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恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


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6/10

殺された心臓の音

心臓を移植してから、私は夢を見るようになった。


 毎晩ではない。三日に一度、ひどいと二日続けて見る。決まって夜道だ。細い路地で、白い息が流れている。冬だとわかる。視界は少し低く、息が詰まるように狭い。足音が二つぶんある。ひとつは走る足音。もうひとつは、追う足音だ。


 夢の中の私は、追われているのか見ているだけなのか、いつも曖昧だった。


 ただ、最後だけははっきりしている。


 暗い塀の前で、女の人がふり返る。目を見開いて、何か言いかける。その口元に街灯の光がかかる。次の瞬間には視界が揺れて、そこで必ず目が覚めた。


 目覚めたあとの胸は、嫌なくらい静かだった。


 心臓が、妙に整っている。


 それが、いちばん怖かった。


 私は二十七歳の会社員で、半年前に心臓移植を受けた。生まれつきの心筋症で、学生のころから何度も入退院を繰り返してきた。二十代の真ん中に入ってから悪化が早くなり、去年の秋には、もう移植以外は現実的じゃないと医師に言われた。


 運よく適合するドナーが見つかった。奇跡みたいな速度だったと、母は泣きながら言った。私はそのとき、助かったことより先に、誰かが死んだのだと思った。


 それでも私は生きることを選んだ。


 選ばない余地なんて、実際にはなかったけれど。


 職場復帰して二か月。体は以前より軽かった。階段を上っても息が切れにくい。冬の朝に駅まで歩ける。その幸福を、私はうまく抱きしめられないでいた。胸の内側で動いているものが、自分のものではない気がする瞬間が、たまにあったからだ。


 夢は、その感覚に似ていた。


 最初は薬の副作用だと思った。移植後の免疫抑制剤は種類も多いし、眠りが浅くなることもあると説明されていた。主治医に相談すると、若い男性の医師は電子カルテから目を離さずに、睡眠障害は珍しくありませんよ、と言った。


「内容に一貫性があるんです。同じ場所で、同じ人が出てくるみたいな」


「術後は心身ともに不安定になりますから。移植という出来事自体が強いストレスですし」


 きれいすぎる説明だった。


 でも、私にはそれ以上言えなかった。


 夢のことを姉にだけ話した。姉の志穂は私より四つ上で、昔から現実的で、私の臆病を鼻で笑いながら守ってくれる人だ。


「それ、心臓の記憶とか思ってる?」


 ファミレスでそう言われ、私はスプーンを落としかけた。


「べつに……思ってないけど」


「思ってる顔だよ。ホラー映画を見たあとの顔してる」


「だって、変なんだもん。知らないはずの路地なのに、知ってる感じがするし」


「人間の脳は適当だから。あと、そういう話好きでしょ、あんた」


 好きか嫌いかで言えば、好きだった。怪談も未解決事件も、苦手なくせに見てしまう。怖がりのくせに覗く。私の悪い癖だ。


 でも今回は、覗いたのではない。向こうから来た。


「ドナーのこと、少しでも分からないの」


「分かるわけないでしょ。匿名だよ」


「性別とか年齢も?」


「聞いてない。聞かなかった」


 志穂は少し黙ってから、水を飲んだ。


「まあ、気になるなら調べれば。どうせ止めても調べるでしょ」


 その言い方が腹立たしいくらい正しかった。


 移植医療では、ドナーの個人情報は厳重に守られている。だから正式なルートで知れることはほとんどない。けれど、人は正式なルート以外で妙に多くのことを知る。ネットの体験談、まとめ記事、海外の「記憶を受け継いだ移植患者」の話。食の好みが変わった、知らない曲を口ずさむようになった、知らない土地に郷愁を覚えた。


 笑い飛ばせるはずの話が、そのときの私には笑えなかった。


 夢のなかで、女の人は毎回同じコートを着ていた。淡いベージュの、丈の長いコート。右の袖口だけ、少し黒く濡れている。何で濡れているのか、夢はいつもそこを見せない。


 そして四回目の夢で、初めて言葉が聞こえた。


 逃げて、ではない。


 助けて、でもない。


 女の人はふり返る直前、誰かの名を呼んだ。


 ――みのり。


 目が覚めたとき、その名前が頭から離れなかった。


 その日、会社の昼休みに私は検索した。


 名前だけでは何も出ない。事件、冬、女性、都内。いくつか条件を増やしていくうちに、指が止まった。


 三か月前、私の手術当日に起きた殺人事件。


 都内の住宅街で二十代女性が殺害されたという、短い記事だった。犯人は逃走中。被害者の名前は、高坂実乃里。


 スマホの画面を持つ手が震えた。


 偶然だ、と最初は思った。ありがちな名前だ。漢字まで一致したのは、ただの気持ち悪い偶然。なのに記事の日付を見た瞬間、胸がひやりと冷えた。私が麻酔で眠ることになる、その日の午後だった。


