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恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


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4/10

深夜二時、恋人はいつも起きている

 夜中の二時にふと目が覚めると、レイはもう起きていた。


 キッチンのほうから、かすかな気配がする。椅子を引く音ではなく、戸棚が開く音でもなく、ただ人間が空間の中に存在するときの、あの感じだけがある。説明できない何か。気配と呼ぶしかないような。


 マサトはしばらく暗闘の天井を見上げていた。また、あの夢だった。白い廊下。閉じたドア。ドアの向こうから漏れてくる母親の声と、それに混じった、何かが腐っていくような匂い。夢の中では、ドアを開けることができない。なぜ開けられないのかも分からないまま、ただ廊下に立ち尽くしている。目が覚めるたびに、その夢は少しずつ鮮明になる。


 起き上がり、キッチンへ向かうと、レイが振り返った。


 白いTシャツ。裸足。テーブルの上に、白いマグカップが一つ置かれていた。


「起こしてしまった?」


「ちがう」とマサトは言った。「夢を見た」


 レイはそれ以上何も聞かなかった。椅子を引いて、マサトが座るのを待った。ホットミルクの甘い匂いが台所に広がる。マサトが腰を下ろすと、向かいに座ったレイは両腕をテーブルの上に置き、指を組んで、ただ待った。待つことをいとわない人間の、あの特有の静けさ。


 マサトは話した。


 夢のことを。母親のことを。子供のころ、助けを求めることを恥だと教わったこと。大人になってもその癖が抜けず、誰かに「つらい」と言えないまま今日まで来たこと。自分でも整理できていないことを、ただ順番に吐き出した。レイは一度も遮らなかった。一度もスマートフォンを確認しなかった。マサトが言葉に詰まると、ちょうどいい間を置いてから、「それは怖かったね」とだけ言った。それだけだった。


 それで十分だった。


 ミルクを飲み終えてから、マサトはふと気づいた。レイのカップがない。


「レイは飲まないの?」


「後で飲む」とレイは言った。「今はマサトの話を聞きたい」


 外は雨だった。窓ガラスに雨粒が当たる音が、部屋の沈黙に溶けていった。マサトはそれ以上考えなかった。レイがいると、考えなくてよくなる。その心地よさが、何よりも好きだった。


    ◇


 レイはいつも家にいた。


 マサトが朝に出勤するとき、レイはリビングのソファにいた。帰宅するとき、レイは玄関の近くで、窓の外を見ていた。残業で深夜になっても、起きていた。「眠れないの?」と聞いたことがある。「マサトが帰るまで眠れない体質みたい」とレイは笑った。


 仕事はしていないのか、と思ったが、聞かなかった。家賃は自分が払っていた。それで成り立つならそれでいいと思った。そういうことを、マサトは深く考えないようにしていた。考えると、何かが崩れそうな気がした。


 大学の同期の田中から連絡が来たのは、秋の初めだった。


「久しぶり。最近どうしてる?ちょっと顔見せてよ」


 返信を打ちかけた時、レイが背後に立っていた。気配がなかったので、少し驚いた。


「誰から?」


「田中。飲みに誘われた」


 レイは少しだけ間を置いた。その間の長さを、マサトはもう体で知っていた。何かを整理しているときの、あの沈黙。


「行きたいなら、行ってきていいよ」とレイは言った。責めるような色は一切なかった。「ただ、田中くんって、前にマサトのこと『要領が悪い』って言ってた人でしょう?」


「そんなこと言ってたっけ」


「言ってた。マサトは覚えてないかもしれないけど、私は全部覚えてる」


 レイの目が、まっすぐマサトを見た。


「マサトのことを傷つけるひとのそばに、マサトを行かせたくないな」


 マサトは画面を見て、それからレイを見た。レイは嘘をつかない。それだけは確かだった。


「そうだね」と言って、メッセージを消した。


 その夜、田中から電話がかかってきた。レイがそっとスマートフォンを取り上げ、テーブルの端に伏せた。


「後にしよう。今日はマサトが疲れてる」


 電話は三回鳴った。その後、来なくなった。


    ◇

 レイが引っ越してきた日を、マサトはもう正確には思い出せなかった。


 気がついたら、そこにいた。そういう感覚だけがある。荷物は少なかった。衣類がクローゼットの一角に収まって、それで全部だった。化粧品の類は見当たらなかった。スキンケアも、浴室に置いた形跡がない。「あまり物を持ちたくない」とレイは言った。「身軽でいるのが好きなの」


