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恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


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9/10

どこまでも走馬灯

死ぬ、と思った瞬間、世界が静止した。

バイクのタイヤが白線の上で滑った。体がふわりと宙に浮く感覚がした直後、交差点の向こうで、大型トラックのヘッドライトが夕日を溶かしたみたいに滲んでいた。ブレーキ音が、水中で聞くみたいにくぐもって遠い。アスファルトが迫ってくるのが、やけにゆっくりに見えた。

二十六歳の俺は、投げ出される直前に、まだ何かを考えていた。

あ、これ死ぬやつだ、と。


走馬灯というやつが始まった。

映像は唐突に現れた。まぶたの裏に広がる、というより、俺の全身がそこに引き込まれるような感じだった。薄い光の膜をくぐると、目の前に幼い俺がいた。

四歳か、五歳か。夜中に目が覚めて、布団が濡れていた。

――ああ、これか。

走馬灯の第一打が、おねしょだった。

泣くに泣けなくて、じっとりと冷えていく布団の中でうずくまっていた記憶。母親を起こすのが怖くて、かといって一人では着替えられなくて、結局明け方近くまでそのまま縮こまっていた、あの夜だ。俺は(今の俺が、という意味で)その光景を眺めながら思った。

なんで走馬灯にこれが入ってるんだ、と。


続いて小学三年生の俺が現れた。

理科の授業中、隣の席の田中のノートにこっそり落書きをした。丸い顔の棒人間に「たなかせんせい」と書いた。先生が振り返ったタイミングで田中が笑いを堪えて机をドンと叩き、当然ばれた。廊下に立たされ、夕日に染まる校庭の砂場を一人で眺めた。それがなぜか妙にきれいだったことを、今でも覚えている。

次は六年生。給食のコッペパンを半分ほど口に詰め込んだまま、勢いよく牛乳を飲んで盛大にむせた。机の上に牛乳が飛び散り、周りが大爆笑した。担任に「どうしてそんなことするの」と聞かれ、「……なんとなく」と答えた。理由は本当になかった。

くだらない。本当にくだらない。

だが走馬灯は、止まらなかった。


中学に入ると、少しだけ空気が変わった。

バレンタインデー当日、田代さんからチョコをもらった。

廊下の端で、小さな紙袋を差し出されて、俺は三秒くらい固まった。うまく言葉が出なくて、「……ありがとう」とだけ言った。その夜、一人で天井を見ながら、にやにやし続けた。

翌日の放課後、俺から田代さんを呼び出した。体育倉庫の陰。

「あの、俺、田代さんのことが好きで」

言った。ちゃんと言った。人生で初めて、ちゃんと言った。

ホワイトデーはまだ一か月後なのに。

田代さんは少し黙って、それからまっすぐ俺を見て言った。

「ごめんなさい」

三文字だった。声は静かで、やさしかったから、余計に痛かった。

「そっか」と俺は言い、踵を返した。

体育倉庫から出たあと、理由もなく遠回りして帰った。家に着くまで、誰にも会いたくなかった。誰にも会わなかった。それだけがよかった。


高校でも、大差はなかった。

部活をさぼって駄菓子屋でビッグカツを食べていたところを顧問に見つかった。大学受験の願書を出し忘れ、母親に二時間怒られた。体育祭のリレーでバトンを落として、チームの白組が最下位になった。後ろからクラスメートの冷たい視線を感じながら、俺は「あれは風のせい」と主張し続けた。風なんか吹いていなかった。

初めて乗ったバイクで、バックしようとして見事に転倒した。転ぶこと自体はまあいいとして、近くを歩いていたおばさんに「あら大丈夫ですか」と声をかけられ、恥ずかしさのあまり「大丈夫です転んでないです」と言い張ったことの方が、ずっと恥ずかしかった。


大学に入っても、本質は変わらなかった。

サークルの合宿で、夜中に一人でコンビニに行こうとして宿の出口を間違え、裏の田んぼに迷い込んだ。危うく肥溜めに落ちそうになった。就活の面接で「あなたの強みは何ですか」と聞かれ、三秒沈黙した後「……明るいところです」と答えた。自分でも薄いと思った。

そういう記憶が、走馬灯を埋め尽くしていた。

恥ずかしくて、どうしようもなくて、ちっとも格好のつかない話ばかり。

俺の二十六年間というのは、要約するとこういうものだったのか。これが走馬灯に選ばれるような記憶なのか。

しばらくは、そんなことを思いながら見ていた。


ここまでは、まあわかる。

走馬灯に恥ずかしい記憶が出てくるのはよくある話だと思う。でもそれにしたって、これだけくだらないのが続くのはどうなんだ。もう少しマシな場面はなかったのか俺の人生には、と思わないでもなかった。