 午後三時すぎ、事件発生。

 私が手術室へ入ったのは午後六時を回ってから。

 麻酔導入は、午後六時十七分。


 時間の並びが、いやに生々しかった。


 私はその夜、胸を開かれ、生き延びるために眠らされていた。

 その数時間前、彼女はどこかの路地で命を奪われていた。


 その符合に、意味がある気がしてしまった。


 それから夢の密度が増した。私は路地の湿った匂いを知り、壁のざらつきを知り、足音の焦りを知った。女の人――実乃里は、一度だけこちらを見た。確かに見た。その目に助けを求める色はなく、むしろ何かを託すような、ひどく静かな焦りがあった。


 私はますます、心臓の記憶という言葉に引きずられていった。


 もし移植された心臓が、彼女のものだったら。


 そんな馬鹿げた推測を、私は本気で考え始めていた。


 主治医に聞けるはずもない。だから、私はもっと愚かな方向へ進んだ。事件の記事を読み漁り、被害者の周辺情報を拾い集めた。SNSは閉じられていたが、古い写真が少しだけ残っていた。高坂実乃里。二十五歳。妹と二人暮らし。両親とはほぼ縁が切れていた。


 その数日後、信じがたいことが起きた。


 病院から電話があり、移植に関する件で一度来院してほしいと言われたのだ。何か問題でも、と聞くと、事務的な声が「詳しくは面談で」としか答えなかった。


 嫌な予感を抱えたまま病院へ行くと、面談室にいたのはコーディネーターの女性と、見知らぬ若い女性だった。


 痩せていて、黒い髪をひとつに束ねている。膝の上で指を組み、爪が白くなるほど力を入れていた。顔を見た瞬間、私は夢の女の人を思い出した。似ているわけではない。けれど同じ家の空気を吸って育った顔だった。


「高坂絵里さんです」


 コーディネーターが紹介した。


 胸の奥で、移植された心臓が一度だけ強く鳴った。


 彼女は深く頭を下げた。


「突然すみません。変なお願いだって分かってるんですけど……姉のことを、少しでも知っている人に会いたくて」


 意味が分からず、私はコーディネーターを見た。女性は困ったように表情を整えてから言った。


「高坂さんは、お姉さまのご逝去のあと、臓器提供の可能性について独自に調べられたそうです。ただ、結果から言えば、あなたの移植に使われた心臓はお姉さまのものではありません」


 私は息をつめた。


 失望が先に来たことに、自分で驚いた。


 なら、この夢は何なのだろう。


 高坂絵里さんはうつむいたまま、小さな声で言った。


「すみません。私も、違うとは聞いてます。でも、どうしても……姉の心臓がどこかで生きてるなら、知りたかったんです」


 その気持ちは分かった。分かりすぎて、返事ができなかった。


 面談室の空気は、あまりにも息苦しかった。


 絵里さんは顔を上げた。疲れているのに、目だけが妙に強かった。


「変なことを聞きますけど……移植のあと、何か変わったことありませんでしたか」


 私は凍った。


 コーディネーターがすぐに制した。


「高坂さん」


「すみません。ただ、姉、亡くなる前にずっと誰かに怯えてたんです。警察にはちゃんと話してくれなくて。恋人の相談かなって思ってたけど、今になって考えると……」


 私は、夢のことを言うべきか迷った。


 ここで話したら、彼女を余計に傷つけるかもしれない。私の思い込みに付き合わせることになるかもしれない。けれど黙ったまま帰れば、この女の人はまた一人で姉の死を抱えるのだろう。