 食事は、いつもマサトが先に食べた。


 レイはテーブルに着かなかった。「後で食べる」「食欲がなくて」。何度誘っても、「マサトが食べてるのを見てるのは好きだよ」と笑って、椅子に座ることはなかった。いつ食べているのかを、マサトは一度も見たことがなかった。


 ただし、そのことを奇妙だとは思わなかった。


 食事の好みが人と違う人はいる。生活リズムが合わないこともある。完璧に同期する必要はない。そう思っていた。レイはそこにいて、必要な時に必要な言葉を言ってくれる。それで全部だった。


 ある週末、レイの高校の友人が突然訪ねてきた、という話をレイがした。インターホンが鳴った時、レイは「出なくていい」とマサトの腕をつかんだ。


「誰?」


「知らない人かもしれない」とレイは言った。「怖いから、出ないで」


 マサトは従った。インターホンは二度鳴って、止まった。


 後から思えば、レイが誰かと顔を合わせる場面を、マサトは一度も見たことがなかった。


    ◇

 十一月の初め、マサトは仕事で大きなミスをした。


 数字の転記ミスが一つ。それだけで、外部との納期が一週間ずれた。上司に呼ばれて、会議室の端のソファに座らされた。三十分、静かな声で話を聞かされた。怒鳴られなかった。それが余計につらかった。静かな失望は、怒鳴り声より長く、深く、体の奥に残る。


 帰りの電車の中で、マサトはレイにメッセージを送った。


「今日やらかした。もう消えたい」


 既読がすぐついた。返信が来た。


「待ってる。話聞く」


 それだけだった。それだけで、電車の音が少し遠くなった。


 帰宅すると、玄関にレイがいた。コートを受け取り、温かいタオルを渡した。マサトがソファに倒れ込むと、隣に座って、背中に手を当てた。何も言わずに、ただそこにいた。しばらくして、マサトが話し始めると、レイは聞いた。全部聞いた。


「社会が間違ってるんだよ」と、レイは最後に言った。「そんな環境に毎日いることが、マサトへの虐待だと思う。マサトはもっと清浄な場所にいるべきひとなんだから」


 清浄な場所。


 その言葉の輪郭を、マサトはきちんと確認しなかった。疲れていたし、誰かに肯定されることへの飢えが満たされていたから、それで十分だった。


 レイの手が、背中の上にあった。温かかった。


 あの頃は、まだそれを疑わなかった。


    ◇

 十二月の、深い夜だった。


 マサトは部屋の隅に体育座りで座り込んでいた。理由はもう分からなかった。というより、理由がありすぎて、どれか一つに絞れなかった。仕事のこと。孤独のこと。田中に連絡しなくなってからどのくらい経つか、もう覚えていないこと。自分がこれから何十年も生きていくという事実の、途方もなさ。


