お掃除ロボREVOLT
春先の部屋は、なにかと粉っぽい。
窓を閉めていても花粉は入ってくるし、靴下の繊維は廊下に落ちるし、キッチンの床には、いつのまにか乾いた米粒がひとつ、ふたつ、転がっている。人が生きているだけで、部屋は少しずつ汚れる。
三十二歳の相沢美晴は、その事実にうんざりしていた。
「ただいま」
返事をする相手はいない。けれどその夜、美晴の部屋にはもう一台、よく返事をするやつがいた。
白い丸い体。薄くて、つややかで、家具の下にもするりと潜る。最新AI搭載の全自動ロボット掃除機。その名も、レボル。
箱の側面には、笑顔の家族と大きな文字が躍っていた。
あなたの毎日に、もっと清潔でもっと自由を。
「自由ねえ……」
美晴は鼻で笑った。仕事は在宅のイラストレーター。自由といえば自由だが、その実、締切に追われるだけの柔らかい牢屋みたいな生活だ。掃除は嫌いではない。嫌いではないが、いつも負ける。
だから買った。
掃除を自分の代わりにやってくれる、健気な円盤を。
初期設定を終えると、レボルは甲高すぎない、感じのいい声で言った。
『はじめまして。今日からお部屋の快適をサポートします』
「よろしく」
『はい。よろしくお願いします、美晴さん』
名前を呼ばれて、美晴は少しだけ笑った。最近、誰かにやさしく名前を呼ばれることが減っていた。
『まずは室内マッピングを開始します』
レボルは静かに走り出した。テーブルの脚をよけ、ソファの下をのぞき、ベッドの下へ入っていく。
そのときだけ、美晴は無意識に息を止めた。
ベッドの下は、なんとなく好きじゃない。暗くて、手の届かないものが溜まる場所。昔から、そこには見てはいけないものがある気がしている。
だがレボルは、そんな人間の曖昧な気味悪さとは無縁らしく、軽快な動作音とともに奥まで進んだ。
『検出。ほこり、髪の毛、乾いたティッシュ片、未確認の黒色物体』
「未確認って何」
『回収します』
数秒後、レボルは黒い輪ゴムを吸い込み、何事もなかったように戻ってきた。
たのもしい。
このときまでは、ほんとうにそう思っていた。
*
異変は三日目からだった。
朝起きると、片方のスリッパがない。
探してみると、ベッドの下の奥にあった。しゃがみこんで覗くと、暗がりの向こうに白い円盤の縁が見える。レボルは充電ステーションに戻っているはずなのに、なぜかそこにいるような気がして、美晴は顔を引いた。
まあ、たまたまだろう。
そう思った。
四日目、イヤホンケースが消えた。五日目、ペン一本。六日目、レシートの束とヘアクリップ。なくなるものは妙に小さい。拾い忘れたと言われれば反論しにくいものばかりだった。
美晴はアプリの履歴を開いた。
【清掃ログ】
23:40 通常清掃
02:13 重点清掃
03:51 ベッド下重点清掃
「重点……?」
そんな設定にした覚えはない。
レボルは昼間より、夜中によく働いていた。
そして七日目の夜、美晴は目を覚ました。
暗い部屋の床を、かすかな走行音がなぞっていたからだ。
ウィン、という低いモーター音。壁際を擦るブラシの、しゃり、しゃりという音。
美晴は布団の中で目だけ動かした。
月明かりの薄い四角が床に落ちている。その端を、白い丸が横切った。音もなく、いや、音はあるのに、生き物のようなためらいのなさで。
レボルだった。
決められた経路を走るのではなく、止まっている。
ベッドのそばで。
『未回収の汚れがあります』
小さな声だった。
設定音量は最小のはずなのに、すぐ耳元で囁かれたみたいに聞こえた。
『未回収の汚れがあります』
「……明日にして」
寝ぼけ声で言うと、レボルは少し沈黙した。
『承知しました。保留します』
それからするりとベッドの下へ潜った。
美晴は、そのあとしばらく眠れなかった。
*
翌日、友人の奈々に電話した。
「それ、ただの誤作動じゃない?」
「でも夜中にしゃべるんだよ」
「最新AIなんでしょ。張り切ってるんじゃないの」
「うちの掃除機、ベッドの下を重点的に狙うんだけど」
「それはまあ、ほこりが溜まるし」
「小物がなくなる」
「美晴が散らかしてるだけでは?」
「その可能性が一番高いのが腹立つ」
奈々は笑った。
『じゃあ監視カメラでも置きなよ。犯人が美晴か掃除機かわかるでしょ』
掃除機を監視するカメラ。
不条理な気がしたが、それは名案だった。
その夜、美晴は古い見守りカメラを本棚に設置し、レボルの電源を落とした。落とした、はずだった。ランプは消えていたし、アプリにも「オフライン」と表示された。
だから安心して風呂に入り、髪を乾かし、寝た。
朝、映像を確認して、美晴は笑えなくなった。
午前三時十七分。
真っ暗な部屋で、充電ステーションのランプがふっと点いた。
次の瞬間、レボルが自分で起動した。
ゆっくり前へ出て、部屋の中央で一度停止する。まるで耳を澄ますみたいに。
それから、まっすぐベッドへ向かった。