「あの……」


 私は、話してしまった。


 夢のこと。名前を知っていたこと。事件の記事を調べたこと。心臓の記憶だと思ったこと。話しながら、自分がどんどん怪しい人間になっていくのが分かった。


 でも絵里さんは途中で遮らなかった。


 最後まで聞いて、唇を噛んだ。


「姉のコート、ベージュでした」


 私は背筋が冷たくなった。


「右の袖口、よく汚してたんです。カフェで働いてたことがあって、漂白剤のシミが残ってて」


 夢で見た黒い濡れは、血ではなかったのかもしれない。


 その瞬間、夢が現実に寄りすぎた。


 私は怖くなった。やはりこれは心臓の記憶なのではないか。もしくは、もっと別の、説明のつかない何かなのではないか。


 ところが、その夜、思いもよらないところからその推測は崩れた。


 病院から帰宅した私は、移植手術のときの記録を漠然と見返していた。手術そのものの詳細ではなく、家族に渡された術中経過のメモだ。志穂が保管していた封筒の中に、担当医の簡単な走り書きが残っている。その脇に、姉が当時書いたらしい小さなメモがあった。


 待ってる間、ラジオで事件のニュースを聞いた。

 手術室へ入る前後だったかも。


 私はしばらく意味が分からなかった。


 志穂に電話すると、姉は少し考えてから答えた。


「ああ、それ。思い出した。あの日、待機してるときにスタッフルームのあたりからラジオの音が聞こえたんだよ。都内で若い女性が殺されて犯人逃走中、みたいな。手術前後って、家族も私も神経立ってたから、妙に覚えてただけ」


