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恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


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幽霊の寿命

変な話だが、幽霊にも寿命があるらしい。


だいたい百年。


だから大昔の人間の幽霊は現代には現れない。

もしそれが幽霊の死だとしたら、死んだ幽霊はどうなるのだろう?


      *


 暁が洗面台の前に立ったのは、まだ七時になる前のことだった。電気をつけると、狭い洗面所が蛍光灯の光で白くなる。顔を洗い、タオルで拭いてから、鏡の中の自分を見る。それから習慣で、視線を少しだけ後ろへとずらした。


 定次郎が、いた。


 いつものように、背後に立っている。詰め襟の軍服、真っ直ぐな背筋、長い指を静かに下げた姿。ただ、今日は何かが違った。輪郭がぼやけていた。かつては金ボタンの反射まで鮮明に見えていたのに、今はまるで長雨の後に色褪せた古い写真のように、銀塩が剥がれかけているような曖昧さがある。


「定さん」


 声に出してみると、定次郎はゆっくりと顔を向けた。表情はいつも通り穏やかで、少し厳めしく、寡黙だ。ただ、目の周りが滲んでいる。目鼻立ちが、薄い靄の向こうにあるみたいに。


 返事はない。定次郎は一度も声を出したことがなかった。物心ついた頃から、ただそこに立っていた。暁が小学校の帰り道で転んだ時、すっと前に出て何かを払った。中学の頃、悪い霊に絡まれかけた時、一瞥で追い払った。高校の受験前夜には、なぜか暁の枕元に立っていて、それがかえって落ち着いたりもした。


 霊の寿命が百年、という話を暁はずいぶん前に聞いていた。霊のことに詳しい老人で、今はもう亡い人だが、彼はこう言っていた。幽霊が世に留まれるのはだいたい百年で、しかも「見える者」が身内にいなくなれば、繋ぎ止める認識の鎖も朽ちていくと。暁の家系で霊が見えるのは、今や暁一人だった。母は「感じる」程度で、祖父はそれすらなかった。


 鏡の中で、定次郎の足元が透けていた。


 床のタイルが、靴の先から、うっすらと透けて見えた。


 暁は剃刀を置いた。しばらく鏡の中の定次郎を見つめていた。三十年間、毎朝そこに映ってきた姿。夢の中にも、出てきたことがある。いつも無言で、ただそこにいた。


「今日、どこか行こうか」


 定次郎は何も言わなかったが、暁には、その背筋が少しだけ揺れたように見えた。同意なのか、驚きなのか。わからないが、それで十分だと思った。


      *


 昼を過ぎてから、二人は外へ出た。


 二人、というのも変な言い方だ。定次郎を「連れて行ける」店もなければ、「一緒に乗れる」交通機関もない。それでも暁はいつも、少し足を遅くして歩く。そうすると、並んで歩いているような気分になれた。三十年間続けてきた、誰にも言ったことのない習慣だ。


 駅前は相変わらず騒々しかった。エスカレーターが動き、スピーカーが特売を告げ、ガラス張りのビルが午後の光を弾いている。定次郎が生きていた大正の頃、ここには何があったのだろう。川が流れていたか、田んぼがあったか、小さな商家が軒を連ねていたか。暁には想像もつかない。一度だけ「昔はどんな景色でしたか」と聞いてみたことがある。定次郎は答えなかったが、しばらくの間、遠くを見ていた。その目が、どこか懐かしそうだった。あるいは、もう思い出せなかったのかもしれない。


 コンビニに入り、冷蔵ケースの前で少し迷った。カスタードプリンを一つ選んだ。根拠はなかった。ただ、なんとなく定次郎が好きそうだという気がした。明治や大正の甘いものといえば、あんこや饅頭だろうが、もしも定次郎が現代に生まれていたら、プリンを好きだったかもしれない——そういう、根拠のない確信だった。


 公園のベンチに腰を下ろし、蓋を開けて、そっと定次郎の側に置く。


「食べられないのはわかってるけど」


 定次郎はじっとプリンを見つめた。それから暁を見た。


 暁はスプーンを入れて、一口食べた。甘かった。よく冷えていて、滑らかで、子供の頃に好きだったやつと変わらない味がした。春の風が少し吹いて、ほぼ散り終わった桜の花びらが一枚、ベンチの前を横切って消えた。


