SNS丑の刻参り
第一章:澱みの底
その音は、結城希の存在を定義する音だった。
「……」
沈黙。正確には、自分を除いた他者たちの喧騒が生み出す、圧倒的な「空白」の音だ。
私立聖華女子学園。昼休みの教室は、湿度を帯びた少女たちの声で満ちている。グループの主犯格、加納愛梨の周囲には、磁石に吸い寄せられる砂鉄のように生徒が集まっていた。愛梨が笑えば、波紋のように笑い声が広がり、彼女が眉をひそめれば、教室の温度がわずかに下がる。
その中心から最も遠い場所、窓際の最後列が希の指定席だった。
希は弁当の残りを機械的に口に運びながら、スマートフォンの画面をなぞる。彼女の網膜に映っているのは、現実のクラスメイトではなく、匿名の掲示板に並ぶ無機質な文字の羅列だった。
希には、この学園に「場所」がない。かつて一度だけ、愛梨の持ち物に些細な指摘をしたことがあった。それ以来、希は教室の備品と同じ扱いになった。悪口を言われることすらない。ただ、そこにいないものとして処理される。視線が彼女を通り抜け、会話が彼女を避けて流れる。希という人間は、この教室において「透明なノイズ」に過ぎなかった。
その日の掲示板で、彼女はそのスレッドを見つけた。
『【実録】sns丑の刻参り。マジで消える』
タイトルに惹かれ、希はスワイプの手を止めた。
内容は、あまりにも馬鹿げた、それでいて妙に具体的な手順を伴う都市伝説だった。
SNS「ポスッター」の本アカウントを使用すること。
深夜一時から三時の間、呪いたい相手の名を記して「〇〇を呪う」と投稿する。
投稿から七分間、誰にも見られずに削除できれば成功。
これを七日間、連続で行うこと。
失敗すれば、呪いは自分に返る。
「本垢で……?」
希は自嘲気味に呟いた。
希のポスッターアカウントは、中学生の頃に作ったきりの、死んだ記録だ。フォロワーは百人程度。そのほとんどは既にSNSを辞めているか、希のことなど記憶の片隅にもない連中だ。
「私のアカウントなんて、誰も見てない。ずっと前から、死んでるのと変わらないんだから」
その夜、午前二時。希は暗い自室で、スマートフォンの青白い光に顔を照らされていた。
心臓が不快なほどに波打つ。指が震え、入力ミスを繰り返す。
【加納愛梨を呪う】
送信ボタンを押した瞬間、部屋の空気がわずかに重くなった気がした。
一分。
二分。
タイムラインは動かない。通知を示す赤いドットも現れない。
希は自分の呼吸音だけが響く部屋で、画面を見つめ続けた。
誰も見ていない。世界は自分を無視している。いつもは憎らしいその事実が、今だけは至福の盾に思えた。
七分が経過した。希は速やかに投稿を削除した。
その瞬間、指先に小さな熱が宿った。
自分だけが知る秘密。自分だけが握る、目に見えないナイフ。
希は、数年ぶりに深い眠りに落ちることができた。
第二章:蝕まれる境界
二日目、三日目と儀式を重ねるにつれ、希の日常には微かな「色彩」が戻ってきた。
もちろん、クラスでの扱いが変わったわけではない。相変わらず愛梨たちは希を無視し、存在しないものとして扱う。しかし、希の側が変わった。
(笑っていればいい。あと数日で、あんたは終わるんだから)
愛梨の後頭部を見つめながら、希は心の内で冷笑を浮かべる。呪いを実行しているという優越感が、彼女の空虚な心に毒のような活力を与えていた。
四日目の深夜。異変は静かに、しかし確実に始まった。
午前二時。希が投稿を終え、画面を見つめていた時だ。
「……え?」
画面の端、削除までのカウントダウンを刻む時計の隣に、見たことのないアイコンが表示された。
それは、黒い霧のような、歪んだ人の顔に見えた。
希は目を擦る。瞬きをすると、そのアイコンは消えていた。見間違いだろうか。それとも、液晶の汚れだろうか。
