海の見えるコーヒー
ホテルの喫茶室というものは、たいてい、時刻より先に静けさを用意している。
杉浦がその扉を押したのは、午後三時を少し回ったころだった。外の街路には、春の陽が白く薄まりながら降りていて、走る車の屋根や、通り過ぎる人々の肩を、ぼんやりと撫でていた。だが、ひとたびガラスの内側に入れば、空気は急に別の躾を受けたように落ち着く。靴音は厚い絨毯にほどけ、金属も木も声をひそめ、磨かれた真鍮の柱や、低く吊られた照明の乳白の光までが、過剰にならぬことを知っているようだった。
杉浦は四十七歳で、会社では総務課長をしていた。
凡庸といえば凡庸な経歴である。だが、整えるという一点においては、かなり上等な腕前を持っていた。机の上の角度、提出書類の余白、会議室の空調、誰かが口にし損ねた用件の補足。そうしたものを、表立たず、しかし確実に整えてゆくのが彼の役目であり、また習いでもあった。彼の人生は、おおむね「乱れない」という美徳の上に築かれている。
その杉浦が、有給休暇を取り、ホテルでコーヒーを一杯だけ飲むために来たのである。
これは本人にとって、密やかな企てであった。
大きな贅沢ではない。宝石も旅行も愛人もない。ただ、コーヒーを飲むだけである。けれど、何かのついでではなく、ただ一杯のためだけに、平日の午後をまるごと切り出して差し出すというのは、彼にとって不思議に敷居の高いことだった。忙しい人間には忙しいなりの貧しさがある。時間を空けても、その空白の扱い方がわからないのだ。
窓際の席に案内され、杉浦は静かに腰を下ろした。
椅子は身体を甘やかしすぎない柔らかさで、白いクロスの上には、小さな花瓶が置かれていた。挿してある白い花は一輪だけで、花というより、卓上に置かれた静謐そのもののように見えた。窓の向こうでは、街路樹の枝がまだ痩せていて、空の色も冬の名残を少しだけ含んでいる。春というものは、決して一気には来ない。上等なホテルの喫茶室もまた、優雅さを一度に押しつけず、少しずつ人に馴染ませる。
注文を取りに来た給仕に、杉浦は言った。
「コーヒーを」
たったそれだけなのに、妙に背筋が伸びた。
ケーキやサンドイッチを添えれば、話は単なる休憩になる。だが、コーヒー一杯だけ、という注文には、どこか剥き出しのところがある。言い訳がない。時間そのものを頼んでいるようで、居心地のよさを試されている気がする。彼は少しだけ喉を整え、給仕が去ると、携帯電話を鞄にしまった。今日は画面を見ないと決めていた。新聞もいらない。誰かに連絡をするつもりもない。
ただコーヒーを飲む。
それが今日の仕事だった。
やがて、銀の盆に載せられて、コーヒーが運ばれてきた。
白磁のカップ、細い金の縁取り、控えめな曲線を描く持ち手。ミルクのピッチャー、銀のスプーン、そして、白い結晶の入った蓋付きの器。いずれも置かれるべき場所に置かれ、その一連の動きには、わずかな音すら無駄がなかった。カップから立つ湯気は高くはのぼらず、香りだけがやわらかく漂ってくる。深煎りの苦味の奥に、焙られた豆の甘みがひそみ、その香りには、秋の木の実のような静かな豊かさがあった。
杉浦は、心のなかで、小さく頷いた。
ここまでは完璧である。
彼は今日の午後を、なるべく優雅に過ごしたいと思っていた。
優雅、という言葉を人前で口にしたことは一度もないが、その輪郭くらいは想像できる。せかせかしないこと。大仰に構えないこと。何かをわざとらしく愛でないこと。無駄な力を抜き、しかもだらしなくならないこと。言ってみれば、丁寧さが自然に見える状態である。杉浦はそういうものに憧れていたし、自分には縁遠いとも思っていた。だからこそ、今日は少し、その真似事をしてみたかった。
まず、砂糖を入れることにした。
