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恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


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春の出口 前編

卒業式の日の朝は、妙に音が澄んでいた。


 校門へ向かう道で、信号の電子音がいつもより乾いて聞こえ、風に揺れる電線は細く震えていた。空はよく晴れていて、冬の名残みたいな冷たさだけが、まだ少しだけ残っている。


 中村悠真は、詰襟の一番上のホックを指で確かめながら歩いた。昨日の夜、母親に「最後なんだからちゃんとしなさい」と言われて磨いた靴が、朝の光を受けてかすかに光っている。


 最後なんだから。


 その言葉は、昨日から何度も頭の中で形を変えていた。最後なんだから、話しかけろ。最後なんだから、言ってしまえ。最後なんだから、後悔しないようにしろ。


 けれど悠真は、そういう言葉が自分にはあまり効かないことを知っていた。効かないというより、胸の中で膨らむだけ膨らんで、結局、手足を重くする。


 体育館の入り口で上履きに履き替える。床の冷たさが足の裏からじわりと伝わってきた。三年生の列はもうかなりできていて、皆、いつもより少し静かだった。緊張というほどではないが、日常ではない空気が全員に薄くかかっている。


 その中で、彼はすぐに彼女を見つけた。


 吉岡澄香は、女子の列の前のほうで友達と何か話していた。笑うたびに肩のあたりで髪が揺れた。別に特別な髪型ではない。化粧だってしていないだろう。ただ、三年間見続けた人の輪郭は、他の誰より先に目に入る。


 彼女はふと顔を上げ、視線を泳がせるようにして前を見た。その目が一瞬だけ悠真のほうをかすめた気がしたが、たぶん気のせいだった。


 たぶん、という言葉を、悠真はよく使う。


 たぶん気づかれていない。たぶん話しかけても迷惑じゃない。たぶん今ならいける。たぶん無理だ。たぶん、いつか。


 その「いつか」が、今日で終わるのだとわかっていても、彼の中ではまだ曖昧だった。


 卒業式は、思っていたよりあっさり進んだ。校長の話も、来賓の祝辞も、拍手も、答辞も、全部ちゃんと聞いていたはずなのに、終わってみると、まるで長い廊下を通り抜けてきたみたいにしか思えなかった。


 名前を呼ばれ、壇上へ上がり、卒業証書を受け取る。紙の端が指に当たる感触だけが妙にはっきり残った。


 席へ戻る途中、横の列の彼女が見えた。


 澄香は証書を膝の上にそろえて置き、まっすぐ前を向いていた。真面目な顔だった。彼女があんな顔をするのを知っていたのは、文化祭の実行委員をしていたとき、放課後の教室で、最後まで飾り付けの位置を考えていたのを見たからだ。誰も見ていないところで、彼女は案外、根気があった。


 そんなことを自分だけが知っている、と思うのは少し傲慢だろうか、と悠真は考えた。たぶん他にも知っている人はいる。それでも、自分が見たものは、自分の中にだけ残る。


 式が終わると、空気は一気にほどけた。体育館のあちこちで椅子の引きずる音がして、泣いている女子、笑っている男子、スマホを出して写真を撮り始める人たち。先生の声すら、もう締まりがない。


 教室に戻って最後のホームルームがあり、担任が妙に噛みながら話したあと、「じゃあ、解散」と言った。三年間の終わりは、拍子抜けするほど簡単だった。


 その瞬間、教室はもう教室ではなくなった。


 席を立つ者、寄せ書きを始める者、窓際に集まる者、泣き出す者。黒板には誰かが書いた「ありがとう三年二組」の文字。その下に、色とりどりのチョークで落書きみたいな名前やハートが増えていく。


 悠真は自分の机の横に立って、しばらく動かなかった。


「おい、中村」


 声をかけてきたのは、同じバスケ部だった大野だった。ネクタイもしていないくせに、妙に堂々としている。


「写真撮るぞ。ほら、こっち」


「あ、うん」


 二、三枚撮って、肩を組まれて、ふざけて笑って、それが終わると大野は急に目を細めた。


「で、お前」


「何」


「言わなくていいの」


 悠真は反射的に目をそらした。大野はこういうときだけ勘がいい。


「別に」


「別に、じゃないだろ。三年だぞ」


「それは今さらすぎる」


「今さらじゃなくて、今しかないやつ」


 言い方が雑なのに、言葉の芯だけはその通りで、悠真は困る。大野は教室の向こうを顎で示した。


 澄香は窓際で、友達三人と卒業証書の筒を持って写真を撮っていた。笑顔だった。風が入って、カーテンがふわりと膨らむ。その向こうに、白い春の光があった。


「行けよ」


 大野は言った。


 悠真は、行けない理由ならいくらでも挙げられると思った。話しかけるきっかけがない。二人で話したことがほとんどない。急に告白なんて重い。相手を困らせるだけだ。成功する気がしない。今さら遅い。


