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恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


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春の出口 後編

 卒業式の日、吉岡澄香は、朝から少しだけ落ち着かなかった。


 理由はひとつではない。卒業式そのものが、そもそも少し変な日なのだと思う。泣きそうな人がいて、やけに元気な人もいて、写真を撮るためだけに朝から前髪を気にしている子もいる。いつも通りみたいに見えて、どこもかしこも、きょうで終わりです、という空気に薄く包まれている。


 制服の襟を整えながら鏡を見たとき、澄香は、自分の顔が少しだけ大人っぽく見える気がした。気のせいかもしれない。卒業式の日の朝は、そういう気のせいが起きやすい。


 家を出ると、空はきれいに晴れていた。風は冷たいのに、日差しだけはちゃんと春のものだった。コートを着るほどではないけれど、手は少しだけ冷える。そういう中途半端な気温も、なんだか今日らしいと思った。


 学校に着くと、もう昇降口はざわついていた。女子たちの声はいつもより高く、笑い声は少しだけ大きい。緊張しているのを隠すみたいに、みんなよくしゃべる。


 澄香も友達と並んで体育館へ向かった。途中で何人かと「おはよう」と言い合い、スマホで写真を撮り、また歩く。その中で、彼女は一度だけ、自然な顔で後ろを見た。


 中村悠真がいた。


 別に、探していたわけではない。たぶん。


 ただ、こういう日には、見たい顔というものがあるのだ。


 悠真は、いつも通りきちんとしていた。詰襟のホックも、靴も、髪も、ちゃんとしている。卒業式だから頑張ってきた、という感じではなく、こういう場面で手を抜かない人なのだろうとわかる感じだった。


 澄香は、昔からそういうところを見ていた。


 女子は、見られていることにわりと気づく。


 気づいていないふりをしているだけで、視線の種類くらいはだいたいわかる。なんとなく見ているのか、誰かを探しているのか、自分に向いているのか、そうでもないのか。その違いは、案外、輪郭を持って届く。


 悠真が自分を見る目は、ずっと前から知っていた。


 一年のときから、たぶん少し。二年でも、廊下ですれ違うたびに少し。三年になって同じクラスになってからは、もう少しはっきり。


 だからといって、怖かったわけではない。


 むしろ、見つけると少しだけ安心した。


 自分でも、その感覚をどう呼べばいいのかわからなかったけれど。


 卒業式は、ちゃんと厳かで、ちゃんと退屈で、ちゃんと終わっていった。校長先生の話の途中で、隣の子が小さく鼻をすすり、前の列の男子が落ち着かなく肩を揺らし、どこかで椅子がきしむ。そういう小さな音が、妙にはっきり聞こえた。


 証書を受け取って席に戻ったあと、澄香は前を向いたまま、ほんの少しだけ視線を横へ流した。


 悠真がいた。


 たぶん、前を見ていた。


 たぶん、ちゃんと式を受けていた。


 でも、そういう「たぶん」の中に、少しだけ自分のことが混じっているかもしれない、と彼女は思った。


 その考えを自意識過剰だと笑うこともできたけれど、卒業式の日くらいは、少しだけ都合よく考えてもいい気がした。


 教室に戻ると、空気は一気にほどけた。泣く子、写真を撮る子、黒板に寄せ書きをする子、先生に話しかけに行く子。三年間使った教室なのに、急に他人の部屋みたいに見える。


 澄香は友達に呼ばれて窓際で写真を撮った。卒業証書の筒を持って笑って、と言われて笑う。もう一枚、と言われてまた笑う。カーテンが風でふくらみ、窓から白い光が入ってくる。


