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恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


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遅れてきた気持ち

 人生で最初の記憶が、母の葬式だということを、わたしはずっと誰にも話したことがなかった。


 話せなかったのではない。ただ、どう話せばいいのかわからなかった。


 三歳の冬だった。式場の廊下は冷たくて、黒い服を着た大人たちがたくさんいて、泣いていた。みんなが泣いていた。肩を震わせる人、声を上げる人、ハンカチで顔を覆う人。その中でわたしだけが、泣いていなかった。


 思い出の中の幼女は、まるで他人のようだった。


 泣き方を知らなかったのかもしれない。悲しみの意味を知らなかったのかもしれない。ただわたしは、廊下の隙間から外の光が差しているのを見て、気づいたら外に出ていた。庭の小石を拾い、水たまりを踏んで、靴下をびしょびしょにした。誰かに連れ戻されるまで、ずっとそうしていた記憶だけが、妙に鮮明に残っている。


 母親の記憶はない。あるのは遺影の笑顔だけだ。和室の棚に飾られたその写真の女性は、わたしによく似ていると父が言った。でもわたしには、他人の顔にしか見えなかった。


 いないのが当たり前だった。だからいなくなった寂しさも、なかった。


 そうやってわたしは育った。



 父が再婚したのは、わたしが八歳の春だった。


 相手の人は、菜摘さんといった。細くて、声が静かで、笑うと目が細くなる人だった。父と並んで立っているとき、少し緊張しているのがわかった。


 わたしも緊張していた。ただし、種類が違った。


「お母さんって呼んでくれると嬉しいな」


 初めて会った日、菜摘さんはそう言った。声は優しかった。まっすぐな目だった。


 わたしは黙った。


 何も言わなかったし、何も感じようとしなかった。正確に言えば、感じてはいた。


ただそれが何なのか、自分でもわからなかった。拒絶、とも違う。恐怖、とも違う。ただ何かが、胸の奥で硬くなった。


 菜摘さんはその後も、何度かその話をした。でもわたしはいつも、黙ったか、別の話に逃げた。



 小学四年の遠足の前の晩、気づいたら台所から音がしていた。


 朝の五時だった。まだ暗い中、まな板の音がしていた。覗いたら、菜摘さんが卵焼きを巻いているところだった。


「起こしちゃった?」


「……起きてただけ」


 うそだった。音で目が覚めた。


 お弁当には、たこさんウインナーと、わたしが好きなポテトサラダと、型で抜いたチーズが入っていた。友達に「かわいい」と言われた。わたしは「うち、お弁当うまいんだよね」とだけ言った。


 ありがとう、が言えなかった。


 言えない自分のことも、少し嫌いだった。


 父に怒られたとき、菜摘さんがかばってくれたことがあった。「そんなに言わなくていいじゃない」と、父に向かってはっきり言った。その声には、普段より少し強さがあった。


 わたしは礼も言わず、自分の部屋に戻った。


 でも扉を閉めてから、壁に背中をつけて、しばらく動けなかった。


 嬉しいという感情と、それを素直に受け取れない何かが、胸の中でぶつかり合っていた。


 血がつながっていない。


 その一点だけが、すべてを「借り物」にした。優しさも、気遣いも、笑顔も。義務でやっているだけなのかもしれない、と思った。そう思うことで、傷つかずに済んだ。


 そうやって、わたしは距離を保った。


 距離を保てば、失わずに済む。


 それが正しいことだと、ずっと思っていた。



 高校に上がると、口論が増えた。


 些細なことだった。門限、スマホ、成績。父と言い合いになるたびに、菜摘さんは間に入ってきた。わたしはそれが、いっそう腹立たしかった。


 ある夜、夕食の後で、わたしは言ってしまった。


「無理しなくていいから」


 菜摘さんは箸を置いた。


 しばらく、黙っていた。


「無理してるとは思ってないんだけど」


 声は穏やかだったが、わずかに揺れていた。


「そう見えるなら、ごめん」


 父が口を開きかけたが、菜摘さんが小さく手を振って止めた。


 わたしはそのまま席を立って、部屋に籠った。


 罪悪感はあった。ただそれを認めることは、何かを認めることになる気がして、できなかった。


 何を。


 それもわからなかった。



 成人式は、一月の、骨が折れそうに寒い朝だった。


 振袖は菜摘さんが選んでくれた。薄い紫で、梅の柄が入っていた。わたしは「別に何でもいい」と言ったが、菜摘さんは何軒も見に行ったらしかった。父から後で聞いた。


 式が終わって家に帰ると、玄関に封筒が置いてあった。


 わたしの名前が書いてあった。菜摘さんの字だった。


 両親はどこかに出かけているようで、家の中は静かだった。コートを脱がないまま、わたしはソファに座って封筒を開けた。


 便箋が三枚、入っていた。


 インクは青くて、少し筆圧が強かった。


 読み始めて、すぐに気づいた。手紙が、震えている。書いた人が震えていたのか、読んでいるわたしが震えているのか、しばらくわからなかった。



 手紙には、こう書いてあった。


 菜摘さんには、子どもが産めない体だということ。病気ではなく、最初からそういう体に生まれたこと。結婚を考えていた人と、そのことで別れたことがあること。父はそれを知った上で、それでも一緒にいたいと言ってくれたこと。