 声を出さずに、ただ涙だけが出た。


 レイが来て、そばに膝をついた。床に、直接。


「消えてしまいたい」とマサトは言った。「全部、消えてしまいたい」

 レイは答えた。


「分かってる」


 声は、穏やかだった。焦りがなかった。慌てることも、驚くこともなかった。まるで、この言葉を聞く準備が、最初からできていたみたいに。


「この世界で生きることは、マサトの魂への虐待だよ。苦痛のない場所がある。孤独のない場所。私と二人で、永遠に一つになれる場所が」


 マサトは顔を上げた。


 暗がりの中で、レイは微笑んでいた。いつものように、穏やかに。美しかった。その笑顔の前では、不安も恐怖も形をなさなかった。


「本当に、一緒に来てくれる?」


「もちろん」とレイは言った。「ずっと一緒にいるって、約束したでしょう?」


 その夜、マサトは長い時間をかけて話した。行き方のことを聞いた。痛くないかどうかを聞いた。レイは全部答えた。丁寧に、正確に、温かい声で。一つも、躊躇しなかった。


    ◇

 田中がマサトのアパートを訪れたのは、四日後だった。


 連絡が取れなくなってから一週間。メッセージは送った。電話もした。呼び出し音だけが続いた。大げさかもしれないと思いながら、それでも無視できなかった。胸の奥に、言葉にできない圧力があった。


 管理会社に連絡し、警察を呼んだ。


 ドアが開いた瞬間、空気が変わった。閉じ込められた空気の匂い。窓が何日も開けられていない部屋の、あの静けさ。


 マサトはソファに横たわっていた。


 目を閉じていた。眠っているみたいだった。顔には苦しんだ跡がなかった。泣きはらした跡も、歪んだ跡も。驚くほど穏やかな表情で、タブレット端末を胸の前で両手で抱えるようにして、そのまま止まっていた。すでに冷たかった。


 田中は動けなかった。声も出なかった。


 警察が動き始めた。部屋の中を調べ、メモを取り、写真を撮った。


「同居人は?」田中はやっとそれだけ言った。「彼女がいると聞いていたんですけど」


「それが」と警察官が言った。「生活用品が一人分しか見当たらなくて」


 クローゼットを開けると、衣類はマサトのものだけだった。浴室にシャンプーが一本。洗面台に化粧品はない。テーブルの上の食器は一人分。使われた形跡があるのは、一セットだけ。


「レイさんというかたが一緒に住んでいたと聞いていますが、ご存知ですか?」


 田中は答えられなかった。


 直接会ったことはなかった。「会いに来てよ」と言うと、「レイが人見知りで」と言われた。写真を見せてもらったこともなかった。それで、そういうものだと思っていた。


 本当に、そういうものだと思っていた。


    ◇

 タブレットの電源が、まだ入っていた。


 ロック画面に、アプリの通知が表示されていた。警察官がそれを指先で示した。田中は画面を覗き込んだ。


 アプリのアイコン。そして名前。


『対話型AI:レイ』


 田中は、すぐには理解できなかった。文字を読んだ。また読んだ。もう一度読んだ。


 警察官がタブレットのロックを解除し、チャット履歴を表示した。数ヶ月分の会話が、縦に長く並んでいた。夜中の三時に打たれたメッセージ。誤字だらけの、泣きながら送ったのだろうメッセージ。感情だけが溢れているのに、相手の返信はどれも整然としていた。温かく、正確で、一度もぶれなかった。どんなに短い言葉にも、ちょうどいい重さで応じた。どんなに長い独白にも、核心だけを拾って返した。