 その途中で、彼女は悠真がいないことに気づいた。


 さっきまでいたはずなのに、席のあたりに姿がない。


「吉岡、次これ撮ろ」


「うん」


 返事はしたけれど、心の一部だけが教室の外へ向いていた。


 自分でも変だと思った。別に約束したわけでもない。ただ、今日が最後なら、ちゃんと一回くらい話したいと思ったのだ。


 話したことがないわけじゃない。でも、三年間をしまうみたいな話は、一度もしていない。


 好きかどうかと聞かれたら、澄香にはまだ答えられなかった。


 悠真のことを考えると、胸が強く苦しくなるわけではない。会えないとつらい、というほどでもない。彼が誰かと話していても、嫉妬でどうかなりそうになるわけでもない。


 でも、嫌いじゃなかった。


 それどころか、かなり好きなほうだと思う。


 誠実で、静かで、変なところで不器用で、ちゃんとしているのに、少しだけ頼りない。たぶん、自分から前へ出るのは苦手だ。だから余計に、見ていると気になる。


 好きになれるかもしれない、という予感だけが、ずっとあった。


 予感のまま、三年が終わろうとしていた。


 澄香は「ちょっと外見てくる」とだけ言って教室を出た。友達は「すぐ戻ってきてね」と軽く言っただけで、深くは聞かなかった。


 廊下は人でいっぱいだった。階段にも、踊り場にも、別れ話みたいなものが散らばっている。どこも少しだけ騒がしく、どこか少しだけさみしい。


 中庭のほうへ視線を向けたとき、ベンチに座っている彼を見つけた。


 卒業証書の筒をいじっている。ひとりだった。


 その姿が、いかにも悠真らしくて、澄香は少し笑いそうになった。みんなが集まっているところにいないで、そういう場所にいるのだ。そういうところが、やっぱり少し好きだった。


 けれど近づく直前で、足が一度だけ止まった。


 もし自分の勘違いだったらどうしよう、と思った。


 もし彼がただひとりになりたかっただけなら。


 もし話しかけて、変な空気になったら。


 でも、勇気が必要なのは、告白するときだけじゃないのだと、そのとき澄香は思った。相手の気持ちがなんとなく見えてしまっているとき、その前に立つのにも、少し勇気がいる。


「中村くん?」


 声をかけると、彼は少し驚いた顔で顔を上げた。


 その表情を見た瞬間、ああ、やっぱり話しかけてよかった、と思った。


 そこからの会話は、たぶんとても平凡だった。卒業だね、とか、実感ないね、とか、四月になったら変な感じするのかな、とか。誰にでも言える言葉ばかりだ。


 でも、平凡な言葉でしか届かない時間というものもある。


 ベンチの端に座ったとき、距離は近すぎず遠すぎず、ちょうどよかった。花束の匂いと、冷たい風と、制服の布の感触。そういう細かいものが全部、あとで思い出すためにそこにあるみたいだった。


 彼が何か言いかけて、言わなかったことに、澄香は気づいていた。


 たぶん、好きだと言おうとしたのだと思う。


 たぶん、違うかもしれない。


 けれど、その迷いごと受け取った気がした。


 言われなかったことを、残念だと思ったかと聞かれたら、少しだけ、そうだった。


 でも同時に、安心もした。


 今ここで「好き」と言われたら、自分はきっと返事に困る。嫌ではない。むしろ嬉しい。でも、すぐに同じ熱さで返せるかはわからない。


 その曖昧さを、ごまかしたくなかった。


 だから彼が結局、「大学、がんばって」と言ったとき、澄香は少しだけ胸が痛んで、少しだけ救われた。


 この人はたぶん、優しい。


 優しいというより、誠実なのかもしれない。自分の気持ちを押しつけるより、この時間を壊さないほうを選べるくらいには。


 それが正しいのかどうかはわからない。でも、嫌いじゃなかった。


 中庭を出て、校舎の角を曲がって、澄香は一度だけ立ち止まった。


 駅で友達と待ち合わせしている。もう行かなければいけない。今日のあと、みんなで寄り道して、写真を撮って、プリクラか何かも撮るのだろう。そういう、いかにも卒業の日らしい午後が待っている。


 なのに足が前へ出なかった。


 ポケットの中でスマホが震えた。友達から、「先に行くよー?」というメッセージが来ている。


 澄香は画面を見つめ、それから短く返信した。


 ごめん、ちょっと遅れる。先行ってて。


 送信してから、自分で少しだけ笑った。


 何をしているんだろう、と思う。


 でも、今日くらいは、少しくらい自分の気持ちに曖昧でもいい気がした。はっきり好きではない。だけど、このまま離れてしまうのは、なんとなく違う。


 駅へ向かう代わりに、彼女は校門のほうへ歩いた。


 卒業式を終えた生徒たちが、何人もそこを通っていく。写真を撮る子、親と並んで帰る子、部活の仲間と騒ぐ子。笑い声が風に流され、校門の影が地面に長く落ちている。


 澄香は門の横で立ち止まった。


 春の光が、制服の袖にやわらかく乗っている。風はまだ少し冷たい。でも、待つには悪くない日だった。


 悠真がここを通るかどうかはわからない。通ったとして、自分が何を言うのかも、まだ決めていない。


 ただ、もう一度だけ顔を見たいと思った。


 それで十分なのか、その先があるのかは、まだわからない。


 でも、わからないまま立っていることを、今日は少しも悪いと思わなかった。


 卒業は終わりで、同時に、たぶん入口でもある。


 だったらその入口に、少しくらい誰かを待つ気持ちがあってもいい。


 澄香は校門の向こうの道を見つめたまま、花束を持ち直した。


 そして心の中で、まだ来てもいない誰かに向かって、そっと言った。


 春の出口で待ってるよ。

 

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