ブラックでもよかったが、今日はほんの少し甘みがほしい。彼は蓋を取り、器の中を覗いた。白い粒が、こぼれた朝の光のように、こまやかに溜まっている。角砂糖ではない。細かな結晶だ。彼は銀のスプーンでそれをひと匙すくい、黒い液面へ落とした。小さな白はすぐに沈まず、しばし光を留めてから、ゆっくりと消えた。
彼は考え、もうひと匙入れた。
スプーンで混ぜる。
かすかな金属音が鳴った。
それは鋭いのに耳障りではなく、細いガラスの塔をどこか遠くで指先が弾いたような音だった。杉浦は三度だけ混ぜた。多すぎれば落ち着きがなく見える気がしたし、足りなければ間が抜ける気がした。こういうところに気を回す自分を、彼は少し面倒にも思う。だが、面倒なところまで含めて人間である。
カップを持ち上げる。
その軽さがまず意外だった。白磁は見た目よりずっと繊細で、しなやかに手へ馴染む。杉浦は口元へ運びながら、窓に映った自分の横顔をふと見た。そこには、妙に真面目な顔をした中年男が、コーヒー一杯に対して、やや覚悟めいたものを持って臨んでいる姿があった。少し滑稽だ、と彼は思ったが、まだ微笑むには早い。
彼は、一口すすった。
最初に来たのは、たしかにコーヒーの苦味だった。
次いで、深い香りが鼻へ抜ける。
だがその次の瞬間、甘みの来るはずの場所で、舌の上に、ひどく見覚えのない光がひらめいた。
杉浦は瞬きをした。
喉の奥で、世界が一拍ずれた。
海だった。
いや、海としか言いようがない。
砂浜でも潮風でもなく、もっと直接的に、海そのものが、上品な磁器の縁を乗り越えて彼の口内へ入り込んできたのだった。甘さを待っていた舌が、まるで場違いな訪問客に出会ったようにこわばる。塩気が、きらりと刃物のように光った。
杉浦は、カップを置いた。
その動作だけは、奇跡のように美しかった。
置いてからの数秒、彼はまったく動かなかった。
顔の筋肉をどのように使えば自然なのか、判断がつかなかったのである。驚けば負ける気がした。だが平然としすぎても不自然だ。結果として彼の表情は、たぶん少しだけ思索的になった。通りかかった者が見れば、上等なコーヒーの余韻を味わっている客に見えたかもしれない。実際には、塩だ、と彼は心のなかで低く断じていた。
いや、と彼はすぐに思い直す。
まさか。
こんな場所で、そんな間違いがあるだろうか。
もしやこれは、高級な豆に特有の複雑な風味で、自分の舌がついてゆけていないだけではないか。ワインの世界では、土だの革だの煙だのと言う。ならばコーヒーに海が混じっても、理屈としては有り得なくもない。世界は広い。自分の知らぬ味覚の教養が、この一口に詰まっている可能性は否定できない。
杉浦はもう一度、慎重に口をつけた。
やはり塩だった。
今度は、もう少しはっきりと塩だった。
しかも、知ったうえで飲んだぶん、先ほどよりいっそう容赦がない。危うく咳が込み上げかけたのを、彼は喉と意志の力だけで押しとどめた。ここでむせるのはまずい、と本能的に思った。何がまずいのか、自分でもよくわからない。ただ、上質なホテルの喫茶室において、塩入りコーヒーでむせる中年男というものは、いかにも救いがない気がした。
彼は視線だけで、卓上の器を見た。
露骨に見てはいけない。
けれど確認はしたい。
白い粒の容貌は、砂糖とほとんど区別がつかない。こうして見ると、やや荒いような気もするし、光り方が乾いているような気もする。だが、そう見えるのは、すでに塩だと知ってしまったからかもしれなかった。人間の認識は、こういうとき、驚くほど頼りない。
給仕が水を注ぎに近づいてきた。
杉浦の背筋は、ひそかに強張った。
「いかがでございますか」
この問いが、これほど重く響くとは思わなかった。
何が「いかが」なのか。味か。午後か。人生か。
杉浦は半瞬ののち、
「ええ、静かで」
と言った。
それは答えになっていないが、礼儀としては問題がない。給仕はにこやかに一礼し、水差しを傾けて去っていった。杉浦は、自分が一つの危機を美しくすり抜けたことに、安堵と空しさを同時に覚えた。