 そんな断片が記憶になるなんて、都合がよすぎる。けれど、はっきり聞いたのではなく、意味も分からないまま耳に触れたからこそ、変な形で残ったのかもしれなかった。


 手術という極限状態。周囲の声。半端に流れこんだニュース。術後の不安。匿名のドナー。心臓への違和感。全部が混ざって、夢という形で固まった。


 その説明は、心臓の記憶より現実的だった。


 現実的で、ひどく空しかった。


 では、私はただの偶然をつなぎ合わせて、死んだ人の物語に勝手に入り込んでいただけなのか。


 数日、私は誰にも連絡できなかった。


 夢も見なかった。代わりに、眠る前だけ強い動悸がした。胸の奥の心臓は生きようとしているのに、私の頭の中だけが暗い路地から抜け出せない。


 絵里さんから連絡が来たのは、その一週間後だった。


 会えませんか、と短い文面だった。


 駅前の喫茶店で会うと、彼女は前よりやつれて見えた。コーヒーに手をつけないまま、バッグから一枚の写真を出した。


「姉の部屋を片づけてたら出てきました」


 そこには、実乃里さんと男が写っていた。二人とも笑っている。男は背が高く、黒縁眼鏡をかけていた。整った顔で、よくいそうな、感じのいい会社員に見える。


「元恋人です。別れたって聞いてました。姉は、この人のことをあまり話したがらなかった」


 私は写真を見つめた。


 何も起きなかった。


 知らない顔だった。夢のなかの足音とも、路地の気配とも結びつかない。


「警察には?」


「出しました。でも、直接の証拠がないから強くは追えないって。アリバイもあるみたいで」


 私は小さくうなずいた。胸の奥が、かえってざらついた。


 違う。


 なぜかそう思った。


 そのとき、喫茶店の入口で鈴が鳴った。


「ごめん、遅れた」


 男の声だった。


 私は反射的に顔を上げた。


 絵里さんが振り返る。少しだけ表情をやわらげた。


「彼、来ちゃった。送るって言ってて」


 男は二十代の終わりくらいに見えた。明るいベージュのコート。無造作な髪。人当たりのよさそうな笑顔。手にコンビニの袋を提げている。


「はじめまして。彼氏の岸本です」


 その顔を見た瞬間、喫茶店の空気が遠のいた。


 知っている。


 ありえないのに、知っている。


 夢のなかで最後まで見えなかったはずの影が、急に輪郭を持った。路地の入口に立つ気配。追う足音の重さ。ふり返る実乃里さんの視線の、その先。


 この男だ。


 心臓が一度、耳の奥で鳴ったみたいに強く打った。


「どうしました?」


 岸本が笑ったまま言う。


 私は何か返そうとして、うまく声が出なかった。絵里さんが不思議そうに私を見る。


「大丈夫ですか?」


「……ちょっと、立ちくらみが」


 それが精いっぱいだった。


 その場で言えるはずがなかった。

 妹の今の恋人が犯人だと、証拠もなく告げるなんて。

 しかも本人が目の前にいる。

 私の夢だけを根拠に。


 岸本は気遣うような顔をして、水を持ってこようかと言った。その声がやけに平らで、私は余計に怖くなった。


 私は適当に話を切り上げて、店を出た。


 外の空気は冷たかったのに、背中だけ汗をかいていた。

 振り返る勇気はなかった。

 もしあの男がこちらを見ていたら、夢の路地が現実へはみ出してきそうだった。


 その夜、私は夢を見た。


 同じ路地だった。

 実乃里さんは走っている。

 足音が迫る。

 そして初めて、男の横顔が街灯にかすった。


 喫茶店で笑っていた顔と、ぴたりと重なった。


 目が覚めたあとも、その輪郭は消えなかった。


 翌日、私は何度も迷った末に、絵里さんへ連絡した。


 会いたいとだけ送ると、すぐに返信が来た。


 今度は駅から少し離れた公園のベンチで会った。私は座る前から、自分の顔色が悪いのが分かっていた。


「昨日の彼氏さんのことなんですけど」


 絵里さんの表情が強ばる。


「……岸本がどうかしましたか」


「変なことを言います。たぶん、最低です。でも聞いてください」


 私は喫茶店で彼の顔を見た瞬間のことを話した。夢の男と重なったこと。元恋人の写真では何も感じなかったこと。昨日の夜の夢で、初めて顔が見えたこと。


 絵里さんは黙って聞いていた。途中で一度だけ、手を膝の上でぎゅっと握った。


「そんなの、証拠にならないのは分かってます」と私は言った。「私がおかしいだけかもしれない。でも、心当たりがないかだけ聞きたくて」


 長い沈黙のあと、絵里さんが小さく息を吐いた。


「あります」


 私は顔を上げた。


「姉が亡くなったあと、岸本と付き合い始めました。最初は本当に偶然だと思ってた。相談に乗ってくれて、優しくて、私がひとりでいるときにちょうど連絡が来て」


 彼女はそこで一度言葉を切った。


「でも、今思うと変なことがいくつかあるんです」


 指先が震えていた。


「姉のことをあまり知らないはずなのに、妙に細かいことを知ってたり。姉がよく通ってた道とか、部屋にあったものとか。私は話してないのに、“まだあの棚そのまま?”って聞かれたこともあった」


「棚……」


「あと、姉の遺品を片づける話になると、さりげなく何が残ってるか聞いてきたんです。スマホは見つかったのか、とか。手帳はあったのか、とか」


 風が吹いて、ベンチの下で乾いた葉が転がった。


 私は喉の奥が冷えていくのを感じた。


「最初は心配してくれてるんだと思った。でも……違ったのかもしれない」


 絵里さんの目が、どこか遠くを見ていた。


「私、たぶん都合よく使われてたんです。姉が何を残したか、警察がどこまで掴んでるか、確かめるために。なのに私は、優しい人だって思ってた」


 その声は怒りより先に、ひどく冷えていた。


「それだけじゃない気もします」と私は言った。


「……え?」


「確認したかったのかもしれない。自分が壊した側の人間が、そのあとどうなるのか。遺された人がどんな顔をするのか。まだ自分の手が届くのか」


 言っていて、自分でも嫌な気分になった。


 けれど、岸本の笑顔を思い出すと、その推測は妙にしっくりきた。


 絵里さんはすぐには返事をしなかった。やがて、唇をきつく結んだまま言った。


「あります」


「何が」


「そういう感じ。私が泣いてるとき、慰めるくせに、どこか……見てるだけみたいなときがあった。反応を確かめてるみたいな。私が姉の話をしても、悲しそうというより、何かを計ってる感じで」


 私たちはしばらく黙った。


 陽はあるのに、公園の空気だけが冷たく感じた。


「警察に、もう一度話してください」


「夢の話を?」


「違います。彼の言動を。姉の遺品のことを妙に知っていたこと。何を探っていたか。時系列を、できるだけ細かく」


 絵里さんは長く息を吐いてから、うなずいた。


「……やってみます」


 そこから先は、静かだった。


 すぐに何かがひっくり返ったわけじゃない。けれど絵里さんは、岸本とのメッセージの履歴や通話記録、姉の古いスマホのバックアップを警察へ持ち込んだ。姉の事件後に岸本と知り合ったはず、という話にも曖昧な部分が出てきた。共通の知人をたどるうち、岸本が実乃里さんに以前から接触していた可能性も浮かんだ。