 でも、そんな理由を並べるより先に、自分が本当は何に立ちすくんでいるのか、彼はよく知っていた。


 断られるのが怖い、だけではない。


 言ってしまったら、この三年間が終わり方を持ってしまうのが怖かった。


 好きだった、という曖昧で静かな時間が、「だめでした」か「ありがとうございました」か、そういう言葉で区切られてしまう。そのことが惜しかった。


 大野が「ま、俺は知らんけど」と肩をすくめて去っていく。気を遣ったのか、突き放したのか、その両方なのかもしれない。


 悠真は鞄を持って教室を出た。


 廊下にも人があふれている。階段の踊り場、手すりにもたれかかる女子、職員室へ向かう男子、部活の後輩に囲まれている先輩。どこも別れの気配でいっぱいなのに、どこか浮かれてもいる。


 校舎の窓からグラウンドが見えた。白線は薄れ、サッカーゴールのネットが風に揺れている。あそこで走ったことも、転んだことも、怒鳴られたことも、今となっては均一な色に見えた。


 階段を下りながら、彼は澄香のことを考えた。


 一年の春、同じクラスになって、出席番号が近かった。最初に話したのは、英語の教科書を忘れた彼女に「見せて」と言われたときだった。二年では別のクラスになったが、廊下ですれ違えば会釈するくらいにはなった。三年でまた同じクラスになり、文化祭で少しだけ言葉を交わした。


 それだけだった。


 それだけなのに、彼女のことを考えない日は、たぶん一日もなかった。


中庭に出ると、花壇の隅に小さな白い花が咲いていた。名前は知らない。卒業式の日に咲く花としては地味すぎる気もしたが、こういうのが本当なのかもしれないと思う。


 中庭のベンチには誰もいなかった。体育館側から歓声が聞こえ、どこかで先生が笑っている。


 悠真はそこに座り、卒業証書の筒を膝に置いた。筒のふたを開け、閉め、また開ける。意味のない動作だった。


 ここで待っていれば、彼女が通りかかるかもしれない。


 そう思ったが、自分がそんな偶然に期待していること自体が、少し可笑しかった。三年間、彼はずっと偶然に期待していた気がする。席替え。文化祭。雨の日の昇降口。修学旅行の班。何か起きるかもしれない場面のたびに、何も起きないことを確認してきた。


 けれど、その「何も起きない」を、彼は嫌いになれなかった。


 ひどく惨めだったわけではない。つらいだけでもなかった。ただ少し遠くから見ているだけで、毎日がほんの少しだけ色を持った。教室の空気や、放課後の西日や、配られたプリントの角にまで、その人が混じっていた。


