第10話 :「思い出すのは」
水瀬奏が初めて店に来た日のことを、
一ノ瀬玲は今でも覚えている。
大学生だった奏は、
びっくりするくらい美容院に慣れていなかった。
店に入った瞬間から肩が上がっていて、
鏡を見る目も落ち着かなくて、
会話を振れば「はい」しか返ってこない。
(うわ、めちゃくちゃ緊張してる)
それが第一印象だった。
でも、
髪に触れた瞬間にわかった。
この子、
ちゃんと似合う髪にしたら絶対変わる。
だから玲はいつもより少し丁寧にカウンセリングしたし、
必要以上に喋らなかった。
帰り際、
奏が鏡を見て少し嬉しそうにしていたのも覚えている。
そして気づけば、
奏はずっと玲を指名していた。
大学生の頃も、
就活中も、
社会人になってからも。
玲にとって、
それはいつの間にか“当たり前”になっていた。
「……で、ここ切る」
閉店後の店内。
玲は一人、
ハサミを整えながらぼんやり考える。
独立を決めた時、
最初に浮かんだのは店の内装でも、
資金でもなかった。
——水瀬くん、来てくれるかな。
そんなことだった。
我ながら意味がわからない。
客なんて山ほどいる。
長く担当してる常連も、
売上の大きい客もいる。
なのに、
どうしてあいつだったんだろう。
玲はソファに背を預け、
小さく息を吐いた。
独立前、
顧客リストを整理しながら、
何人かには連絡を入れた。
けれど実際、
本当に自分から電話したのはほとんどいない。
なんとなく、
“来る人は来る”と思っていた。
でも奏だけは違った。
来なくなったら嫌だと思った。
別の美容師に慣れて、
そのまま終わるのが妙に嫌だった。
だから電話した。
声を聞いた瞬間、
少し安心したのも事実だ。
「……やっぱ来たし」
玲は苦笑する。
再会した奏は、
社会人らしくなっていた。
スーツも似合うし、
雰囲気も少し大人になった。
でも、
緊張すると肩が固くなる癖も、
耳が赤くなるのも変わってない。
髪に触れた瞬間、
妙に落ち着いた。
ああ、
これだ、と思った。
自分が五年触ってきた髪。
自分が一番わかる感覚。
それが嬉しかった。
「……重症だな、俺」
ぽつりと呟く。
でも玲は、
それを恋だとは思っていなかった。
ただ長い客。
気を許せる相手。
放っておけないだけ。
そういうものだと思っている。
実際、
他の客にも優しくするし、
距離だって近い。
今さら特別な感情なんて、
あるわけがない。
……たぶん。
スマホが震える。
画面を見ると、
奏から予約変更のメッセージだった。
『来週の金曜、少し遅れても大丈夫ですか?』
玲は自然と口元を緩める。
『全然いいよ』
『待ってる』
送信してから、
玲はふと止まった。
待ってる。
その言葉が、
妙にしっくりきてしまった。
読んでいただきありがとうございます!
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玲視点の心情を、書いています
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