見たことのない色
色が見える。
正確には、他人の感情に色が重なって見える。幼い頃からずっとそうだったので、誰もがそうではないと気づいたのは、小学校に上がってからのことだった。「お父さん、今日怒ってるね」と言うたびに、母が不思議そうな顔をした。顔の表情を読んでいるのではなかった。表情より先に、その人全体を包む色が変わる。
調べるうちに、共感覚という言葉に行き着いた。文字に色が見える人、音に色が付く人、味が形になる人——感覚同士が混線して、別の感覚として現れる現象らしかった。スピリチュアルとは違う、神経学的な何かだと知ったとき、少し安心した。
彼女の場合は、他人の感情が色に見えた。
精度は、長い時間をかけて上がっていった。怒りは黄色。悲しみは青。喜びはピンク。嘘をつくときには赤が混じる。それほど単純ではなく、大抵はいくつもの色がグラデーションを作って揺れていた。怒りの中に傷ついた青が滲んでいたり、笑顔の後ろに淡い疲弊の灰色が漂っていたり。感情が複雑であるように、色も複雑だった。
見えることに、慣れた。
ただ、慣れることと、楽になることは別だった。
笑顔で対応する店員が、その実は乾いた黄色を纏っているとき。上司が口先では激励しながら、失望の重い青を滲ませているとき。彼女はうまく笑い返せなかった。色が見えることで、場の空気の本当の温度を、知りすぎた。
それでも今の彼氏とは、もう二年になる。彼の色は、大抵落ち着いたオレンジで、温かく、安定していた。嘘をつくときの赤がほとんど混じらないことが、何より信頼できた。
その日は土曜日で、午後から彼氏と待ち合わせの約束があった。
少し早めに家を出た彼女は、駅近くの商店街をゆっくり歩いた。週末の午後、人通りは多く、色が溢れていた。笑い合う二人連れのピンク、スマートフォンに落とした視線の灰色がかった青、子どもを追いかける母親のうっすらとした疲労の緑。見慣れた、日常の色ばかりだった。
横断歩道の手前で立ち止まったとき、男が目に入った。
四十代か、五十代か。グレーのスーツに、黒いビジネスバッグ。歩道の人ごみの中で立ち止まり、ぼんやりと向こう側を眺めていた。どこにでもいるような、印象の薄い風貌だった。
ただ、彼女の目には、違って見えた。
その人を包んでいる色が——”見たことのない色”だった。
赤に似ているが、赤ではない。青のようでもあり、黒やこげ茶に近い部分もあった。紫やオレンジ、ところどころ灰色が入り混じり、それぞれが溶け合うのではなく、互いを侵食するようにして渦を巻いていた。名前をつけることができなかった。混色のように見えて、その実、色そのものが自壊しているような、奇妙な重さがあった。
彼女は思わず、足を止めた。
二十数年、感情の色を見てきた。喜怒哀楽だけでなく、嫉妬の腐った黄色、羞恥の鮮やかな朱、後悔の泥みたいな茶色——さまざまな感情の色を知っていた。でも、あの色は知らなかった。
なんだろう、これは。
好奇心ではなかった。もっと根の深い引力で、なのに触ってはいけないという直感が同時に働いた。視線を外すことができず、男が信号の変わると同時に歩き出し、人の波に飲まれて見えなくなるまで、ただ立ち尽くしていた。
信号が赤に変わった。
彼女はそこで初めて、我に返った。
待ち合わせまで、あと十五分だった。尾行するわけにも、近づくわけにもいかなかった。それに正直なところ、近づきたいという気持ちよりも、遠ざかりたいという感覚のほうが、本能的には強かった。それでも、あの色の意味が知りたかった。なんとも言えない後ろ髪の引かれ方が、胸の奥に引っかかったまま残った。
彼女は横断歩道を渡り、待ち合わせ場所へ向かった。
彼氏はもう来ていた。
「お待たせ」と言うと、「全然」と笑顔で答えた。その笑顔に、彼女は一瞬、目を止めた。
オレンジではなかった。
