
思考が止まる。
「……っ」
キス。
そう見えた。
胸が、
どくんと大きく鳴る。
頭が真っ白になる。
え。
何で。
だって。
え?
玲はいつも通り自然だった。
まるで慣れているみたいに。
その光景が、
余計に苦しい。
奏は反射的に扉から手を離した。
息が浅い。
何でこんなに苦しいのか、
自分でもわからない。
でも。
見たくなかった。
「……何やってるんだろ」
自分に言い聞かせるみたいに呟く。
見間違いかもしれない。
仕事かもしれない。
わかってる。
でも。
あんな距離。
簡単に割り切れなかった。
奏はそのまま店へ入れず、
受付横のカウンターへピアスケースだけ置いた。
スタッフはいない。
だから余計に、
逃げるみたいだった。
「……すみません」
小さく呟いて、
そのまま店を出る。
足が少し速くなる。
胸の奥がずっとざわついていた。
◇
「ありがとうございましたー」
数十分後。
客を見送った玲は、
軽く肩を回しながら受付へ戻った。
そこで。
「あれ?」
カウンターの端。
見覚えのある黒いケース。
玲は目を瞬く。
「……俺のピアス?」
昨日、
奏の部屋で外したやつだった。
玲は周囲を見回す。
でももう、
奏の姿はない。
「え、
来てた?」
玲はスマホを取り出す。
【来てた?】
数秒後。
【仕事のついでに寄りました】
短い返信。
玲は少し眉を寄せた。
【気付かなかった、ごめん】
【大丈夫です】
それだけ。
いつもなら、
もう少し柔らかい。
なんとなく、
距離がある。
玲は画面を見たまま、
小さく息を吐いた。
「……何かあった?」
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