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恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


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8/10

叫び声の理由

 最初にその声を聞いたとき、彼は反射的に肩をすくめた。


 朝の駅前だった。通勤の流れが信号に詰まり、コートやスーツや学生服がひとつの塊になって横断歩道の手前で波打っている。コンビニの自動ドアが開く音、バスが停車する空気の抜ける音、誰かのくしゃみ。そういう街の決まりきった雑音の中に、その声だけが異物みたいに突き刺さっていた。


「うるせぇっつってんだろ!」


 男は歩道脇の植え込みの前に立っていた。五十代くらいに見えた。灰色のジャンパーは季節に合っていないほど厚く、袖口は黒ずみ、片方の靴紐がほどけたままだった。誰かに向かって怒鳴っているようで、けれど目の前には誰もいない。男は顔を斜め上に向け、空中の一点をにらみつけるようにして、もう一度叫んだ。


「来るな! だから来るなって!」


 周囲の人間は、見ないふりをする動きだけが妙にうまかった。ほんの一歩だけ遠回りし、視線を落とし、歩調を変えずに通り過ぎていく。母親に手を引かれた幼い女の子が男のほうを見たが、母親は小さく「見なくていいの」と言って、すぐ前を向かせた。


 彼も同じように通り過ぎるつもりだった。

 だが、男の「来るな」という声の中に、怒りだけではない別のものが混じっている気がして、ほんの一瞬だけ目を向けてしまった。怯えに似たものだった。切羽詰まった、後がない人間の声。


 そのとき男の腕が大きく振られ、彼は思わず身を引いた。

 恐怖は理解より早い。頭で何か考える前に、足のほうが先に速度を上げていた。


 駅の改札を抜け、エスカレーターに乗り、ようやくホームに着いてから、彼は自分が少し息を荒くしていることに気づいた。


 ただ奇声を上げている人がいた。

 それだけのことだ。


 だが、その「それだけ」のことが、朝から胸のどこかに小さな棘のように残った。


     *


 昼休み、彼は会社の給湯室で紙コップのコーヒーを片手にスマートフォンを取り出した。午前中の会議資料を眺めるふりをしながら、実際には朝の男のことを何度か思い出していた。


 怖かった、と思う。

 でも、あれはたぶん本人も普通ではなかったのだろう、とも思う。


 その二つの感想のあいだに、うまく言葉にできない居心地の悪さがあった。怖がった自分が薄情な気もするし、だからといって「かわいそう」と簡単に片づけるのも違う気がした。


 彼はしばらく迷った末に、生成AIのアプリを開いた。


 ”街中で奇声を上げる人の心境とは?”


 打ち込みながら、自分でも妙な質問だと思った。だが、検索エンジンに放り込むよりは、言葉としてまとまった返答が返ってくる気がした。


 ほどなく表示された文章は、予想以上に整っていた。


 見出しが並び、いくつかの可能性が挙げられている。本人にしか聞こえない声に反応している場合。蓄積したストレスや不安が限界を超えている場合。雑音や光や身体感覚が痛みのように耐え難くなっている場合。声が意思とは無関係に出てしまう特性がある場合。薬物や酒で理性の制御が崩れている場合。


 共通しているのは、必ずしも「周囲を困らせたい」のではなく、本人の側で何かが過剰で、切迫していて、自分を保つためにそうなっていることがある、という説明だった。


 街中で怒鳴るなんて迷惑だ、と切り捨てる前に、ひどく苦しんでいる状態かもしれないと一段引いて見ること。

 ただし危険を感じるなら、理解より先に距離を取ること。


 どれももっともらしかった。

 そして、もっともらしいということが、少しだけ彼を落ち着かせた。


 なるほど、と彼は思った。

 自分は朝、目の前の異様さだけを見ていた。だが、異様さの内側には事情があるのかもしれない。病気かもしれないし、パニックかもしれない。あれはただの「変な人」ではなく、何か処理しきれない負荷と戦っている人なのかもしれない。


 彼は続けて打った。


 ”理由はどうあれ、苦しんでいることは確かなんだね”


 AIからの返答は肯定から始まった。

 外から見れば迷惑で不可解でも、その内側では、本人の処理能力を超えた圧倒的な負荷と戦っている状態だ、と。叫びたくて叫んでいるというより、内側に溜まりすぎたものを外へ逃がす緊急避難のような行動なのだ、と。


 さらに、周囲の視線に傷つきながら、普通でありたいと思っている人もいるのだろう、という一文が続いた。


 そのあたりまで読んで、彼はふっと息を吐いた。

 少しだけ、自分がましな人間になったような気がした。


 朝の自分は、怖い、の一言で止まっていた。

 でも今は、もう少し立体的に見られる。そう思った。


 たった数分前まで自分の中になかった補助線が、急に一本引かれた感じだった。男の怒声の奥に、恐怖、混乱、痛み、孤独、そういったものが透けて見える気がした。


 画面の下には、さらに理解を深めるための質問例がいくつか並んでいた。

 彼はそこまでは押さなかった。

 もう十分な気がした。


     *


 その日、退勤は少し遅くなった。


 駅前の空はもう暗く、昼間に比べると人の流れもまばらだった。シャッターの閉じた店が目立ち、昼の騒がしさが引いたあとの街は、同じ場所のはずなのに別の顔になる。照明の白さばかりが浮き上がり、歩く靴音がやけに響いた。