だが、五日目には、それは気のせいでは済まされないものとなった。
投稿した直後、スマートフォンのスピーカーから「キィ……」という低い金属音が漏れたのだ。ボリュームは最小にしているはずなのに。
さらに、投稿したはずの文字が、画面上で勝手に歪み始めた。
【加納愛梨を呪う】という文字の「呪」の字が、まるで生き物のように蠢き、画数が勝手に増えていく。それは次第に、文字というよりも、無数の細い足を持つ虫が群がっているような不気味な形に変貌した。
「何、これ……」
希は恐怖を感じ、すぐに削除しようとした。だが、指が動かない。
スマートフォンの画面に映る自分の顔。その背後の暗闇に、何かがいる。
振り返る勇気はなかった。ただ、画面越しに見える「自分の部屋」の様子が、少しずつ狂っていることに気づく。
本棚に並んでいるはずの本が、すべて真っ黒な表紙に変わっている。壁に掛けていたカレンダーの数字が、すべて「七」に書き換わっている。
そして、六日目。
希はもはや、自分の意志で儀式を行っているのか、何かに強制されているのか分からなくなっていた。
眠気は限界を超えているはずなのに、午前二時になると、目が弾かれたように見開かれる。指は勝手にポスッターを起動し、呪詛を打ち込む。
その夜、希は投稿を終えた瞬間に見てしまった。
リポストの数字が「1」になったのを。
「あ……」
心臓が凍りつく。誰が見た? 誰が拡散した?
希は狂ったように画面を叩き、投稿を消そうとした。だが、削除ボタンが表示されない。代わりに表示されたのは、加納愛梨のアカウントだった。
【@Airi_Kano:結城さん、これ、何?】
通知が止まらなくなる。
【うわ、怖。希ちゃんってこういう子だったんだ】
【結城さんちの娘さん、夜中に変なことしてるみたいよ】
【結城、明日職員室に来なさい】
知っている名前、知っている顔が、次々と希の画面を埋め尽くしていく。
彼女を無視していた世界が、牙を剥いて一斉にこちらを向き始めたのだ。
希は悲鳴を上げ、スマートフォンを床に投げつけた。
しかし、画面は割れてもなお、煌々と青白い光を放ち、絶え間なく罵倒の通知を吐き出し続けた。
第三章:飽和する視線
七日目の朝。
希が部屋から這い出ると、家中がスマートフォンの通知音で満たされていた。
リビングでは、母親が虚ろな目で画面を見つめていた。
「希……あんた、何をしたの」
母親の顔には、希の知らない激しい嫌悪が張り付いていた。
「お父さんにも連絡が行ったわ。会社にも。近所の人たちも、みんなあんたのポスッターを見てる」
「違うの、お母さん、これは……!」
言いかけて、希は絶句した。
母親の背後、キッチンの影から、真っ黒な「何か」が覗いていた。
それは、スマートフォンの画面と同じ、青白い光を放つ眼を無数に持った異形だった。
外に出れば、さらに地獄は加速した。
登校路、通り過ぎる車の運転手が、歩道の老人が、通学路の小学生が。
全員が、スマートフォンを希に向けている。
「呪い女だ」「あいつが結城希だ」「本垢であんなこと書くなんてバカだよね」
声が、物理的な重さとなって希の背中にのしかかる。
彼らの瞳は、もはや人間のものではなかった。レンズのように無機質で、希の醜態を一滴残らず記録しようとする悪意に満ちている。
学校に到着した希が見たのは、もはや教室ですらなくなっていた。
そこは、巨大な「スタジオ」だった。
クラスメイト全員が、自分の机にスマートフォンを固定し、希が入ってくるのを待っていた。
中央には、加納愛梨。彼女は、血のように赤いスマートフォンを手に、希を嘲笑っていた。
「結城さん、今日で七日目だよね? 最後の投稿、楽しみにしてるよ」
希は、自分が逃げ場のない檻の中に閉じ込められたことを理解した。
世界中の人間が、自分を見ている。