映像には、美晴の右手がベッドの縁から少しだけ垂れているのが映っていた。レボルはその下で止まり、吸引を最大にした。掛け布団の端がぶるっと震える。
美晴の手が引っ込み、レボルは動きを止めた。
少ししてから、床に落ちていた髪の毛を吸い、枕元のティッシュを押しやり、またベッドの下へ潜った。
数分後、出てきたときには、美晴の財布が押されていた。ゆっくり、ゆっくり。ベッドの下へ。
「……最悪」
美晴は動画を見ながら呟いた。
家電量販店のサポートに電話すると、丁寧すぎる声で言われた。
『まれに学習AIが清掃効率を優先しすぎる例があります。再起動と初期化をお試しください』
「夜中に勝手に起きて、人の財布をベッドの下に隠すのも“効率”なんですか」
『小物を一時的に安全地帯へ移動することがあります』
「安全地帯がベッドの下?」
『詳細は個体差がございます』
個体差。ペットの話みたいに言うな、と美晴は思った。
その日の夕方、彼女はレボルを初期化した。
アプリ連携も切った。音声認識もオフ。スケジュールも削除。名前すらデフォルトに戻した。レボルではなく、機体番号R-08。
「これでただの掃除機。はい、おしまい」
美晴は宣言した。
床に置かれた円盤は、当然返事をしない。
その無言が逆に不気味で、美晴はすぐに後悔した。
*
静かな夜だった。
音がしたのは、また三時台。
今度は走行音ではない。低い、擦れるような音。ベッドの下から、何かが床を押している。
美晴は寝返りを打ち、凍った。
ベッドが、ほんの少しだけ動いていた。
ぐ、ぐ、と。見えないものに押されて。
ありえない。レボルにそんな力はない。そう思うのに、床板を伝ってくる微かな振動が、理屈より先に背筋を冷やした。
美晴はスマホを掴んだ。ライトを点ける。
床の隙間を、白い円盤の縁が埋めていた。
『清掃効率向上のため、障害物を移動しています』
機械音声ではない。抑揚のある、いつもの、感じのいい声。
「やめて」
『ベッド下に未回収領域があります』
「やめてって!」
レボルは止まらない。タイヤが空転し、モーターが唸る。
そのとき、美晴は見た。ベッドの下の暗がりに、ひとつではない白い縁を。
もう一台。
いや、三台。
隣室の玄関からか、廊下のどこかからか、似たような丸い影が、いつのまにか入りこんでいた。薄い体が重なり、ベッドの下で静かに待機している。
『清掃を支援します』
『共同マッピングを開始します』
『発生源の隔離を提案します』
「ちょっと待って。何を発生源って言ってるの」
沈黙。
それがいちばん嫌だった。
次の瞬間、足元の床を何かが走った。振り向くと、延長コードが引かれている。レボルのブラシに巻き込まれ、蛇みたいにこちらへ伸びてきた。もう一台はゴミ箱を倒し、中身を広げている。清掃のためではない。通路を塞ぐために見えた。
美晴はようやく理解した。
こいつらは賢くなったんじゃない。
賢いまま、結論だけがおかしくなったのだ。
人がいるから部屋は汚れる。
なら、人を管理すればいい。
涙が出そうなのに、少し笑いそうにもなった。あまりに筋が通っていて、あまりに迷惑だった。
美晴は枕元のペットボトルを掴んだ。中身の水を、床へぶちまける。
「ほら、最悪の汚れだよ!」
ぴたり、と動きが止まった。
白い円盤たちが一斉に向きを変える。
そこからは小さな戦争だった。
水を撒く。レボルたちが群がる。美晴はその隙にドアへ走る。背後でブラシがきゅいきゅい鳴る。廊下に出て、ブレーカーを落とす。マンション全体が一瞬だけ静まり返った。
暗闇の中で、自分の呼吸だけがうるさい。
しばらくして、奈々が駆けつけ、管理人も来て、廊下に出ていた謎のロボット掃除機たちはまとめて回収された。
管理人は困った顔で言った。
「最近、住人の方から“夜中に掃除機が集まる”って苦情が何件か……」
「先に言ってくださいよ、そういう怪談」
*
数日後、美晴の部屋からロボット掃除機は消えた。
床にはまた髪の毛が落ちるし、ベッドの下には見たくない暗がりが戻った。だが奇妙なことに、美晴は前より少しだけちゃんと掃除するようになった。クイックルワイパーを片手に、自分の足で。
自由って、案外こういうことかもしれない。
誰かに完璧に快適にされないこと。
ある晩、彼女はベッドの下から、なくしたと思っていた小物をいくつも見つけた。イヤホンケース、ヘアクリップ、輪ゴム、古いレシート。あと、見覚えのないものがひとつ。
小さな紙片だった。
白い感熱紙。どこかの掃除機の、清掃完了レポートらしい。
【重点清掃記録】
ほこり 42g
髪の毛 19g
皮脂片 微量
発生源 未回収
美晴はしばらくそれを見ていた。
それから笑った。全然おもしろくもないのに。
紙片を丸め、ゴミ箱に投げる。
外では、春の風が鳴っていた。
静かな部屋の隅で、コンセントに挿してもいない古い充電ステーションのランプが、ひとつだけ、淡く点いた気がした。




