お前は、生きろ
バイクに魂なんか宿るわけがない。
そう言うやつの気持ちもわかる。
鉄とゴムとオイルのかたまりだ。ちゃんと整備して、ちゃんと走って、壊れたら直す。ただそれだけだといえば、それだけだ。
でも、長く乗っていると、そうとしか思えない瞬間がある。
今日に限ってセル一発で目を覚ますとか。
逆に、妙に機嫌が悪い日があるとか。
買い替えの話をしたとたん、急にエンストするとか。
俺の初代も、そういうやつだった。
高校を出てすぐ、朝はコンビニ、夜は居酒屋でバイトした。
眠いし、だるいし、油くさいし、客には怒鳴られるし、正直しんどかった。でも、欲しかった。
どうしても、自分のバイクが欲しかった。
中古車屋の隅に置かれていた、小さめのネイキッド。
年式は古い。タンクに薄い傷もある。ピカピカではない。でも、なぜか最初に見たときから、目が離れなかった。
店の親父が言った。
「渋いの選ぶな。速くはないぞ」
「速さじゃないんです」
「じゃあ何だ」
「……わかんないですけど、これがいいんです」
親父は鼻で笑って、でも少しだけうれしそうだった。
納車の日の空気はいまでも覚えている。
春の終わりで、風が少しぬるくて、信号待ちのたびに胸が変なふうに苦しくなった。
うれしすぎて、怖かった。
こんな高いもの、本当に自分のものなのかと思った。
初代はよく走った。
通勤にも使ったし、意味もなく海まで流した夜もある。嫌なことがあった日、エンジン音だけ聞きたくてコンビニの駐車場まで行って、缶コーヒーを飲んで帰ったこともある。日本一周のツーリングに出発してすぐに挫折したことだってある。
金がないなりに洗車した。
チェーンも磨いた。
冬の朝、指先を真っ赤にしながらオイル交換も覚えた。
誰に見せるでもない。
でも、ちゃんと世話をすると、ちゃんと応えてくる気がした。
たぶん、あの頃の俺は、あいつに自分を重ねていたんだと思う。
古くて、金もなくて、でもまだ走れる。
いや、走りたい。
そんな感じだった。
そんなこんなで、長い付き合いになっていたあの日。
事故の日は、雨上がりだった。
夜勤明けで、空は半端に明るかった。路面は乾ききっていないくせに、ところどころ変に照っていた。
危ないな、と一瞬だけ思った。
思ったのに、少し急いでいた。
前の車が、交差点で急に右折した。
あ、と思ったときには、もう遅かった。
ブレーキ。
滑る感触。
金属が悲鳴を上げる音。
視界が、ぐるりと回った。
あの瞬間だけ、時間が変だった。
体が投げ出される感覚の中で、確かに聞こえた。
「お前は生きろ」
耳元じゃない。
頭の中でもない。
胸の少し奥で、低く、短く、はっきりと。
次に気がついたとき、俺は道路脇に転がっていた。
息はできた。腕も足も動いた。痛みはある。でも、立てた。
立てたことが、信じられなかった。
初代は、もっとひどかった。
フロントは潰れ、タンクはへこみ、ハンドルはありえない方向を向いていた。
あれを見た瞬間、無傷だったことの意味が、急に気持ち悪くなった。
救急車より先に、涙が出た。
俺が助かる代わりに、あいつが全部引き受けた。
そんな考え方は、たぶん勝手だ。
でも、そのときは本気でそう思った。
廃車の手続きは、やけに事務的だった。
書類にサインして、レッカー代を払って、スクラップになることが決まる。
店の親父は、珍しく冗談を言わなかった。
「お前、生きててよかったな」
「……はい」
「物はまた買える」
「そう、ですね」
「でもな」
親父は潰れたバイクを見て、少しだけ目を細めた。
「大事にされてたバイクってのは、見ればわかる」
その一言で、また泣きそうになった。
しばらく乗れなかった。
怖かったのもある。
裏切った気がしたのもある。
初代の代わりなんかいない。
新しいバイクを探すこと自体、薄情に思えた。
でも、乗らないままの俺は、もっと駄目だった。
通勤路の音が消えたみたいで、休みの日の空っぽさがやけに大きかった。
怖かったのに、恋しかった。
そんなとき、親父から電話が来た。
「一台入ったぞ」
「……いや、まだ」
「見に来るだけ来い」
「でも」
「来ないなら、俺が勝手に決めるぞ」
「それは困ります」
「だろうな」
店に行くと、二代目がいた。
初代とは全然違う型だった。
少しだけ排気量が上で、色も形も違う。なのに、妙に静かにそこにいて、近づいたとき、なぜか懐かしい感じがした。
親父が笑う。
「変な顔してるな」
「いや……」
「似てないだろ、前のと」
「似てないです」
「でも気になるんだろ」
「……はい」
また、同じだった。
理屈じゃなかった。
それから二代目、そして今の三代目まで来た。
もちろん、それぞれ別のバイクだ。
性格も違う。癖も違う。燃費も違うし、乗り味だって違う。
初代そのものじゃない。
そんなことは、わかってる。
でも、夜道で信号待ちしているとき。
エンジンを切ったあと、カチ、カチ、と金属が冷える音を聞いているとき。
たまに思うのだ。
あいつは、まだどこかにいるんじゃないかと。
部品になってるのかもしれない。
音になってるのかもしれない。
俺の勝手な思い込みとして、背中に張りついてるだけかもしれない。
それでもいい。
事故のあと、何度もあの声を疑った。
都合のいい幻聴だったんじゃないかと。
死にかけた頭が見せた、雑な奇跡だったんじゃないかと。
でも、あの一言だけは、どうしても嘘にできない。
「お前は生きろ」
生きろ、だった。
守る、でも、助ける、でもなく。
生きろ。
たぶん、あいつは最後まで、走る側の言葉しか知らなかったんだと思う。
だから俺は、いまも乗る。
派手な武勇伝なんかない。
峠を攻めるわけでも、レースに出るわけでもない。
ただ安全運転で、たまに遠回りして、季節の匂いを吸い込んで帰る。
そんな程度だ。
でも、それでいい。
生きて帰る。
それをちゃんと続ける。
たぶん、それがあの朝、あいつに言われたことの続きなんだろう。
駐車場で三代目のタンクを軽く叩く。
春の夜風が、ジャケットの袖を揺らした。
「行くか」
セルを回す。
エンジンが目を覚ます。
その音の奥に、もういないはずの鼓動が、少しだけ混ざった気がした。