 地下通路に降りる階段の手前で、彼は足を止めた。


 また、あの声がしたからだ。


 朝とまったく同じ声ではない。少し掠れ、勢いも落ちている。だが、同じ男だとすぐわかった。灰色のジャンパー。ほどけた靴紐。片側に傾く体重のかけ方。


 男は壁際に立ち、何もない空間に向かって低く言葉を吐いていた。


「違う、違うだろ……」

「だから見てんじゃねぇよ……」

「来んなって……」


 朝ほど大きな奇声ではない。むしろ、何かと絶えず言い争っている独り言に近かった。

 ただ、その途切れ途切れの声が、通路のタイルに跳ね返って妙に生々しかった。


 彼は遠くから男を見た。

 朝なら避けていた距離だったが、昼に読んだ説明が、足をその場に留めていた。


 怖がるだけではだめだ。

 そういう単純なことじゃない。

 彼も苦しんでいるのだ。


 彼は自分の胸の中で、そう言い聞かせた。


 男の肩は小刻みに震えていた。寒さのせいか、怒りのせいか、それとも別の何かかはわからない。顔色は悪く、頬はこけ、目の下は暗く沈んでいた。怒鳴っているというより、追い払っているようにも見えた。見えない何かを。聞こえない誰かを。


 かわいそう、とは思わなかった。

 そこまで簡単ではない。

 ただ、自分が朝に感じた恐怖だけでこの人を全部決めていたのは浅かったのかもしれない、と彼は思った。


 その瞬間だった。


 男が、ぴたりと黙った。


 何かに耳を澄ませるみたいに首を傾け、それからゆっくり、こちらを向いた。


 目が合った。


 朝より近い距離で見るその目は、異様なほど澄んでいた。焦点が合っていない人の目ではなかった。むしろ、妙にまっすぐだった。見ている。確実に、自分を。


 彼は一瞬、気まずさに似たものを覚えた。

 自分が見ていたことを、見返された気がした。


 男の表情が変わったわけではない。怒ったわけでも笑ったわけでもない。ただ、何かを見定めたように、その目だけが細くなった。


 そして、男は歩き出した。


 速くはない。

 だが、ためらいもなかった。


 彼のほうへ、一直線に。


 彼は動けなかった。


 危険を感じたら距離を取ること。

 昼に読んだ文章の一節が、場違いなほどきれいな日本語で頭の中に浮かんだ。だが、その一文は現実の中ではまるで役に立たなかった。後ろに下がろうにも、足が床に貼りついたみたいに重い。逃げるべきだと頭ではわかるのに、どこかで「この人は苦しんでいるだけかもしれない」と、昼に得た理解らしきものが、逆に体を遅らせていた。


 男は近づいてくる。

 一歩。

 また一歩。


 照明の下に入るたび、顔の細かな皺や、唇の荒れや、顎に残った無精ひげまでが見えた。酒の匂いはしなかった。代わりに、古い布と汗の、湿った匂いがした。


 彼はようやく半歩だけ後ずさった。

 しかし、それではまるで足りなかった。


 男はそのまま間合いを詰め、もう逃げようもない距離まで来た。

 彼の目の前で止まる。

 息がかかるほど近い。

 いや、息だけではない。頬が触れそうなほど、顔ごと寄せてくる。


 男の目は、相変わらず妙に澄んでいた。

 彼の顔を覗き込み、値踏みするみたいに一秒、二秒、黙って見た。


 彼は言葉を失っていた。

 謝るべきなのか、何を謝るのか、自分でもわからない。


 その沈黙のあとで、男は小さく笑ったようにも見えた。

 口の端がほんの少しだけ動いた。


 そして、彼の耳元ではなく、真正面から、はっきりと言った。


「お前にはわからねぇよ」


 声は不思議なくらい静かだった。


 怒鳴り声ではない。

 奇声でもない。

 むしろ、朝からずっと聞いてきたどの声よりも、人間の温度を持っていた。


 その一言だけ残して、男は彼の肩をかすめるように通り過ぎた。

 振り返ることもなく、地下通路の奥へ歩いていく。やがて、その背中は白い照明の先に溶け、見えなくなった。


 彼はしばらく動けなかった。


 全身に嫌な汗が滲んでいる。

 怖かった。

 それは確かだった。

 だが、怖さだけではない。顔の奥を見透かされたような、もっと別の冷たさが残っていた。


 自分は理解したつもりになっていたのだ、と彼は思った。

 朝の恐怖を少し上品な言葉に置き換えただけかもしれない。

 幻聴かもしれない。ストレスかもしれない。感覚過敏かもしれない。チックかもしれない。そういう、当てはまりそうな枠をいくつか並べて、そのどれかに男を納めた気になっていた。


 だが、あの男には男の一回きりの苦しさがあって、それは名称の下にきれいに片づくものではないのかもしれない。

 あるいは、そんなふうに考えること自体が、また別の傲慢なのかもしれない。


 彼は震える指でスマートフォンを取り出した。

 さっきの画面がまだ開いたままだった。


 理解を深めたいトピックはありますか?


 白い画面の中央に、その問いだけが静かに光っていた。


 彼はしばらく見つめたが、何も打てなかった。


 地下通路の向こうから、遠く、誰かの笑い声がした。

 それは普通の、どこにでもある笑い声のはずなのに、一瞬だけ奇声と区別がつかなかった。

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