穴が二つ
三人目だった。
男は自宅の寝室で死んでいた。争った跡はなく、窓は閉まり、施錠も破られていない。布団の上に仰向けで、目だけが見開かれていた。死に顔というより、何かを最後まで見ていた顔だった。
杉並署の刑事課が規制線を張る部屋に、警視庁捜査一課の真壁修司が入ったのは、午前五時を回った頃だった。雨が降っていた。古いマンションの外廊下を打つ雨音が、遺体の部屋の静けさをかえって際立たせていた。
「所轄の見立ては急性心不全。ただ、二件続いてる。しかも全員、死ぬ前に同じ女と揉めてる」
相棒の片桐が、濡れた手帳を開いたまま言った。
遺体は、都内で複数の介護施設を経営する男だった。先週死んだ不動産業者、その前に死んだ弁護士。三人に接点はなかった。少なくとも、表向きには。
ただ一つを除いて。
「江藤志津。六十二歳。元看護助手。十五年前、最初の被害者の施設で働いていた。解雇後に揉めて、慰謝料だ未払い賃金だと騒いでた女です」
片桐はそう言って、証拠袋の中の紙片を持ち上げた。半紙に墨で書かれている。
――七日目。
その二文字の下に、雑な藁人形の絵があった。
「またこれか」
真壁は低く言った。
一件目の現場にも、二件目の現場にも、同じ紙があった。鑑識は筆跡の一致を認めている。送り主は江藤志津でまず間違いない。実際、彼女は否認もしなかった。
取調室で、彼女は平然とこう言ったのだ。
「呪いましたよ。あの人たちを」
だが、それで終わりだった。
呪う、と言っただけでは、人は逮捕できない。
真壁は遺体の顔に視線を落とした。四十代の働き盛りのはずの男の頬は、驚くほど痩せこけていた。検視官が淡々と所見を述べる。内臓の状態を見ないと断定はできないが、単純な突然死ではないかもしれない、と。
「生前、かなり衰弱していた可能性があります」
その言葉が、真壁の耳に残った。
衰弱。
恐怖でか。病気でか。あるいは、そのどちらでもない何かでか。
*
江藤志津は、取り調べの間、終始おだやかだった。
髪は白く、指は異様に細かった。爪のあいだが黒ずんでいて、土とも煤ともつかないものが入り込んでいる。姿勢だけは妙によく、椅子に座ると、まるで通夜の席にでもいるような静かな顔になった。
「また死んだそうですね」
第一声がそれだった。
真壁は答えなかった。
「あなたがやったのか」
「やった、という言い方は好きじゃないですね。私はお願いしただけですから」
「誰に」
志津はわずかに首をかしげた。笑ったのではない。ただ、その目に、説明を断る種類の落ち着きが浮かんだ。
「昔からあるでしょう、そういうものは」
机の上に置かれた供述調書の脇に、片桐が古い判例のコピーを滑らせた。昭和七年。相手に藁人形を見せつけ、「呪い殺してやる」と告げた行為が脅迫にあたる、とされた件。さらに戦後の、千駄ヶ谷で丑の刻参りを続けた女と、のちに病死した男の新聞記事の複写も。
志津はそれを見て、小さく息を吐いた。
「よく調べましたね」
「知ってるのか」
「知ってるからやってるんです」
真壁の喉の奥がわずかに動いた。
「人はね、呪いそのもので死ぬんじゃない。そう言われたら、眠れなくなる。食べられなくなる。自分の身体を自分で壊す。昔の裁判所は正しかったですよ。呪いは脅しになる。脅しは、ちゃんと人を殺す」
「じゃあ、おまえは脅してるだけだと?」
「そうです。あの人たちは、自分で死んだ」
片桐が身を乗り出した。
「三人とも、おまえに恨まれる理由があった。そこは認めるんだな」
志津は初めて感情らしいものを見せた。口元がわずかに歪んだのだ。