でも、おかしなことが起きた。

二十五歳の記憶が終わった。去年の春、先輩の引越しを手伝って腰を痛めた話。翌月、コンビニのレジ前でぼーっとしていて後ろに長蛇の列を作った話。秋のキャンプで、テントの設営を間違えて雨の中びしょ濡れになった話。

そして走馬灯は、今年、二十六歳の記憶に差し掛かった。

春に職場の花見に参加して、飲みすぎて翌日欠勤した。六月に歯医者の予約を三回連続すっぽかした。先週、コインランドリーで他人の洗濯物を誤って取り出してしまい、謝罪を完了するのに三分かかった。

そして。

交差点でバイクが滑って、トラックの前に投げ出された、今日のことが映し出された。

そこで止まるかと思った。

止まらなかった。


二十七歳の記憶が、始まった。

俺はまだ二十七歳じゃない。それでも映像は続く。見覚えのない部屋が映し出された。狭いアパートじゃない。小さくても、どこかちゃんとした感じのする家。

ソファに俺が座っている。

隣に、誰かがいた。

女の人だ。見たことのない顔なのに、なぜかわかった。この人のことを、俺は知っている。いつか、知ることになる。

走馬灯の中の二十七歳の俺は、その人と肩が触れるくらいの距離で、何かを見ながら笑っていた。何がそんなにおかしかったのかまでは聞こえなかった。でも、二人で笑っていた。それだけで、なぜか十分なような気がした。

混乱していた。

これは何だ。死ぬ前の走馬灯じゃないのか。


三十歳になっていた。

走馬灯の中の俺は、小さな子どもを肩車していた。子どもは声を上げて笑いながら、俺の頭をぺちぺちと叩いていた。俺も笑っていた。地味に痛かったと思うが、笑っていた。

三十五歳。子どもが二人になっていた。

四十歳。運動会の父親参観競技で、ゴール直前に盛大に転んで最下位になっていた。砂まみれで立ち上がった俺のところへ、「おとうさーん」と子どもたちが二人で駆け寄ってきた。その声が、怒るでもなく呆れるでもなく、なんだか誇らしそうに聞こえた。気のせいかもしれないが。

四十五歳。娘に「そのジャケット、ちょっとダサくない?」と言われ、むきになって「これはクラシックって言うんだ」と反論していた。娘は「うん、クラシックにダサいって言ったの」と笑っていた。俺も、なんだかんだ言いながら笑っていた。

五十歳。妻と二人で旅行に行っていた。山の中の温泉地。露天風呂で並んで湯に浸かりながら、何か話していた。声は聞こえないが、妻がころころと笑っていた。俺も笑っていた。二人だけの時間が、ずいぶん久しぶりに感じられた。

走馬灯の中で、俺はずっと笑っていた。

格好のいい場面なんて、ほとんどなかった。転んで、間違えて、恥をかいて、怒られて、それでも笑っていた。ずっとそういう俺だった。

六十歳。定年退職のパーティで、俺は泣いていた。照れ隠しにお酒を飲みすぎて、翌朝最悪な気分で目を覚ますという、最後までらしい終わり方だった。

七十歳。孫が生まれた。

抱き上げた瞬間の、あの重さ。あの温かさ。俺はまだそれを知らないのに、走馬灯の中でその感触を覚えていた。胸の奥に、じんわりと何かが広がった。


八十歳。髪が白くなっていた。

縁側で日向ぼっこをしながら、妻と並んで座っていた。二人とも、しわが増えて、少し小さくなっていた。妻が、何も言わずに俺の手を握った。特に理由はないようだった。ただ、握った。

俺も、握り返した。

その映像が、なぜか他のどの場面よりも、鮮明だった。

九十歳。

足が少し不自由になっていた。でも、家の中は賑やかだった。誕生日だったらしく、子どもたちと孫たちが、なんだかわいわいと集まっていた。ケーキのろうそくを吹こうとして、俺は三回息を吹いて、それでも半分しか消えなかった。

みんなが笑った。

俺も笑った。


そして、それが来た。

九十五歳。

布団の中で、俺は横になっていた。

体が重かった。ひどく眠かった。でも、苦しくはなかった。不思議なくらい、苦しくなかった。

周りに、人がいた。

白髪になった妻が、俺の手を握っていた。子どもたちの顔があった。孫たちの顔があった。ひ孫らしき小さな子の顔もあった。みんなの顔が、泣いているのに、笑っているように見えた。