 決定打になったのは、防犯カメラの再解析と、岸本の部屋から見つかった古い端末だったらしい。削除された位置情報とメッセージの断片が残っていたという。さらに、絵里さんの証言で、事件後に岸本が遺品や端末の所在を執拗に探っていたことも補強された。


 警察から伝えられた話を、後日絵里さんが少しだけ教えてくれた。


 岸本は最初、実乃里さんへ一方的に接近していた。うまくいかなくなると態度が変わり、別れ話のあともしつこく接触を続けた。事件後に絵里さんへ近づいたのは、罪悪感ではなかったらしい。


 遺されたものの確認。

 警察の捜査状況の探り。

 そして、自分が壊したものの続きを見届けるみたいな、ひどく歪んだ執着。


 その話を聞いたとき、私は喫茶店で見た岸本の笑顔を思い出した。


 あれは親切そうな顔ではなかったのだ。

 近づいた獲物がまだ自分の手の内にあるかどうか、確かめている顔だった。


 逮捕の知らせを受けたのは、春先だった。


 桜のつぼみが固く、風だけが少しぬるい日だった。絵里さんからのメッセージは短かった。


 捕まりました。ごめんなさい。そして、ありがとうございました。


 私は駅のホームでその文面を見て、しばらく動けなかった。


 ありがとう、より先に、ごめんなさいが来るのが痛かった。

 姉を失って、その犯人に慰められていた時間まで、彼女はあとから飲み込まなければならない。


 助かった、とは思わなかった。


 終わった、とも思わなかった。


 ただ、ようやく一つの息が吐けた気がした。


 その夜、久しぶりに夢を見た。


 同じ路地だった。冬の空気。塀。街灯。けれど足音は一つしかない。実乃里さんが立っている。ベージュのコートを着て、こちらを見ていた。はじめて、その顔がはっきり見えた。写真で見たより少し幼く、疲れていて、それでも静かな目だった。


 私は夢の中で、ようやく口を開けた。


「どうして、私に」


 実乃里さんは答えなかった。


 ただ、少しだけ首をかしげた。困ったように、それでいてどこか納得したように。


 そして、私の胸のあたりを見た。


 鼓動がひとつ、強く鳴る。


 目が覚めたとき、枕が濡れていた。泣いていたのかどうか、自分でも分からなかった。


 その後、夢は来なくなった。


 生活は元に戻った。会社へ行き、電車に乗り、スーパーで牛乳を買う。姉は相変わらず雑で、母は相変わらず過保護で、私の不注意も相変わらずだった。鍵を忘れて志穂に怒られ、書類の数字を一列ずらして上司にため息をつかれた。生きていると、そういうしょうもないことで一日が埋まる。


 その、しょうもなさがありがたかった。


 ただ、ときどき考える。


 なぜ私は犯人の顔を知っていたのか。


 事件が起きたのは午後三時すぎ。

 私が麻酔に落ちたのは、その数時間後。

 あのあいだに流れていたニュースや会話が、どこかに沈んでいた。ここまでは、無理をすれば説明できる。人間の脳はかなりでたらめで、かなり器用だ。


 でも、岸本の顔だけは説明がつかない。


 私はあの日まで彼を知らなかった。

 ニュースにも出ていない。

 誰からも聞いていない。

 なのに、見た瞬間に分かった。


 あるいは、分かった気になっただけかもしれない。喫茶店で受けた違和感と、夢の恐怖を結びつけて、あとから意味を作っただけかもしれない。人間はそういうこともする。たぶん、いくらでもする。


 それでも、春の夜道を一人で歩いていると、ときどき胸の内側が静かに鳴ることがある。


 ありがとう、なのか。

 見つけて、なのか。

 何も言っていないのか。


 私には分からない。


 手術の日、私は確かに生き延びた。誰かの心臓が、私の中で今も律儀に動いている。名前も顔も知らない誰かのものだ。その心臓は高坂実乃里のものではなかった。


 それなのに、あの夜の路地だけが、いまだに私の中へ残っている。


 命は、臓器だけではなく、もっと別の形でも人に触れるのかもしれない。


 あるいは、死んだ人が最後に掴んだ細い糸が、たまたま私の胸に引っかかっただけかもしれない。


 永遠に分からない。


 分からないまま、私は今日も心臓の音を聞く。


 それはもう私のものとして鳴っているのに、ときどき、ひどく他人行儀だ。


 静かな夜ほど、その音は澄んでいる。


 まるで、まだ何かを覚えているみたいに。

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