「恨み、ですか。便利な言葉ですね。あの人たちは、何人も潰してきた。金で。立場で。書類で。病院のベッドの横で。私はその一人だっただけです」
そこで咳き込んだ。
深い咳だった。胸の底からこぼれるような、乾いた音。白いハンカチで口を押さえ、数秒してから彼女は何事もなかったように顔を上げた。
ハンカチの角に、暗い染みがにじんでいた。
*
事件は進まなかった。
家宅捜索で出てきたのは、藁人形、五寸釘、古い神社の護符、死者の氏名と日付が書かれた大学ノート、新聞の切り抜き。気味は悪い。だが、殺人の証拠にはならない。
司法解剖の結果も、真壁を苛立たせた。
一人目は進行した膵臓癌。本人も周囲も把握していなかったが、発見が遅れれば数か月単位の余命だった可能性が高い。二人目は重度の肝硬変。三人目は重い心筋症と慢性腎不全。いずれも、たしかに「死ぬ身体」だった。
だが、だからどうした。
死ぬはずの人間が、脅され、怯え、予定より少し早く死んだとして、それを何と呼ぶのか。
呪いか。殺人か。自然死か。
法は、その境目を嫌う。
「脅迫ではいける」
片桐が言った。「少なくとも、紙とメッセージと供述はある」
「いけても二年だ」
「それでもやるしかない」
真壁は煙草を持たない手でポケットを探った。禁煙して三年になるが、こういう時だけ、指先が過去を思い出す。
「二年で済む相手ならな」
その夜、志津は保釈も何もない参考人の立場で帰された。まだ、足りないのだ。
翌朝、真壁の自宅の郵便受けに、白い封筒が入っていた。
中には、娘の学校名と、妻の職場の最寄り駅、帰宅時間のメモ。そして一枚の和紙。
――次は、おまえの家。
墨はまだ乾ききっていなかった。
*
妻は強い女だった。
「警察なんでしょ、あなたたち」
台所でそれを見せた時も、声は震えなかった。震えなかったが、包丁を持つ指にだけ力が入り、まな板の上で胡瓜が不揃いな厚さになっていた。
小学四年の娘は、事情を知らないまま、その夜から寝つきが悪くなった。夜中に何度も起きて、水を欲しがった。夢の話はしない。だが、布団の中で足を引っ込める癖がついた。何かに掴まれないようにするみたいに。
真壁は自宅前に所轄の警戒を付けた。通学路も変えた。妻の送り迎えも手配した。できることは全部やった。
それでも、守れている感じがしなかった。
相手が刃物を持って近づいてくるならまだいい。ドアを破るなら、殴り倒せる。法も手続も、まだ身体に乗る。
だが「呪う」と言って、実際に人が死ぬ相手に対して、何をすればいい。
真壁は警察手帳の入った上着を脱ぎ、夜中に一人で資料室に座った。戦前戦後の新聞縮刷版、古い判例集、民俗誌、神社関係の記録。片桐に見つかれば笑われるようなものまで引っ張り出した。
笑えなかった。
昭和七年の件では、呪いは脅迫として裁かれている。昭和二十九年の千駄ヶ谷の件では、死との因果は否定された。両方とも、法としては筋が通っている。
筋が通っているのに、人は死ぬ。
明け方近く、古びた民俗研究の本の余白に、鉛筆書きの走り書きを見つけた。誰かのメモだ。
――返る。強く願ったものほど、最後は自分の身へ戻る。
ただの落書きだった。根拠もない。だが真壁は、志津が咳き込んだ時のハンカチの染みを思い出した。
あの女は、もう壊れている。
それでもやっている。
あるいは、壊れているからこそ、やっている。
*
志津を再度呼んだのは、雨の夜だった。
「家族に手を出すな」
真壁は取調室で言った。
「まだ出していません」
「告げただろう」
