第23話:「帰したくない」
水族館を出た瞬間。
「うわ」
玲が空を見上げた。
次の瞬間、
大粒の雨が落ちてくる。
「あ、やば」
一気に強くなる雨音。
奏は思わず肩を竦めた。
「玲さん傘は?」
「持ってない」
「俺もです……」
「最悪」
そう言いながら、
玲はどこか楽しそうだった。
二人で駅前の屋根まで走る。
それでも結構濡れた。
奏の前髪から雫が落ちる。
「うわ、結構びしょびしょ」
「玲さんのせいですよ」
「え、俺?」
「水族館行こうって言ったから」
「あはは、ごめんって」
笑いながら、
玲が奏の濡れた髪を軽く払う。
その仕草が自然すぎて、
また心臓がうるさくなる。
雨はまだ強い。
しばらく止みそうになかった。
玲は少し考えてから、
さらっと言った。
「近いから俺んち来る?」
奏の思考が止まる。
「……え」
「このまま帰ったら風邪ひくでしょ」
いや、
それはそうなんだけど。
玲の家。
その単語だけで、
急に緊張が押し寄せる。
「嫌なら全然いいけど」
「っ……嫌じゃないです」
玲が少し笑った。
「じゃ、決まり」
そこからはあっという間だった。
玲の部屋は、
店から少し離れたマンションの一室。
オートロックを抜けて、
エレベーターに乗って、
玄関のドアが開く。
「適当に入って〜」
その自然さに対して、
奏の心臓だけが異常にうるさい。
部屋は、
玲らしかった。
シンプルだけどおしゃれで、
ちゃんと生活感もある。
ソファ。
読みかけの雑誌。
棚に置かれた香水。
そして。
「……」
洗面所から漂う、
玲と同じシャンプーの匂い。
いつも店で感じる香り。
それが部屋中にある。
奏は急に落ち着かなくなった。
「はいタオル」
振り向くと、
玲が大きめのタオルを持って立っていた。
「風邪ひく」
「ありがとうございます……」
受け取ろうとした瞬間、
玲がそのまま奏の頭をわしゃわしゃ拭き始める。
「ちょ、玲さん」
「動くなって」
「子ども扱いしないでください」
「はいはい」
完全に楽しんでる声。
でも、
拭く手は優しい。
髪に触れられる感覚はもう慣れているはずなのに、
場所が違うだけで全部おかしくなる。
玲は濡れた前髪を指で流しながら、
ふっと息を吐いた。
「……やば」
「何がですか」
玲は少し黙ってから、
困ったみたいに笑った。
「好きなやつ家にいる」
その一言で、
奏の顔が一気に熱くなる。
「玲さんっ……」
「だって事実じゃん」
玲は少しだけ奏を見つめて、
それから自然に言った。
「シャワー浴びる?」
「着替え貸すし」
奏は一瞬固まる。
「……借ります」
「ん、偉い」
玲は笑いながら、
洗面所へタオルを取りに行った。
その背中を見送りながら、
奏はソファへ沈み込む。
無理だ。
心臓が持たない。
しばらくして、
借りたTシャツ姿でリビングへ戻ると、
玲が一瞬動きを止めた。
「……」
「な、何ですか」
「いや」
玲は口元を押さえて笑う。
「俺の服着てるの破壊力ある」
「っ……!」
奏は思わず視線を逸らした。
そのまま並んでソファへ座る。
距離が近い。
沈黙が落ちる。
でも嫌じゃない。
むしろ、
静かなこの時間が心地よかった。
外ではまだ雨が降っている。
帰れない理由みたいで、
少しだけ安心した。
「奏」
低い声で呼ばれる。
顔を上げた瞬間、
玲の指がそっと頬に触れた。
優しく撫でる。
そのまま少し近づいてくる顔。
奏の呼吸が止まる。
「……キスしていい?」
そんなの、
断れるわけがない。
小さく頷いた瞬間、
玲がふっと笑った。
「かわい」
次の瞬間、
唇が重なる。
柔らかくて、
優しいキスだった。
触れるだけなのに、
胸の奥が熱くなる。
離れたあとも、
玲の指は奏の頬に触れたままだった。
「……やばい」
「帰したくなくなる」
その声があまりにも本気で。
奏はまた、
心臓をうるさくさせるしかなかった。
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