アオリ・エクスプロージョン
アスファルトが陽炎で歪む午後、佐藤は真っ赤なスポーツタイプのセダンのハンドルを強く握りしめていた。
胃の奥が焼けるように熱い。仕事のミス、上司の嫌味、鳴り止まない通知。それらすべてを「加速」で振り切れるほど、世の中は甘くなかった。
だが、この場所――公道という密室であれば、彼は王になれた。
「ちっ、どいつもこいつも、とろとろ走りやがって」
佐藤の目が、獲物を捉えた。
前方を走るのは、色が褪せ、所々に擦り傷のある、いかにも「生活の道具」といった風情の軽自動車だ。制限速度ぴったり。その丁寧さが、今の佐藤には無性に鼻についた。
アクセルを踏み込む。
時速を上げ、軽自動車の背後数センチまで肉薄した。
パッシングを浴びせ、左右に車体を揺らす。バックミラー越しに見えるであろう、自分の凶悪なフロントマスクを想像するだけで、胃の奥の熱が「快感」へと変わっていく。
「おい、もっと怯えろよ。道を開けろ」
佐藤はニヤリと笑った。
かつて一度、同じように煽った相手がパニックを起こし、路肩の縁石に乗り上げたことがあった。あの時の、運転席にいた男の青ざめた顔。絶望に染まった瞳。それを思い出すたびに、佐藤は自分の存在を再確認できた。
中には血気盛んに煽り返してくる奴もいた。だが、そうなれば佐藤の独壇場だ。
執拗に追いかけ、追い越し、急ブレーキをかける。死の淵を覗かせるような「スレスレの遊戯」。アドレナリンが脳を焼き、日常のストレスが灰になって消えていく。
「あー、最高だ。これだからやめられねえ!」
ギリギリのヤバい瞬間など、彼にとっては勲章に過ぎなかった。
そんな中、佐藤の前に新たな「標的」が現れた。
山道へと続く合流地点。一台のタクシーだ。
屋根にちょこんと乗った行灯が、どこか間が抜けて見える。
それは、ひどく「ちんたら」と走っていた。急勾配のカーブを、安全を絵に描いたような速度で進んでいく。
「運ちゃん、仕事中か? だがな、俺は今、最悪に機嫌が悪いんだよ」
佐藤は獲物を追い詰める。
いつものように車間距離を詰め、ハイビームを叩きつける。右へ左へ、蛇行を繰り返して威嚇する。
だが、おかしい。
いつもなら、この段階で相手は速度を上げるか、路肩に寄せて譲るはずだ。さもなくば、恐怖でフラつくか。
しかし、そのタクシーは揺るがなかった。
まるで背後に佐藤など存在しないかのように、一定の速度、完璧なライン取りで山道を滑っていく。
「……なんだ、こいつ」
佐藤の苛立ちが沸点を超えた。
無視されている。自分の「力」が、このボロいタクシーには届いていない。
それは佐藤にとって、上司に無視されるよりも耐え難い侮辱だった。
「ビビらせてやる……死ぬほど後悔させてやる!」
佐藤はギアを落とし、エンジンを咆哮させた。
タイヤが悲鳴を上げ、ガードレールが迫る。視界が狭まり、脳内にはタクシーがスピンするイメージだけが膨れ上がる。
「どけえええええ!」
絶叫と共に、彼はさらに踏み込んだ。
その瞬間だった。
タクシーのリアガラス越しに、運転手の後頭部がふいに「光った」ような気がした。
「……あ?」
異変は唐突だった。
ハンドルが、石のように固まった。
いや、違う。車体そのものが、目に見えない巨大な手に引き寄せられるように、外側へと引っ張られている。
「な、なんだ!? ブレーキ、ブレーキが!」
床が抜けるほど踏み込んでも、愛車は加速を止めない。
それどころか、物理法則を無視したような不可解な軌道を描き、タクシーの横をすり抜け――。
目の前に、鈍く光る銀色のガードレールが迫った。
「あ、あああ……っ!」
衝撃。
浮遊感。
ガードレールの先は、深さ百メートルを超える断崖絶壁だった。
真っ逆さまに落ちていく視界の中で、佐藤は見た。
崖の上で、何事もなかったかのように走り去っていく、あのタクシーのテールランプを。
谷底で、真っ赤なスポーツセダンは激しい火柱を上げた。
轟音と共に肉体は爆散し、佐藤の「むしゃくしゃ」は、永遠に消え去った。
*
「……お客さん、目的地まであと少しです。県境を越えたらすぐですよ」
