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恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


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君の常在菌に恋してる

 糠床には、人格がある。


 高橋誠一郎はそう考えていた。三十五年の人生を微生物学に捧げた男の、これは学術的確信であり、個人的信仰でもあった。


 乳酸菌、酵母、産膜酵母。温度、塩分、かき混ぜる手の圧力。それらが複雑に絡み合って生まれる糠床の生態系は、どんな人工培地よりも精妙だ。そして何より——糠床は、管理する人間の手の常在菌を取り込む。


 つまり糠漬けとは、その人そのものだ。


 高橋がそう結論付けたのは、二十代の終わりに初めて「本物の糠漬け」を食べた夜のことだった。同僚の母親が手土産に持ってきた、何十年も育てた糠床で漬けた大根。一切れ口に入れた瞬間、頭の中で何かが書き換えられた。乳酸発酵の酸味、アミノ酸の旨み、微かな苦み——データとして知っていたはずの成分が、まったく別の言語で語りかけてきた。


 それからというもの、高橋は糠漬けに取り憑かれた。自宅で糠床を育て、phを測定し、菌叢の変化を記録し、漬け時間と塩分濃度の関係を表にまとめた。職場の同僚からは「仕事とプライベートの区別がない」と呆れられたが、高橋には関係なかった。これは科学であり、同時に愛だった。


 「糠漬けサークル」の存在を知ったのは、近所のコミュニティセンターの掲示板だった。

 月に一度、持ち寄りで糠漬けを味わい語り合う会。主催は七十代の田中さんというおじいさんで、参加者は固定メンバー十数名。高橋は二秒で参加を決めた。


 初回の例会。六畳ほどの和室に、三十代から七十代までの男女が輪になって座っていた。テーブルの中央には各自が持参した糠漬けが並んでいる。きゅうり、にんじん、なす、かぶ。色とりどりの漬物が皿に盛られ、高橋の胃袋は条件反射で鳴った。


 順番に試食が始まった。田中さんのきゅうりは円熟した酸味がある、五十代の主婦のなすは塩が強め、七十代の女性のかぶは品のいい甘みが……高橋は食べながら脳内でメモを取り続けた。糠床の状態、発酵の度合い、おそらくの管理法。舌がデータ収集装置として機能している。


 そのとき、隣の皿に箸を伸ばした。

 大根の糠漬け。薄切りで、断面が白く透き通っている。

 口に入れた瞬間、高橋は動きを止めた。


 ——なんだ、これは。


 酸味と甘みのバランスが完璧だった。発酵が深いのに角がない。旨みが重層的で、しかも後味がすっと消える。こんな糠漬けは食べたことがなかった。いや、一度だけある——あの同僚の母親の大根だ。でも、あれよりさらに上かもしれない。


 高橋は隣の人間を確認した。

 二十代後半だろうか、黒髪を無造作に束ねた女性が、スマートフォンの画面を眺めながら、どこか上の空で大根を口に運んでいた。


「あの」高橋は思わず声をかけた。「これ、あなたが?」

 女性は顔を上げた。「え? ああ、はい」

「素晴らしいです」高橋は言った。「いや、素晴らしいなんてもんじゃない。この発酵の深度、旨みの構造、明らかに十年以上育てた糠床ですよね。でも糠の香りに若さもある。定期的に足し糠をしながら菌叢のバランスを維持している。しかも管理者の手の常在菌が……」

 女性はまばたきを三回した。「……えっと、ありがとうございます」

 名前は、坂本咲というらしかった。


 それから、高橋の例会への取り組みは変わった。

 正確に言えば、観察対象が増えた。

 坂本さんの糠漬け。毎回異なる食材が、しかし一貫した「文法」で漬けられて登場する。高橋はそのたびに心を打たれ、そして科学的に興奮した。この糠床を管理している手の常在菌は何なのか。乳酸菌の種類は。皮膚のpHは。


 ——待て。


 ある夜、帰宅した高橋は自分のノートを見返して気づいた。「坂本さん関連」の項目が、「糠床データ」の項目と同じページ数になっている。いや、超えている。


 いつの間にか、高橋は坂本咲を目で追っていた。


 糠漬けとは、その人そのものだ。自分でそう言った。彼女の糠漬けがこれほど完璧なのだとしたら——それは彼女自身の何かを反映しているはずで——つまり自分が惹かれているのは——

