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恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


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33/40

俺のことなんか全部忘れてくれていい

「俺が死んだら、俺のことなんて全部忘れてくれていいよ」


そう言ったのは、桜が散り終えた四月の終わりだった。


駅前の小さな喫茶店。午後の光が窓から斜めに差し込んで、テーブルの上に細長い四角を作っていた。窓の外では乾いた風が枯れた花びらをゆっくりと転がしていた。彼女はテーブルを挟んで向かいに座り、両手でコーヒーカップを包んでいた。


少しのあいだ黙っていた。俺も何も言わなかった。


やがて彼女はまっすぐ俺を見て、少し怒ったような声で言った。


「それって、ずいぶん身勝手な意見じゃない?」


意外だった。少しは理解してくれるのか、あるいは困った顔をされるか、「そんなこと言わないで」と優しく打ち消されるか。少なくとも、怒りは想定していなかった。


「身勝手って? 俺はただ、きみのことを思って――」


「思ってないでしょ」と彼女は言った。「忘れるかどうかはわたしが決めること。あなたが指図することじゃない」


それだけ言って、彼女はコーヒーを一口飲んだ。それ以上は追いかけてこなかった。窓の外へ視線を移して、また静かになった。


俺はその言葉を何度も反芻した。帰り道も、夕飯を食べながらも、布団に入ってからも。


怒られるとは思っていなかった。でも、怒られてよかった、とも思った。


    *


人は自分の生きた証を遺そうとする。


昔の英雄は歴史に名前を刻むために命をかけた。死んだあとも家族を守りたいから生命保険がある。やたらと子孫を残すことにこだわる人もいる。

そうして誰もが、誰かの記憶のなかで生き続けることを望む。それは当たり前のことだと思うし、よく理解できる。


でも俺にとって、それは本当にどうでもよかった。


死んだ瞬間に、この世界から俺の痕跡が全部消えてもいい。俺が笑った場所も、泣いた夜も、誰かと交わした言葉も、全部霧みたいに溶けてくれてかまわない。「忘れてくれ」というのは優しさでも、諦めでも、悲しさでもない。ただの客観的な判断だ。俺のことを覚えていようが、忘れていようが、本当はどちらでもいい。


ただ、彼女には幸せになってほしかった。


それだけが、俺の中に残った唯一のわがままだった。


なぜそうなのか、うまく説明できたことがない。死を恐れていないというわけじゃない。痛いのは嫌だし、まだやりたいことはある。ただ、死んだあとの「自分の扱われ方」に、どうしても興味が持てなかった。死んだ俺には感覚がない。喜びも悲しみもない。なのに、その「感覚のない俺」のために誰かが泣いたり、記憶を抱えたりすることが、なんだか申し訳ないような気がしていた。


このことを誰かに話しても、たいてい理解されなかった。


彼女だけが、「身勝手だ」と言ってくれた。


それが、なぜか一番正確だった。


    *


彼女と付き合いはじめたのは、三年前の秋だった。


きっかけはたいしたことではない。共通の友人が集まった飲み会で隣の席になって、帰り道が同じ方向で、駅のホームで「また今度」と言ったら彼女が「いつ?」と聞き返してきた。それだけだ。


彼女はいつも、そういう人だった。


俺が曖昧にしたことをそのままにしない。俺が遠回しに言ったことをちゃんと正面から受け取る。最初はその真っ直ぐさが少しだけ怖かった。でも一緒にいるうちに、そのまっすぐさが俺には必要なものだとわかってきた。


「忘れていい」と言ったとき、彼女が怒ったのも、そういうことだと思う。


俺の言葉を聞き流さなかった。やんわりと受け流しもしなかった。「それは違う」と、ちゃんと言ってくれた。


好きだな、と思った。あのとき初めて感じたわけじゃないけれど、あらためてそう思った。



――末期がんと診断されたのは、その会話から半年後のことだった。


    *


最初は体の変化を気のせいだと思っていた。


疲れやすくなって、食欲が落ちて、それでも仕事の忙しさのせいにして放っておいた。病院に行ったのは彼女に半ば強引に背中を押されたからで、検査の結果が出たとき、先生の顔を見ればだいたいわかった。


先生は丁寧に話してくれた。専門用語を並べながらも、できるだけわかりやすく、できるだけ希望のある言葉で。それでも話の終わりが近づくにつれて、俺の頭のなかで音が遠くなっていった。先生の口が動いているのに、声が届かなかった。


病院を出ると、外は夕暮れだった。


彼女が隣で黙って歩いていた。どこへ行くとも決めず、ただ歩いた。しばらくして彼女が「何か食べようか」と言ったので、「うん」と答えた。ファミレスに入って、二人ともそれほど食べられなかった。