俺は思った。

――ああ、いい人生だったな。

格好よくなんかなかった。おねしょから始まって、走馬灯を埋めるのはどじな記憶ばかりで、大したことは何一つできなかった。でも、笑っていた。ずっと、笑っていた。

九十五年かけて積み上げたのは、そういうものだった。

眠るように、目を閉じる。

それが、走馬灯の最後だった。


いや。

最後じゃなかった。

走馬灯の最後のひとつ前に、もう一つだけ映像があった。

九十五歳の俺が、白髪の妻の手を握りながら、かすかに笑っていた。何かを思い出しているような顔だった。孫の一人が「おじいちゃん、何がおかしいの」と聞いた。

俺は答えた。

「昔な、バイクで転んでな。トラックに轢かれそうになったんだよ」

孫が「それのどこがおかしいの」と眉をひそめた。

「そのトラックの運転手がな」と俺は言い、妻の方を見た。妻は「またその話」と言いながら、手を握ったままだった。

「それが俺のおばあちゃんになるんだよって、その時わかってたら、もうちょっと颯爽と倒れてたんだけどな」

妻が笑った。

「倒れ方で颯爽とできると思ってる時点で、あなたはあなたよ」


ぱちり、と意識が戻った。

アスファルトの冷たさが背中にある。

空が見えた。夕方の、薄い青。

トラックはすでに停まっていた。運転席のドアが開いて、誰かが降りてくる足音がした。

顔が見えた。

若い女の人だった。二十四、五歳くらいだろうか。作業着姿で、短く結んだ髪が少し乱れていた。顔は真っ青だったが、目だけが真剣で、まっすぐだった。

「大丈夫ですか!」

その声を聞いた瞬間、俺の頭の中に、さっきまでの走馬灯がぶわっと蘇った。

縁側で並んで座っていた、白髪の女の人。手を握っていた、妻。孫に「またその話」と笑いながら言っていた、あの人。

――この人だ。

根拠はなかった。ただ、確信があった。

「大丈夫です」と俺は答えた。

声が、自分でも思ったより落ち着いていた。相手はまだ青い顔のままで、「本当ですか、頭は、足は」とまくしたてるように確認してくる。

「全部大丈夫です。かすり傷一つです」

「よかった……本当に……でも一応、救急車を」

「呼ばなくて大丈夫です」と俺は言い、立ち上がった。

彼女が手を伸ばして、支えようとした。俺はその手を借りて立った。

彼女の手は、少し震えていた。

「俺こそすいません、滑っちゃって。怖かったですよね」

「そんな、謝らないでください、私こそ」

しばらく、そういうやりとりが続いた。バイクを起こして、お互いの連絡先を交換した。「何かあったときのために」という口実で、お互いそれ以上のことは言わなかった。でも、俺は知っていた。

これが始まりだ。

おねしょから始まって、廊下に立たされて、バトンを落として、告白してフラれて、二十六年間ずっとそういう人間だった俺の、本当の意味での始まりが、今日、ここで起きた。


「あの」

立ち去ろうとしたとき、彼女が声をかけてきた。

「トラック、怖くなかったですか。轢きそうになったの、私なんですけど」

俺は少し考えた。

「怖かったっちゃ怖かったですけど」

正直に言うと、彼女が少しだけ眉を寄せた。

「なんか、大丈夫な気がしたんですよね」

「なんでですか」

「……いや、なんとなく」

それ以上はうまく言えなかった。九十五歳の走馬灯が見えたとは、さすがに言えなかった。彼女は首を少し傾けて「そうですか」と言い、それからかすかに笑った。

夕日が、二人の間に斜めに差し込んでいた。


エンジンをかけ直して、俺は走り出した。

バックミラーの中で、彼女がまだこちらを見ていた。

俺の人生で一番大切な思い出は、いつかきっと、あの夕方の交差点になる。バイクが滑って、トラックに轢かれそうになって、アスファルトに倒れて、空を見上げた、あの数秒間。

九十五歳の俺が、孫に笑いながら話して聞かせる、あの記憶。

まだ何もわかっていない俺が、それでも「大丈夫な気がした」と言った、あの瞬間。

走馬灯は、おねしょから始まって、フラれた記憶を通り過ぎて、転んで笑って生きた九十五年を見せてくれた。

そしてその全部の、出発点がここだった。

どこへ向かうかも、まだよくわからないまま。

でも、まあいいか、と思った。

九十五まであるんだから。

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