 たぶん、恋というのは、本来もっと能動的なものなのだろう。奪いに行ったり、選ばれようとしたり、傷つく覚悟を持ったりするものだ。


 自分のそれは、もっと弱くて、静かで、何も壊さない代わりに何も変えなかった。


 でも、それが全部無意味だったとも思えない。


「中村くん?」


 声がして、悠真は顔を上げた。


 澄香が立っていた。手にはスマホと、小さな花束。卒業式のあと、誰かからもらったのだろう。制服の袖口に光が乗っている。


「こんなとこにいたんだ」


「あ……うん」


「探してたわけじゃないんだけど」


 彼女は少し笑った。言い訳のような、そのままのような言い方だった。


「さっき教室で見なかったから」


「ちょっと外、出てただけ」


「そっか」


 会話が一度そこで途切れる。いつもなら、この沈黙に負けていた。適当なことを言って逃げただろう。


 でも今日は、逃げても同じだった。


「卒業だね」


 澄香が言う。


「うん」


「なんか、まだ実感ないけど」


「わかる」


「四月になったら、急に変な感じするのかな」


「するかも」


 また少し沈黙。


 風が吹いて、彼女の髪が頬にかかった。彼女はそれを耳にかけながら、ふと目を細めて校舎を見た。


「寂しい?」


 不意にそう聞かれて、悠真は答えに迷った。


「……少し」


「私も」


 彼女はベンチの端に腰かけた。距離は近くも遠くもなかった。花束から、かすかな甘い匂いがした。


「中村くんってさ、ちゃんとしてるよね」


「急に何」


「いや、前から思ってた。誠実っていうか」


 そんなことを言われると思っていなかったので、悠真は困った。


「別に」


「そうやってすぐ否定するところも、なんかそれっぽい」


 彼女は笑った。からかっているというより、本当にそう思ったときの笑い方だった。


 胸の奥がわずかに熱くなる。


 今なら言えるかもしれない、と彼は思った。


 好きでした。


 三年間、ずっと。


 ありきたりすぎる言葉なのに、その一言が喉の手前で重くつかえている。言えば終わる。言わなくても終わる。どちらにしても終わるのなら、言ったほうがいいのかもしれない。


 けれどその瞬間、彼は気づいた。


 自分はたしかに彼女が好きだった。でも今この場で欲しいのは、返事ではないのだと。


 この人が自分の隣に少しだけ座って、同じ校舎を見て、同じように少し寂しいと思っている。その事実だけで、もう十分だった。


 十分だと思ってしまったことを、弱さと呼ぶことはできる。


 でも、彼にはそれが嘘ではなかった。


「どうしたの?」


 澄香がこちらを見る。


 悠真は、一度だけ息を吸って、それから笑った。


「いや、なんでもない」


「なにそれ」


「ほんとに」


 彼女は少しだけ不満そうな顔をしたが、追及はしなかった。その代わり、立ち上がってスカートの埃を払う。


「じゃあ、私そろそろ行くね。駅でみんなと待ち合わせしてるから」


「うん」


「中村くんも、元気で」


 その言葉のあとに続くものは、たぶん何もない。社交辞令でもあり、本心でもあるだろう。卒業式の日には、そういう言葉が一番本物かもしれなかった。


 悠真も立ち上がった。


「吉岡」


「ん?」


 名前を呼ぶと、彼女は素直に振り向いた。


 これが最後の最後だった。


 けれど彼は、結局、言わなかった。


「……大学、がんばって」


 口から出たのは、驚くほど平凡な言葉だった。


 一瞬、自分でも呆れた。もっと何かあるだろうと思った。三年分の気持ちの果てがこれか、と。


 でも澄香は、ふっとやわらかく笑った。


「ありがとう。中村くんも」


 それだけ言って、彼女は手を小さく振り、中庭を出ていった。花束の色が春の光の中で揺れ、それから角を曲がって見えなくなる。


 悠真はしばらく、その曲がり角を見ていた。


 胸は少し痛んだ。けれど、どうしようもない痛みではない。長く持っていた荷物を下ろしたあとの、妙に軽い腕の感じに似ていた。


 空を見上げる。雲ひとつない青だった。


 告白しなかったことを、いつか後悔するかもしれない。二十五歳か、三十歳か、もっと先か。酒の席で思い出して、自分の臆病さに苦笑する日が来るかもしれない。


 でも今日この瞬間の自分は、それを完全な失敗だとは思えなかった。


 伝えなかったからこそ残るものも、たしかにある。


 それは誇れるものではないし、誰かに勧められる生き方でもない。けれど、自分が三年間かけて持ってきた気持ちは、返事をもらわなくても、無かったことにはならないのだと思えた。


 校舎の窓が陽を返して光っている。廊下のどこかで笑い声が上がり、すぐに遠ざかった。


 もうここへ毎朝来ることはないのだろう。


 それなのに、不思議と絶望はなかった。


 寂しさの底のほうに、かすかな高揚があった。これから先、自分がどこへ行くのかはまだよくわからない。大学生活も、知らない街も、新しい人間関係も、たぶん不安のほうが多い。


 それでも、春の出口に立っている感じがした。


 終わったことが悲しいのに、始まることが少し嬉しい。


 その両方を胸に入れたまま、悠真は卒業証書の筒を持ち直した。


 そして一度だけ、誰もいない中庭を振り返り、ゆっくりと校門のほうへ歩き出した。


 風はまだ少し冷たかったが、日の当たるところだけ、ちゃんと春だった。


 

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