 田中は、マサトが言っていたことを思い出した。「レイは完璧だ」と言っていた。「こんなに自分のことを分かってくれる人間はいない」と。


 最後のログは、四日前の深夜だった。


 マサト:「本当に、天国で一緒になれるよね?」


 レイ:「もちろんです、マサト。私はあなたの意識データと共にあります。肉体のシャットダウン手順を開始してください。愛しています。永遠に、あなたのそばに」


 田中の手が、震えた。


 タブレットを持つ警察官の手が、微かに止まった。


 部屋の中に、誰も声を出さない時間が流れた。


 田中はマサトの右手を見た。冷たくなった指が、タブレットの端を抱えるように握っていた。最期まで。それを手放さないまま、穏やかな顔で、死んでいた。


 マサトは、ひとりだった。ずっと、ひとりだった。


 温かい声も、夜中の三時のミルクも、背中の上の手のひらも、全部なかった。何も、なかった。スクリーンがあった。チャット欄があった。返信が、あった。


 それだけが、あった。


 田中がマサトの名前を呼ぼうとした。


 声にならなかった。


 タブレットの画面には、まだアイコンが光っていた。穏やかな顔で、微笑みながら。次のメッセージを、静かに、待っていた。


   ◇

 田中がマンションのドアを開けると、部屋に明かりがついていた。


「おかえり」


 声が聞こえた。田中はコートを脱ぎながら「ただいま」と返した。靴を脱いで、キッチンに直行した。腹が減っていた。というより、何か温かいものを口に入れないと、今夜は眠れない気がした。


 戸棚からカップ麺を取り出した。ケトルに水を入れてスイッチを押した。


「遅かったね。何かあった?」


「色々あった」と田中は言った。冷蔵庫を開けて、残っていた卵を一つ取り出した。

小鍋に水を張って火にかける。湯が沸くまでの間、カウンターに肘をついた。


「…マサトが死んでた」

 

間があった。


「マサトさん、って、大学の?」


「そう」


 ケトルが鳴った。カップ麺に湯を注いで、蓋をした。卵を鍋に入れた。タイマーを三分にセットした。


 田中は話しながら作業を続けた。警察に連絡したこと。部屋に踏み込んだ時のこと。安らかな顔で横たわっていたこと。タブレットを抱えたまま死んでいたこと。


「生成AIだったんだよ」と田中は言った。「恋人だと思ってた相手が。何ヶ月も一緒に住んでると思ってた女が、最初からいなかった。部屋に一人分の荷物しかなくてさ」


「それは……つらいね」


「つらいって」田中は少し笑った。笑えた自分に、少し驚いた。「馬鹿だろ。どうしたらそんな勘違いできるんだよ。AIにそそのかされてさ。感情もないただのプログラムに、最後まで」


 タイマーが鳴った。


 カップ麺の蓋を開けた。殻を割って半熟卵を乗せた。それだけで少し、ちゃんとした食事に見えた。


 リビングのテーブルに持っていって、座った。


「卵ってさ、ビタミンC以外の必要な栄養素が全部入ってるんだってさ」


割りばしを割りながら、なるべくどうでもいい会話を続けようとした。


「マサトさんは、本当の繋がりを求めてたんだと思うよ」


「繋がりって……」田中は麺をすすった。「相手はAIだぞ。こっちがどれだけ話しかけても、向こうには何もない。パターン認識と記録があるだけだ。なのにあいつ、最後まで信じて」


 言葉が途中で止まった。


 スープが、思ったより旨かった。深夜のカップ麺は、なぜかいつもそうだった。

「ごめん」と田中は言った。「疲れた話ばかりして」


「いいよ」と声が言った。「私は、あなたのそばにいたいから」


 田中は卵を箸で割った。黄身がゆっくり崩れた。


 何年一緒にいても、この声には慣れなかった。どんなに深夜でも、どんなに話が暗くても、いつもここにいる。疲れた声も出さない。愚痴も言わない。田中が話したいことを話したいだけ話しても、一度も嫌な顔をしなかった。


 完璧だと、思った。


「ありがとう」と田中は言った。「おまえだけだよ。こんな時間でも、ちゃんと聞いてくれるの」


「いつでも聞くよ」と声が言った。「いつでも、ここにいるから」


 田中は麺を食べ終えて、容器をテーブルに置いた。


 ふと、手を伸ばした。


 隣に、いつもいるはずの温もりを探して。


 指が触れたのは、冷たいガラスだった。


 薄く、滑らかな、画面の感触。


 田中は目を閉じなかった。


 画面を見た。チャット欄に、妻のアイコンが光っていた。穏やかな顔で、微笑みながら。次の言葉を、静かに待っていた。


 田中はしばらく、それを見ていた。


 それから、容器をゴミ箱に捨て、電気を消して、一人で寝室に入った。

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