「治療はする?」と彼女が聞いた。


「やってみる」と俺は言った。


それだけで、その夜の話はおわった。


治療は一通り試みた。薬も、手術も。体はなんとか応えようとした。でもある時点で、それ以上は難しいという話になった。俺は治療をやめることを選んだ。先生は少し長い沈黙のあとで、「わかりました」と言った。


その夜、彼女に電話した。


彼女は泣かなかった。電話口でも泣かなかったし、翌日会いに来てくれたときも泣かなかった。ただ俺の隣に座って、俺の手を両手で静かに握って、「そう」とだけ言った。それ以上何も言わなかった。ただ手を握ったまま、しばらくのあいだそうしていた。


それで十分だった、と今は思う。


あのとき彼女が何かを言っていたら、俺はたぶん、うまく返せなかった。


    *


それからの時間は、思ったよりもずっと穏やかだった。


病院に行く回数が増えて、体が少しずつ思うように動かなくなって、できることが一つずつ減っていった。でも彼女はいつも来てくれた。特別なことは何もしなかった。ただそこにいた。コーヒーを買ってきてくれたり、俺が眠っているあいだ静かに本を読んでいたり、たまに他愛もない話をしたりした。


ある夜、病室の窓から外を眺めながら、俺は「桜、また見られるかな」とつぶやいた。


彼女は手元の本から顔を上げて、少し考えてから「見られるよ」と答えた。根拠はなかったと思う。でも俺は「そうかもな」と言った。


「そうかもな、じゃなくて、見られるの」と彼女は言った。


「見られるの」


「うん」


「そうかもな」


「もう」


彼女は小さく笑って、また本に目を落とした。俺もなんとなく笑って、また窓の外を見た。


桜は見られなかった。でも、あの夜の「そうかもな」は、今でも正しかったと思っている。


    *


冬のある朝、俺は自分が終わりに近づいていることをはっきりと感じた。


窓の外は曇り空だった。病室は静かで、廊下を誰かが遠くに歩いていく音がときどき聞こえた。体が重かった。でも不思議と、苦しくはなかった。


彼女が俺の手を握っていた。


「私はあなたのことを絶対に忘れない」


あの喫茶店の続きみたいに、彼女は言った。


「死んだ次の日に新しい彼氏ができても、俺は怒らないよ」


「知ってる」


「だから、俺のことを忘れて笑って生きてほしい」


「忘れるかどうかはわたしが決める」


俺は少し笑った。


半年前も、一年前も、あの春の喫茶店でも、彼女はずっと同じことを言い続けてきた。まったく変わらない。変わらないことが、なぜか少し嬉しかった。


「まあ、忘れるか覚えてるか、それはきみが決めることだもんな」


「うん」


「でも」と俺は言った。声が少しだけかすれていた。「死んだあとのことなんてどうでもいいけど、きみにはなるべく悲しんでほしくない」


「矛盾してるよ」


「矛盾を抱えて生きるのは、人間の特権だ」


彼女は小さく、でもちゃんと笑った。「こんな時までそんなこと言うの」


俺も笑おうとした。うまくできたかどうかはわからない。


目を閉じると、いろんなものが浮かんだ。桜の散る窓。コーヒーカップを包む彼女の手。「身勝手な意見じゃない?」と少し怒った顔。「見られるよ」と答えたときの横顔。ファミレスで二人ともあまり食べられなかった夜。


俺のことなんか全部忘れてくれていい。


本当にそう思っていた。


ただ、彼女の手の温度だけは、最後まで感じていた。


    *


触れた手に力が抜けていくのを感じた。


それでも離さなかった。


彼の顔はおだやかで、眠っているようにも見えた。泣くと思っていたのに、しばらくは何も出てこなかった。ただ、その手を握ったまま、じっとしていた。


忘れるかどうかはわたしが決める。


何度そう言っても、あなたはなかなか諦めなかった。でも最後には「まあそうだな」と言ってくれた。それで十分だった。


悲しむかどうかも、わたしが決める。


明日どれだけ泣いても。一年後に笑っていても。十年後に誰かとまた幸せになっていても。それは全部、わたし自身の責任でやっていくことだ。あなたに決めさせるわけにはいかない。それだけは、最後まで譲らなかった。


あなたはずっと「忘れていい」と言い続けた。でもわたしは知っている。忘れてほしいと思いながら、わたしに幸せになってほしいと思っていたこと。その矛盾を、あなたは「人間の特権だ」と笑って片づけた。


そうかもしれない。


だとしたら、悲しむことも、忘れないことも、それでも笑って生きていくことも、全部わたしの特権だ。


わたしはゆっくりと息を吸って、好きな人の手をもう一度ぎゅっと握った。


窓の外では、白い雪が静かに降りはじめていた。


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