「告げました。あれは必要だからです」
「何に必要なんだ」
志津はしばらく黙ったあと、机の表面を見た。
「怖がらない人には、効きが悪いんです」
真壁は立ち上がりかけた。片桐が脇から制した。
「おまえの言う呪いは、脅しだ。恐怖を植えつけて、相手を削る。だったらおまえは人を殺してる」
「そうかもしれませんね」
志津はあっさり言った。そして真壁のほうを見た。
「でも、あなたももう半分は分かってる。そうでしょう」
「何をだ」
「形だけでも、やった人間にしか分からないことです」
真壁はその夜、志津の尾行を外した。
正確には、外れたように見せかけた。
彼女は午前二時前、渋谷区の外れの小さな稲荷に入った。住宅街に埋もれた、ほとんど人の来ない神社だった。赤い鳥居の下で、志津は白い雨合羽を脱ぎ、藁人形を取り出した。
そこから先は、見てはいけない気がした。
刑事としてではなく、人として。
真壁は暗がりで息を殺し、掌の中のもう一体の藁人形を握った。押収品からではない。片桐にも知らせず、自分で作った。娘の名前を守るために。妻の顔を思い浮かべないために。相手の名前だけを、何度も紙に書いてから腹に詰めた。
志津が釘を打つ音がした。
真壁も打った。
乾いた木の音が、夜の雨の向こうで重なった。
一度だけ、志津がこちらを見た気がした。暗くて表情は分からない。ただ、そのとき彼女の顔に浮かんでいたものが、驚きではなかったことだけは分かった。
知っていた顔だった。
*
江藤志津は翌朝、自宅で死んでいた。
布団の中で、静かに。
部屋には争った跡も、侵入の痕跡もなかった。机の上に、真壁の名が書かれた封筒だけが置かれていた。中身は空だった。
解剖結果は、皮肉なくらい明快だった。重度の自己免疫疾患。肺も腎臓も心臓も限界に近く、どのみち長くはなかった。医師は淡々と「数週間、もって一か月程度だった可能性もあります」と言った。
片桐は報告書を閉じた。
「結局、こいつも死ぬ身体だった」
「そうだな」
「じゃあ、呪いなんて」
片桐はそこまで言って、口を閉じた。
真壁の右手の人差し指から、薄く血が滲んでいた。いつ切ったのか分からない程度の、小さな傷。だが爪のわきが黒く汚れているのを、片桐は見た。
「……おまえ、寝てないだろ」
「寝てる」
「病院行け」
「あとで行く」
それ以上、片桐は何も言わなかった。
*
家には、もう白い封筒は来なかった。
娘は数日で眠るようになり、妻はようやく包丁をまっすぐ下ろせるようになった。食卓に並ぶ胡瓜の厚みが戻った時、真壁はそれを妙に細かく見ていた。
守れたのだ、と一応は言える。
そう言えるはずだった。
春先、真壁は小さく咳をするようになった。
風邪だとごまかせる程度の、乾いた咳だった。だが一週間経っても抜けない。十日目の朝、洗面台に赤い筋を吐いた時、彼は蛇口をひねったまま、しばらく顔を上げられなかった。
鏡の中で、自分の頬が少しだけ痩せて見えた。
夜、娘が寝ぼけたまま居間に出てきて、ソファの真壁の膝に頭を乗せた。
「パパ、手つめたい」
そう言って、彼の右手を両手で包んだ。
小さな掌の熱が、異様なくらいはっきり分かった。
「もうお仕事、おわった?」
真壁は答えなかった。
窓の外で風が鳴っていた。庭なんてないマンションの四階なのに、どこか遠くで、木に釘を打つような音がした気がした。
妻が台所から顔を出し、
「どうしたの」
と聞いた。
真壁は娘の髪を撫でながら、ようやく言った。
「ああ……もう終わったよ」
その言葉が嘘なのかどうか、自分でもまだ分からなかった。