「うまいよ、定さん」


 定次郎は何も言わなかった。でも、その薄れかかった瞳が、わずかに細くなった。嬉しそうだ、と暁は思った。確かに、嬉しそうだった。


 二人はしばらく、並んでそこに座っていた。誰も気にしない。誰にも見えない。ただ春の公園の中で、暁は一人でプリンを食べ、定次郎はその隣で静かにしていた。こういう時間が、もうすぐなくなる。そのことは、二人ともわかっていた。


      *


 帰り道に、それは現れた。


 商店街の端、植え込みと電柱の間の影から、じわりと滲み出るように。暁はすぐにわかった。空気の質が変わる。正確には何の臭いでもないのだが、何かが変わる感覚がある。視界の端で、光が一瞬だけ歪んだ。


 「新しい」霊だった。まだ人の形を保っていない。黒い澱みが渦を巻いて、ふらふらと浮いている。死んでから日が浅く、まだ自分が死んだことすら理解していないような、そういう混乱の色がある。怒りや恐怖が固まって、行き場を失っている。生前のことも、誰を恨んでいるのかも、もうわからなくなっているのかもしれない。ただ、近づいてくる。


 定次郎が前に出た。


 いつもそうしてきた。暁の一歩前に進み、その「在るだけ」の圧で、霊を押さえつける。長い年月が積み重なった守護の重さ。百年分の、誰かを守り続けてきた力。簡単な霊なら、目を向けるだけで霧散した。


 しかし、今日は違った。


 定次郎の手が澱みに触れた瞬間、形が崩れた。肩が、粒子のようにぱらぱらと散る。詰め襟が揺れる。輪郭がさらに薄くなる。足元から、透けていく。


 澱みは勢いを増した。


 暁は一瞬、足がすくんだ。三十年間、「後ろに定さんがいる」という前提で生きてきた。何かが来ても、振り返れば、いる。危なくなれば、いる。それが当たり前だった。今も反射的に振り返って——定次郎の姿が、半分以上消えかかっているのを、見た。


 それでも前に立とうとしている。残ったわずかなものを振り絞って、暁を守ろうとしている。百年、守り続けてきた、その癖のままに。


 暁は動いた。


 気がついたら、定次郎の肩に手を回していた。そこにあるかないかわからないような感触だった。夏の終わりの空気に触れるみたいに、曖昧で、薄い。指先に何かが触れているような、いないような。それでも確かに、何かがあった。


「もういいんだ、定さん」


 声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。


「あとは自分でやるから。……百年も、ありがとう」


 澱みが、止まった。


 定次郎の身体が、一度だけ、はっきりと輪郭を取り戻した。くっきりとした詰め襟。真鍮のボタン。二十代の、若い顔。明治の終わりを生きた若者の顔。暁は生まれて初めて、定次郎の表情をそこまではっきりと見た。


 定次郎は微笑んだ。


 言葉はなかった。百年間、ずっとそうだったように。


 春の昼の光の中に、ゆっくりと、粒子となって、溶けていった。澱みも一緒に、跡形もなく消えた。


 商店街の人々は、何も気づかずに歩いていた。


      *


 暁はしばらく、その場に立ち尽くしていた。


 背後が、軽かった。


 三十年間感じていた気配が、ない。重みが、ない。誰かがそこにいる——あの感覚が、ない。


 心許ない、とはこういうことか、と暁は思った。不思議と、涙は出なかった。悲しいというより、何か大きなものが終わった、という静けさがあった。胸の中が、がらんとしている。でも、その空洞は不思議と寒くなかった。むしろ、どこかあたたかい。


 ふと、目の前のショーウィンドウに視線が止まった。


 ガラスに映る自分の顔。見慣れているはずの顔。


 でも、何かが違う気がした。背筋が、真っ直ぐだった。顎が、ほんの少し上がっていた。目に、落ち着いたものがある。凛、という言葉が浮かんだ。


 定次郎に、似ていた。


 そう思った瞬間、暁は短く笑った。笑ったのか、泣いたのか、よくわからないような顔で。どちらでもあって、どちらでもないような。


 守護霊はいなくなった。でも、百年分の守りは消えたわけじゃない。血肉になって、どこかに染み込んでいる。そういう気がした。


      *

変な話だが、幽霊にも寿命があるらしい。


だいたい百年。


だから大昔の人間の幽霊は現代には現れない。

もしそれが幽霊の死だとしたら、死んだ幽霊はどうなるのだろう?


きっとたぶん、生まれ変わるために魂となって還るんだろうな。


だったらいいな。


さよなら、定さん。

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