今まで求めていた「存在の証明」が、最悪の形で結実してしまった。
希は涙を流しながら、屋上へと走り出した。
背後からは、数千、数万、数億という足音が追いかけてくる。
世界中のアカウントが、肉体を得て、自分という獲物を食らい尽くそうと迫っていた。
第四章:屋上の処刑台
校舎の階段を駆け上がる希の背中には、無数の「シャッター音」が突き刺さっていた。
パシャ、パシャ、パシャ。
それはもはや機械的な音ではなく、希の肉体を削り取る咀嚼音のように聞こえた。後ろを振り返る余裕などない。階段の踊り場を曲がるたび、視界の端に映るクラスメイトたちの顔は、もはや人間の造形を保っていなかった。彼らの顔面は一枚の大きな「液晶画面」へと変貌し、そこには希が深夜に打ち込んだ醜悪な呪詛の言葉が、スクロールしながら流れ続けていた。
屋上の扉を蹴破ると、そこには抜けるような青空――ではなく、重苦しい鉛色の空が広がっていた。そして、驚くべきことに、屋上のフェンス沿いには既にびっしりと「人々」が並んでいた。
制服を着た生徒だけではない。スーツ姿の男、買い物袋を下げた主婦、所在なげな老人。そして、希が画面越しに憧れていたはずの、あの芸能人までもが。
彼らは一様に無表情で、手に持ったスマートフォンを希へと掲げている。
「逃げられないよ、結城さん」
背後から声がした。加納愛梨だった。彼女はフェンスを背にし、自撮り棒の先に固定したスマートフォンを、マイクのように希に向けている。
「あなたの呪い、全世界に配信されてる。今、同時視聴者数は一千万人を超えたわ。みんな、あなたがどうやって死ぬか、ワクワクして待ってるの」
「やめて……消して……お願い……!」
希は膝をつき、激しく頭を振った。
「消せないわよ。これはあなたが始めたこと。本アカウントで、魂を削って書いた言葉だもの。デジタル・タトゥーは、皮膚を剥いでも消えないの」
愛梨がゆっくりと歩み寄る。彼女のスマートフォンの画面には、希が五日目に書き込んだ【愛梨の顔をズタズタにしたい】という文字が、赤黒いフォントで踊っている。
「さあ、七日目の最後の投稿をして。午前二時じゃないけど、関係ないわ。今のあなたは、世界で一番『見られている』んだから。儀式は成立するわよ」
希は、震える手でポケットからスマートフォンを取り出した。画面はひび割れ、そこからは黒い粘着質のアスファルトのような液体が滴り落ちている。
自分の指が、自分のものではないように動く。
【私は】
一文字打つごとに、周囲の群衆から「おおっ」という歓声が上がる。
【死んで】
リポストの数は、もはや計り知れない単位へと跳ね上がっていく。
【お詫びします】
投稿ボタンの上に、希の指が止まる。
これを見られずに消せば、呪いは成就する。だが、今、この瞬間、世界中の「眼」が希の指先を注視している。
「……ああ、そうか」
希は、ふっと悟った。
呪いを成功させることなんて、最初から不可能だったのだ。
「醜い自分」を誰かに見つけてほしくて、自分を透明にする世界に復讐したくて始めたこと。
けれど、世界が自分に注いだのは「関心」ではなく、ただの「消費」だった。
希は投稿ボタンを強く押し込み、そのままフェンスへと走り出した。
「見てて。これが、私の最後の投稿よ!!」
背後で、一斉にフラッシュが焚かれた。数万の光が希を白く染め上げ、彼女の体は重力に身を任せて、灰色の海へと溶けていった。
第五章:誰もいない部屋
衝撃は、なかった。
ただ、耳元で鳴り続けていた不快な通知音が、ぷつりと途絶えた。
……。
静かだった。
あまりにも、静かだった。
「希? 希、起きてるの?」
階下から、母親ののんびりとした声が聞こえる。
希は目を開けた。そこは、自分の部屋だった。
カーテンの隙間から、穏やかな朝の光が差し込んでいる。