「ああ、助かるよ。こんな山奥まで、悪いね」
「いえいえ、これも仕事ですから」
タクシードライバーのサトウ。無精ひげの少し疲れた30代。
――かつて別の世界で「勇者」と呼ばれたその男は、穏やかな笑みを浮かべてバックミラー越しに客を見た。
目的地は隣県の静かな療養所。かなりの長距離だ。タクシードライバーとしての生活は、かつての魔王討伐の日々に比べれば、退屈なほどに平和だった。
女神から「転生して、もう一度人生をやり直してみない?」と言われた際、彼は一つだけ条件を出した。
『もう戦いたくない。静かに暮らせるだけの、ささやかな力が欲しい』
そうして授かったのが、この【アオリ・エクスプロージョン(煽り運転をしてきた車を強制的に自滅させる能力)】だった。
「めちゃくちゃ使えるタイミングが限定的な能力ですね」
「勇者様、この地球の現代社会はストレスに満ちています。この能力で、どうか世界をお救いください」
「これで、世界を…」
女神の言葉通り、この能力はある意味では非常に実用的だった。
しがない運転手として糊口を凌ぐ彼にとって、タクシーは城であり、客は守るべき民だ。この能力にはそれを守る力がある。
「やれやれ」
サトウは小さく息を漏らした。
バックミラーの中で、一台の赤いスポーツカーが、獲物を見つけた獣のようにこちらを睨んでいる。
急接近、蛇行、パッシング。それは、この山道ではあまりにも無謀で、悪質な振る舞いだった。
「運転手さん、後ろの車、凄まじい勢いだね。大丈夫かい?」
後部座席の老紳士が不安げに身を乗り出す。
「ご安心ください、お客さん。私は安全運転がモットーですから」
サトウは淡々とハンドルを切る。
本来の勇者としての魔力は、転生時にほとんど失われた。今の彼に、派手な爆裂魔法は使えない。
しかし、このタクシーの周囲に展開されている「領域」は、邪悪な意思を逃さない。
後ろの車が、さらに殺気立ってきた。
追い越し禁止のイエローラインを無視し、無理やり横に並ぼうとしてくる。ドライバーの顔が見えた。怒りと歪んだ愉悦に染まった、浅ましい顔だ。
(……ちょうどいい。この先は、深い谷だ)
サトウは、ほんの少しだけ「能力」の蛇口を捻った。
物理法則の書き換え。
煽り車の「前へ行きたい」という欲望を、「外へ行きたい」というベクトルに微調整する。
「おっと」
サトウが軽くブレーキを踏む。
その瞬間、赤いスポーツカーは、まるで何かに吸い寄せられるようにガードレールへと突っ込んだ。
ブレーキ音すら聞こえない。
車体は銀色の柵を軽々と飛び越え、深い霧が立ち込める谷底へと、吸い込まれるように落ちていった。
数秒後、遠くから微かな爆発音が響いた。
サトウの視界の隅で、小さな黒煙が立ち上る。
「おや、今のは……?」
老紳士が窓の外を振り返る。
「さあ、最近の車は派手な音を立てますからね。タイヤでもバーストしたんでしょうか」
サトウは平然とした顔で加速した。
バックミラーには、もう誰も映っていない。静寂が戻った車内に、ウインカーの規則正しい音だけが響く。
「そういえば、お客さん。ドラゴンって見たことありますか?」
「……え? ドラゴン? いやあ、映画の中くらいだね」
サトウは懐かしむように目を細めた。
「いやあ、間近で見るとすごいですよ。火を吹く前に喉がオレンジ色に光って、風圧だけで木がなぎ倒されるんです。あれに比べれば、山道の運転なんて可愛いものですよ」
「ははは、運転手さんは想像力が豊かだね」
「ええ、まあ。……ああ、そこを右ですね?」
「ああ、そうだよ」
サトウは軽やかにハンドルを回した。
背後に立ち上る黒煙は、もうバックミラーからも消えていた。
かつての勇者は、今日もメーターの数字と客の笑顔を守るため、ただ静かにアクセルを踏み続ける。
「お疲れ様でした。お気をつけて」
目的地で客を降ろしたサトウは、誰もいなくなった車内で一人、ふうと息をついた。
ダッシュボードに置かれた女神の小さなマスコットが、心なしか満足げに揺れているように見えた。