いつもの、温かいオレンジが、今日はない。代わりにあったのは、深い青だった。悲しみの色——薄く、穏やかな種類の悲しみではなく、どこか重く淀んだ、底の見えない青だった。
彼氏は気づいていないのかもしれなかった。あるいは、気づかせたくないのかもしれなかった。笑顔を崩さず、普通に話しかけてくる。
「どっちにする、カフェかごはん先か」
「カフェかな」
手を繋いで歩いた。彼女は話しながら、何度も彼氏の横顔を見た。笑っていた。目を細めて、楽しそうに笑っていた。それなのに、その笑顔の後ろにある色は、ずっと深い青のまま揺れていた。
なにかあった? と訊けなかった。
直接的に「あなたが悲しんでいるのがわかる」とは言えない。言えば、色が見えることを説明しなければならない。それは、まだうまく話せなかった。彼女は気づかないふりをして、カフェでケーキを半分こにして、彼氏の話を聞いた。仕事の愚痴、来月の旅行の話、共通の友人のことを笑い話にした話。表面はいつもと同じだった。
それでも、青は揺れ続けた。
別れ際、彼氏は「また連絡する」と言って笑顔で去っていった。電車に乗り込む姿を見送りながら、彼女は思った。なにがあったんだろう。悲しみにもいろいろある。失ったものへの悲しみ、これから失うものへの予感、ずっと抱えてきた傷が滲む悲しみ。あの青は、どれに近かっただろう。
家へ帰る電車の中で、ふと、横断歩道の男のことを思い出した。
あの、名前のつかない色。
夜、テレビをつけた。
ニュース番組の速報が、画面に流れていた。
「会社員の男が、都内で取引先の社長を刺殺。その後、現場を離れ——」
彼女はリモコンを持ったまま、動きを止めた。
画面に顔写真が映った。
知っていた。見知っていた。
午後、横断歩道の手前に立っていた男だった。
「被疑者は犯行後、近くの商店街で通行人数名に切りつけ——」
声が、遠くなっていった。
男は社長を殺し、その後自暴自棄になって通り魔を起こし、最終的には——画面の文字が流れたが、その先は頭に入らなかった。商店街。彼女がその時間に歩いていた、あの商店街。
彼女の中で、あの色が蘇った。
赤に似て、青にも近く、黒やこげ茶とも違い、紫とオレンジと灰色が混ざり合いながら互いを食い尽くしていくような、名前のつかない色。
——あれが、殺意だったのか。
その言葉が、音もなく落ちてきた。
感情の色を、二十数年見てきた。怒りも、憎しみも、嫉妬も、絶望も、知っていた。でも、あの色だけは知らなかった。感情がある種の限界を超えたとき、色はあんな風になるのか。人間が感情と呼べる領域の外に出てしまったとき、色はああいう崩れ方をするのか。
色の名前が、ようやくついた。
テレビを消した。
部屋が静かになった。窓の外、遠くで車が通り過ぎる音がした。彼女はしばらく、ソファに座ったまま動かなかった。体のどこかが、微かに震えていた。あの男と横断歩道で並んでいた。すぐそこにいた。あの色が、すぐそこにあった。
そのとき——
チャイムが鳴った。
体が固まった。
時刻は夜の十時過ぎだった。宅配便が来る時間ではない。彼女はゆっくりと立ち上がり、玄関へ向かった。廊下が、妙に長く感じた。
「どなたですか」
「ああ、俺。ごめん、急に」
彼氏の声だった。
ほっとした。体の力が、すとんと抜けた。
「どうしたの、こんな時間に」
「デートのとき渡したいもの忘れてたんだ。ちょっとだけ、いい?」
いつもの声だった。明るく、穏やかな声。
「うん、ちょっと待ってて」
鍵を外した。チェーンを外した。
ドアを開けた。
彼氏は、笑っていた。
屈託のない、明るい笑顔だった。右手に小さな袋を持ち、「ごめんな、急に」と言いながら、少し体を前に傾けた。
彼女は、返事ができなかった。
笑顔の後ろに、色があった。
今まで見たことのない色が——あの、名前のついたばかりの色が——彼氏の輪郭に沿って、ゆっくりと、静かに、揺れていた。