 「高橋さんって、本当に糠漬け好きなんですね」

 三回目の例会の帰り道、坂本さんが言った。二人で同じ方向に歩いていた。高橋の心拍数が、サーモサイクラーの温度みたいに急上昇した。


「好きですよ」高橋は答えた。「人生をかけて研究してます」

「研究って……仕事でも菌の研究されてるんですよね」

「ええ。だからこそわかるんです。糠漬けは奥深い。そして坂本さんの糠漬けは……」

 言いかけて、止まった。どう言えばいい。あなたの手の常在菌が気になります、では何かが終わる気がした。

「美味しいです」と高橋は言った。「本当に、心から」

 坂本さんはなぜか少し遠い目をした。「そうですか」

 それだけ言って、ありがとうございます、と小さく笑った。その笑顔には、高橋が名前をつけられない何かが混じっていた。


 異変に気づいたのは、四回目の例会だった。


 坂本さんの視線が、ずっとどこかへ向いている。正確には——田中さんの隣に座っている、細面の男性のほうへ。岡田、という名前の、三十代の会社員。


 高橋は、まず岡田の糠漬けを食べることにした。


 皿の上には、きゅうりが三切れ。断面は均一で、塩が少し強め。発酵は浅い。糠床の年齢はおそらく一年未満。管理は悪くないが、愛着より義務感で混ぜているタイプだ。週に四回、忘れたら五日まとめて放置する。冷蔵庫管理。リスクを嫌う。


 高橋は二切れ目を噛んだ。

 旨みが薄い。乳酸菌の多様性が低い。おそらく市販のスターターキットで始めて、足し糠も説明書通りの分量しか入れていない。マニュアル人間だ。しかし清潔感はある。几帳面で、悪い人ではない。女性受けはするだろう。


 三切れ目。

 後味に微かな雑味がある。手の常在菌に、やや皮脂が多いタイプが混じっている。三十代男性としては標準的だが——


 「岡田さんのきゅうり、美味しいですよね」

 隣で坂本さんが言った。笑顔だった。

 高橋は三切れ目を飲み込んで、静かに皿を置いた。


 普通だ。


 旨みが薄く、多様性が低く、マニュアル通りで、可もなく不可もない。そういう糠漬けだった。それがこの男の輪郭だった。高橋の舌は嘘をつかない。糠漬けは人格だ。十年、二十年と手をかけた糠床だけが持てる、あの複雑さと深みが——岡田のきゅうりには、ない。


 それでも坂本さんは、岡田のほうを見て笑っていた。

 高橋は大根を一切れ取った。坂本さんの大根だ。口に入れた瞬間、例によって完璧な味が広がる。重層的な旨み、澄んだ酸味、すっと消える後味。


 そして高橋はぼんやりと思った。

 人間は、糠漬けで配偶者を選ばない。

 当たり前のことが、初めて腑に落ちた。

 坂本さんは岡田の糠漬けを食べながら楽しそうに話している。岡田は笑うと目が細くなる。笑いのタイミングが、妙に合っている。高橋のデータベースに存在しない何かで、二人は繋がっていた。


 高橋はきゅうりを一切れ、静かに口へ運んだ。

 やはり、普通だった。


 五回目の例会の後、田中さんが全員にお茶を淹れながら言った。


「坂本さんの大根、今日も絶品でしたなあ。何十年育てたお糠なんですか?」

 坂本さんは苦笑した。「あの、実は……私じゃないんです」


 場が、静止した。


「おばあちゃんが作ったやつで。私、糠漬けって正直あんまり……」

「え」

「自分では全然。おばあちゃんに頼んで毎回持ってきてもらってて。すみません、ずっと言い出せなくて」

 高橋は皿の上の大根を見た。


 白く、薄く、透き通った断面。

 頭の中で何かが、静かに書き換えられていった。


 坂本さんの常在菌ではなかった。坂本さんのおばあちゃんの常在菌だった。何十年も糠床を育て続けた、どこかの台所の、知らないおばあちゃんの手が、この味を作っていた。


 坂本さんはそのとき、ちらり、と岡田さんのほうを見た。

 岡田さんは、少し困ったように笑っていた。

 高橋には、全部見えた。全部わかった。


 そして奇妙なことに——痛くなかった。


 いや、正確には。失ったものの重さを測ってみたら、そこにあったのは大根の味だった。あの一切れの衝撃。あの完璧な酸味と甘みの構造。それが「坂本咲」というラベルの下に格納されていただけで、高橋が本当に追いかけていたのは最初から——


 高橋は手を挙げた。

 全員がこちらを向いた。


 「あの」

 静かな部屋で、高橋は坂本さんを見た。坂本さんは少し身構えたように肩を上げた。


 「あなたのおばあちゃんに、会わせていただけませんか」


 一秒、間があった。


 田中さんが噴き出した。それを合図に、部屋中に笑いが広がった。坂本さんは目を丸くして、それから何かを理解したように、今度こそ心から笑った。岡田さんも笑っていた。

 高橋は大根の最後の一切れを、大事に、口に運んだ。


 旨かった。

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