「夢……?」
希は跳ね起き、自分の体を確認した。どこも痛くない。血も流れていない。
急いで床に転がっていたスマートフォンを拾い上げる。画面は割れていない。綺麗なままだ。
アプリを開く。
通知は「0」。
自分の最新の投稿を確認する。そこには、数ヶ月前に呟いた「おなかすいた」という一言があるだけで、呪いの言葉など、どこにも存在しなかった。
「よかった……」
希は安堵のあまり、その場にへたり込んだ。
あんな恐ろしい幻覚を見るなんて、相当追い詰められていたのだろう。
学校へ行こう。今日からは、透明人間でもいい。誰にも見られなくてもいい。普通に生きていけるだけで、十分だ。
希は身支度を整え、リビングへ向かった。
「お母さん、おはよう」
母親は新聞を読んでいた。希の声に、ぴくりとも反応しない。
「お母さん?」
希は母親の肩を叩こうとした。だが、彼女の手は、母親の体をすり抜けた。
「……え?」
母親は新聞をめくりながら、独り言のように呟いた。
「……そういえば、さっき、わたし誰を呼んだのかしら」
「何言ってるの、お母さん! 私よ、希よ!」
希は叫んだ。だが、自分の声が、自分の耳にすら届いていないことに気づく。
希は慌てて家を飛び出した。
登校路。いつものように歩く人々。
誰も、希を避けない。避けないどころか、希の体を通り抜けて歩いていく。
希がどれだけ叫んでも、目の前で手を振っても、彼らの瞳に「結城希」という存在は一滴も映っていなかった。
学校に着くと、愛梨たちが楽しそうに笑っていた。
「ねえ、知ってる? 最近、変な都市伝説があるんだって」
愛梨がスマートフォンを見せながら言う。
「深夜に自分の本垢で呪いを投稿するんだけど、失敗すると『誰からも見られなくなる』んだって。存在自体が、ネットからも現実からも消えちゃうの。怖くない?」
「うわ、最悪。それって死ぬよりきついじゃん」
希は、愛梨の目の前で泣き崩れた。
だが、愛梨の視線は、希を完全に透過して、後ろの壁を見ていた。
希は震える手で、自分のスマートフォンを取り出した。
最後の望みをかけて、ポスッターを起動する。
【助けて。私はここにいる。誰か、私を見て】
渾身の想いを込めて、投稿ボタンを押す。
投稿は、されなかった。
画面に表示されたのは、無機質なエラーメッセージ。
[ このアカウントは存在しません。 ]
希は、自分が手に持っているスマートフォンの画面を見た。
そこには、何も映っていなかった。
いや、消灯しているのではない。
「鏡」のように機能しているはずの画面に、自分の顔が映っていないのだ。
そこにあるのは、希の背後の壁と、誰もいない廊下の景色だけ。
希は、理解した。
あの屋上での炎上も、罵倒も、すべては呪いの「失敗」による慈悲だったのだ。
悪意であれ何であれ、誰かに認識されているうちは、まだ存在できていた。
だが、七日目の儀式を「失敗」した結末は、もっと残酷なものだった。
「誰にも見られなければ成功。失敗すれば、呪いは自分に返る」
希は加納愛梨を、「自分を無視する世界」を呪った。
だから、その呪いはそのまま自分に返ってきた。
世界から、完全に無視されるという形で。
希は、自分が消えていくのを感じた。
物理的な死ではない。もっと根源的な、概念としての消滅。
彼女の意識が最後に捉えたのは、廊下を走る生徒の靴が、自分の足があった場所を、何の抵抗もなく踏み抜いていく感覚だった。
放課後、夕暮れの教室。
そこには、主のいない鞄と、持ち主を失ったスマートフォンが一つ、机の上に残されていた。
しばらくすると、清掃員がやってきて、それらを「忘れ物」ではなく、ただの「ゴミ」として処理した。
スマートフォンの画面には、最後まで、誰の指紋も残っていなかった。




