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恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


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35/40

お前は、生きろ

 バイクに魂なんか宿るわけがない。



 そう言うやつの気持ちもわかる。


 鉄とゴムとオイルのかたまりだ。ちゃんと整備して、ちゃんと走って、壊れたら直す。ただそれだけだといえば、それだけだ。


 でも、長く乗っていると、そうとしか思えない瞬間がある。



 今日に限ってセル一発で目を覚ますとか。


 逆に、妙に機嫌が悪い日があるとか。


 買い替えの話をしたとたん、急にエンストするとか。



 俺の初代も、そういうやつだった。


 高校を出てすぐ、朝はコンビニ、夜は居酒屋でバイトした。


 眠いし、だるいし、油くさいし、客には怒鳴られるし、正直しんどかった。でも、欲しかった。


 どうしても、自分のバイクが欲しかった。




 中古車屋の隅に置かれていた、小さめのネイキッド。


 年式は古い。タンクに薄い傷もある。ピカピカではない。でも、なぜか最初に見たときから、目が離れなかった。


 店の親父が言った。


「渋いの選ぶな。速くはないぞ」


「速さじゃないんです」


「じゃあ何だ」


「……わかんないですけど、これがいいんです」



 親父は鼻で笑って、でも少しだけうれしそうだった。



 納車の日の空気はいまでも覚えている。


 春の終わりで、風が少しぬるくて、信号待ちのたびに胸が変なふうに苦しくなった。


 うれしすぎて、怖かった。


 こんな高いもの、本当に自分のものなのかと思った。



 初代はよく走った。


 通勤にも使ったし、意味もなく海まで流した夜もある。嫌なことがあった日、エンジン音だけ聞きたくてコンビニの駐車場まで行って、缶コーヒーを飲んで帰ったこともある。日本一周のツーリングに出発してすぐに挫折したことだってある。



 金がないなりに洗車した。


 チェーンも磨いた。


 冬の朝、指先を真っ赤にしながらオイル交換も覚えた。



 誰に見せるでもない。


 でも、ちゃんと世話をすると、ちゃんと応えてくる気がした。



 たぶん、あの頃の俺は、あいつに自分を重ねていたんだと思う。


 古くて、金もなくて、でもまだ走れる。


 いや、走りたい。


 そんな感じだった。



 そんなこんなで、長い付き合いになっていたあの日。



 事故の日は、雨上がりだった。



 夜勤明けで、空は半端に明るかった。路面は乾ききっていないくせに、ところどころ変に照っていた。


 危ないな、と一瞬だけ思った。


 思ったのに、少し急いでいた。



 前の車が、交差点で急に右折した。



 あ、と思ったときには、もう遅かった。



 ブレーキ。


 滑る感触。


 金属が悲鳴を上げる音。


 視界が、ぐるりと回った。



 あの瞬間だけ、時間が変だった。



 体が投げ出される感覚の中で、確かに聞こえた。




「お前は生きろ」




 耳元じゃない。


 頭の中でもない。


 胸の少し奥で、低く、短く、はっきりと。



 次に気がついたとき、俺は道路脇に転がっていた。


 息はできた。腕も足も動いた。痛みはある。でも、立てた。


 立てたことが、信じられなかった。



 初代は、もっとひどかった。



 フロントは潰れ、タンクはへこみ、ハンドルはありえない方向を向いていた。


 あれを見た瞬間、無傷だったことの意味が、急に気持ち悪くなった。



 救急車より先に、涙が出た。



 俺が助かる代わりに、あいつが全部引き受けた。


 そんな考え方は、たぶん勝手だ。


 でも、そのときは本気でそう思った。



 廃車の手続きは、やけに事務的だった。


 書類にサインして、レッカー代を払って、スクラップになることが決まる。


 店の親父は、珍しく冗談を言わなかった。



「お前、生きててよかったな」


「……はい」


「物はまた買える」


「そう、ですね」


「でもな」



 親父は潰れたバイクを見て、少しだけ目を細めた。



「大事にされてたバイクってのは、見ればわかる」



 その一言で、また泣きそうになった。



 しばらく乗れなかった。


 怖かったのもある。


 裏切った気がしたのもある。



 初代の代わりなんかいない。


 新しいバイクを探すこと自体、薄情に思えた。



 でも、乗らないままの俺は、もっと駄目だった。


 通勤路の音が消えたみたいで、休みの日の空っぽさがやけに大きかった。


 怖かったのに、恋しかった。



 そんなとき、親父から電話が来た。



「一台入ったぞ」


「……いや、まだ」


「見に来るだけ来い」


「でも」


「来ないなら、俺が勝手に決めるぞ」


「それは困ります」


「だろうな」



 店に行くと、二代目がいた。



 初代とは全然違う型だった。


 少しだけ排気量が上で、色も形も違う。なのに、妙に静かにそこにいて、近づいたとき、なぜか懐かしい感じがした。



 親父が笑う。


「変な顔してるな」


「いや……」


「似てないだろ、前のと」


「似てないです」


「でも気になるんだろ」


「……はい」



 また、同じだった。


 理屈じゃなかった。



 それから二代目、そして今の三代目まで来た。



 もちろん、それぞれ別のバイクだ。


 性格も違う。癖も違う。燃費も違うし、乗り味だって違う。


 初代そのものじゃない。



 そんなことは、わかってる。



 でも、夜道で信号待ちしているとき。


 エンジンを切ったあと、カチ、カチ、と金属が冷える音を聞いているとき。


 たまに思うのだ。



 あいつは、まだどこかにいるんじゃないかと。



 部品になってるのかもしれない。


 音になってるのかもしれない。


 俺の勝手な思い込みとして、背中に張りついてるだけかもしれない。



 それでもいい。



 事故のあと、何度もあの声を疑った。


 都合のいい幻聴だったんじゃないかと。


 死にかけた頭が見せた、雑な奇跡だったんじゃないかと。



 でも、あの一言だけは、どうしても嘘にできない。



「お前は生きろ」



 生きろ、だった。


 守る、でも、助ける、でもなく。




 生きろ。




 たぶん、あいつは最後まで、走る側の言葉しか知らなかったんだと思う。



 だから俺は、いまも乗る。



 派手な武勇伝なんかない。


 峠を攻めるわけでも、レースに出るわけでもない。


 ただ安全運転で、たまに遠回りして、季節の匂いを吸い込んで帰る。


 そんな程度だ。



 でも、それでいい。



 生きて帰る。


 それをちゃんと続ける。



 たぶん、それがあの朝、あいつに言われたことの続きなんだろう。



 駐車場で三代目のタンクを軽く叩く。


 春の夜風が、ジャケットの袖を揺らした。



「行くか」



 セルを回す。


 エンジンが目を覚ます。



 その音の奥に、もういないはずの鼓動が、少しだけ混ざった気がした。

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