それにしても、どうする。
店の手違いだと告げれば、新しい一杯に替えてくれるだろう。むしろ伝えるべきなのかもしれない。ほかの客のためにもなる。だがそのためには、「自分は何の疑いもなく塩を二匙入れました」と、婉曲に告白する必要がある。しかも相手は、あの静かな給仕である。彼はきっと眉一つ動かさず対処するだろう。その完璧な対処が、かえって杉浦の失態を浮き彫りにするに違いない。
杉浦は、器の蓋をそっと開けた。
内側に、小さく文字がある。
S。
彼は目を細めた。
Sugar の S か。Salt の S か。
冗談のような分かれ道である。
だが今日の杉浦にとっては、妙に重大だった。英語の初歩問題ひとつで午後の品位が揺らぐなど、人生にはいろいろと理不尽なことがある。
彼は観念して、もう一口飲んだ。
塩だった。
だが、三口目にもなると、その異様さの輪郭が少し変わってくる。甘みを裏切られた最初の衝撃は薄れ、そのかわり、苦味が妙に引き締まって感じられた。香りも、塩気の向こうから、かえって高く立ちのぼるように思える。もちろん、優れた飲みものだと言うつもりはない。正気の人間が好んで作る味ではない。だが、ひどく間違っているわりに、完全には破綻していないのである。
杉浦は、ふとおかしくなった。
笑うわけにはいかないので、口元の内側だけがひそかに揺れる。
自分は何十年も、だいたい正しい側へ、正しい側へと身体を寄せて生きてきた。書類となれば提出前には三度見直し、問い合わせには曖昧な返事を避け、靴紐の長さすら左右で揃える。そんな男が、わざわざ有給休暇を取って優雅な午後を演出しようとした結果、塩入りコーヒーをすまし顔で飲んでいる。
これは、かなりよくできた皮肉ではないか。
喫茶室では、何ひとつ騒がしいことは起きない。
老婦人が文庫本の頁を繰り、隅の席の若い夫婦が低い声で何か話し、柱時計がかすかに時を刻む。白い花は白いまま、ガラスの向こうの街路は遅い午後の光を受けて少しずつ色を変えてゆく。
その整いきった静けさのただなかで、杉浦だけが、内心ひどく右往左往しながら、できるかぎり優雅な顔で塩入りコーヒーを飲んでいる。
その事実は、どこか奇妙に愛おしかった。
優雅というものは、もしかすると、失敗しないことではないのかもしれない。
失敗したあと、いきなり椅子を鳴らしたり、声を荒げたり、自分を大げさに責めたりせず、ひとまず姿勢を崩さないこと。
そして、できればその失敗のなかに、ほんの少しだけ別の味を見つけること。
そんなふうに考えると、この塩気にも、まるで不器用な教師のようなところがあった。
杉浦は結局、半分ほどでやめるつもりだったカップを、最後まで飲みきった。
最後の一口には、もう驚きはなかった。
ただ、苦味と塩気と、鼻へ抜ける香りが、妙な均衡のうえに静かに重なっていた。好物にはならないだろう。しかし、二度と思い出さない種類の味でもない。むしろ今後、正しい砂糖の入ったコーヒーを飲むたびに、今日の午後をちらりと思い出すだろうという気がした。
会計を済ませて立ち上がる。
給仕は終始、何も知らぬまま、あるいは知っていても何も言わぬまま、見事に礼儀正しかった。杉浦もまた、何ひとつ告げなかった。
回転扉の前まで来て、彼は一度だけ振り返る。
喫茶室には、静かな光が満ちていた。
あの部屋ではいまも誰かが正しく砂糖を入れ、正しく午後を味わっているのだろう。
それはそれで大変結構なことだ、と杉浦は思った。
だが、自分は今日、少し違う種類の午後を手に入れたのである。
完璧ではない。むしろかなりみっともない。
それでも不思議に、悪くなかった。
口のなかには、わずかな苦味と、海を遠くで思わせる塩気が残っていた。
杉浦はそれを、失敗の後味とは呼ばなかった。
ほんの少しだけ、人生に不意打ちを許した者の、静かな余韻だと思うことにした。