 そして。


 あなたに出会ったとき、母になれるかもしれないと思った、と書いてあった。


 怖かった、とも。


 受け入れてもらえなくてもいいと思っていた、とも。


 ただ、あなたのそばにいることが嬉しかった。遠足のお弁当を作るとき。怒られているあなたをかばうとき。それだけで十分だと思っていた。


 最後の行に、こう書いてあった。


 「あなたのお母さんになれたことが、わたしにとって、どれほどの幸せだったか。うまく言えないけれど、どうしても一度だけ、伝えたかった」


 文字が滲んだのは、最後の行を読み終えてからではなかった。


 二枚目の途中だった。


 子どもが産めない、と書いてあった箇所を読んだとき、急に胸に何かが落ちてきた。


 落ちた、という言い方しかできない。頭ではなく、胸に、直接。


 菜摘さんは、わたしを選んでいた。


 義務でも、父への愛の延長でもなく。血がつながっていないのはお互い様で、それでも彼女は、ここにいることを選び続けていた。


 借り物ではなかった。


 わたしがそう決めていただけだった。


 便箋を持ったまま、わたしはしばらく動けなかった。



 泣いていた。



 涙が出ているのに気づいたのは、振袖の袖が濡れてからだった。


 泣きながら、わたしはなぜか、三歳の冬のことを思った。


 式場の廊下。泣いている大人たち。水たまり。びしょびしょの靴下。


 あのとき、泣かなかった。


 泣き方を知らなかったのではないと、今なら思う。悲しみの置き場所が、なかったのだと思う。三歳の子どもには、「もう会えない」という事実が何を意味するのか、まだわからなかった。失ったものの大きさを、理解する言葉を持っていなかった。



 だからずっと、そこに残っていた。



 泣けなかったあの日が、何十年も、心の底に沈んだまま、ずっとそこにいた。


 わたしが感じていた空白は、そこから来ていたのかもしれない。


 何かが足りない、という感覚。何かを求めている、という感覚。でも何が足りないのか、何を求めているのか、ずっとわからなかった。


 その空白が、菜摘さんを遠ざけていた。


 近づいてくるものを、近づいてくれるものを、無意識に押し返していた。


 失うのが怖かったのかもしれない。


 失ったことに、気づくのが怖かったのかもしれない。



 どれくらい泣いていたかわからない。


 気づいたとき、外は少し暗くなっていた。


 玄関の鍵が開く音がした。父と菜摘さんが帰ってきた。


「あら、電気もつけないで――」


 菜摘さんがリビングの入り口で止まった。


 わたしの手に、開いた封筒があった。


 菜摘さんは何も言わなかった。父が空気を読んで、台所に消えた。


 しばらく、静かだった。


 菜摘さんは、わたしの斜め前に、そっと腰を下ろした。膝に手を置いて、正面を向いたまま、何も言わなかった。責めることも、急かすことも、泣くことも、しなかった。



 ただ、そこにいた。


 ずっと、そうしてきたように。


 わたしは便箋を膝の上に置いた。


 呼吸を整えようとして、うまくいかなかった。


「……読んだ」


「うん」


「なんで、今まで言わなかったの」


 菜摘さんは少し考えてから、言った。


「言ったら、重くなると思って」


「重くなった」


「ごめんね」


 謝ることじゃない、と言おうとした。でもその前に、声が出なくなった。


 喉の奥が、詰まるような感じがした。


 泣いた後だから空っぽのはずなのに、また何かが溢れてきた。



 お母さん。



 その言葉が、初めて、するりと出てきた。


「ありがとう、お母さん」


 菜摘さんが、静かに息を吸った。


 それから、わたしの手に、そっと自分の手を重ねた。


 何も言わなかった。


 それでよかった。


 言葉よりも、その手の重さのほうが、ずっと確かだった。



 あとで、こんなことを考えた。


 母親という言葉の意味は、ひとつじゃないのかもしれない。


 産んでくれた人の意味もある。育ててくれた人の意味もある。そこにいてくれた人の意味も。


 わたしは長い間、最初の意味しか認めなかった。だから後の二つが入ってこなかった。


 空白は、まだある。


 実母への想いは、これからも消えないと思う。形のない、会えなかった人への、うまく言えない何か。



 ただ。



 空白が空白のままでも、そこに温かいものが隣に来ることはある、ということを、わたしは今日、初めて知った。


 三歳の冬のあの子は、庭で石を拾いながら、泣けない自分のことも、たぶんわかっていなかった。


 それでよかったのだと、今は思う。


 あの時、流すはずだった涙は、ずっとここにあった。



 泣くのは、今からでも遅くない。

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