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恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


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無害証明

 黒崎正宗は、人の顔色を見るのがうまかった。


 不安で眠れていない顔、医者の説明を半分も理解できていない顔、検索結果に飲まれて判断力を失った顔。そういう顔を前にすると、黒崎はいつも少しだけ声を落とした。相手が欲しいのは医学ではない。許可だ。恐怖から逃げていいという、もっともらしい許可。


「大丈夫です。まだ終わりじゃありません」


 壇上からそう言うたび、客席では何人かが泣いた。


 都内の貸し会議室。壁際には白い箱が積まれ、演台の横には会社のロゴが入った青いパネルが立っている。《ナチュラル・レヴ》。免疫、巡り、細胞環境。法に触れないぎりぎりの言葉だけを選んだ広告で伸びた会社だ。


 黒崎はマイクを握り、客席に向かって穏やかに笑った。


「西洋医学を否定するつもりはありません。ただ、人間には本来の力がある。その力を引き出す環境を整える。私たちはそこに着目しているだけです」


 嘘だった。


 少なくとも黒崎はそう思っていた。箱の中身は、健康被害が出ない程度に薄くした粉末とカプセルの寄せ集めにすぎない。原価は安い。効果は曖昧。だが「効いた」と言う者は出る。人は改善したい時、改善したと信じたがる。そして病気という底なしの不安は、信じる相手を欲しがる。


 それが商売になった。


 講演後、黒崎は控室でネクタイを緩め、水を飲んだ。胃の奥が焼けるように重い。ここ数週間、食後に鈍い痛みが残っていた。会食が続いたせいだろうと思っていたが、今朝から背中まで差し込むようになっている。


「社長、大丈夫ですか」


 秘書の市原が言った。


「顔色が悪いです」


「寝不足だ」


 そう答えた時、喉の奥に鉄の味が上がってきた。黒崎は紙コップを置き、洗面所へ向かった。吐きはしなかったが、鏡の中の自分はひどく黄ばんで見えた。


 その三日後、大学病院の消化器内科で、若い医師が淡々と説明した。


「膵頭部に腫瘍があります。画像所見から、膵癌の可能性が高いです」


 医師の口調は静かだった。おそらく何度もこういう説明をしてきたのだろう。隣のモニターには、灰色の断面画像が並んでいる。黒崎には、そこに映る白い濁りが、自分の中にあることだけが理解できた。


「手術は」


 自分の声が思ったより低かった。


「現時点では血管への浸潤が疑われます。まず精査して、化学療法を含めた治療方針を検討します」


 黒崎はその後の説明も聞いた。聞きながら、頭の中で別の計算をしていた。いま動けば間に合うか。どこの病院がいい。誰に知られずに入院できる。会社の広報はどう押さえる。もし漏れたら株主はどう反応する。


 病院を出たあと、黒崎は車に乗り込むとすぐに市原へ言った。


「今の話は社内に出すな。役員にもだ」


「……承知しました」


「専門医を探せ。標準治療でいく。保険適用の範囲で一番いいところだ。民間療法みたいなものは全部切る」


 市原はわずかに目を伏せた。いつもなら「わかりました」と即答するところだったが、その日は一拍置いた。


「社長、ご自身がその言い方をされるのですか」


「何だ」


「いえ」


 車窓の外で信号が変わる。市原はそれ以上何も言わなかった。


 翌朝には、経営幹部の三人が応接室に揃っていた。


 営業本部長の堀、広報責任者の牧田、そして創業時から黒崎の右腕として動いてきた専務の真壁。三人とも表情は深刻だったが、葬式のような沈み方ではなかった。むしろ慎重に、壊れ物を扱う顔だった。


「市原から聞きました」


 真壁が言った。


「許可なく話したのか」


「社長の身の上に関わることです。隠して判断を誤る方が危険だと」


 黒崎は舌打ちしそうになったが、堪えた。


「治療は進める。数か月は表に出る回数を減らす。以上だ」


 堀がすぐに口を挟んだ。


「標準治療を受けるおつもりですか」


「当然だろう」


「まずいです」


 あまりに即答だった。


 牧田がタブレットを差し出した。画面には会社の公式動画の再生ページが並んでいる。黒崎自身が映っていた。白衣のようなジャケットを着て、穏やかな声で語っている。


《現代医療が悪いのではありません。ただ、治療だけに依存すると、人は自分の生命力を手放してしまう》

《本当に必要なのは、病に支配されない心と、身体を整える習慣です》


 いつ撮った動画か覚えている。法律に触れない表現に修正を重ねた、例のシリーズだ。直接的な治療否定ではない。だが受け手がどう解釈するかまでは制御できない。


「社長が抗癌剤を使った、手術を受けた、そうなれば何が起きると思いますか」


 牧田の声は事務的だった。


「顧客は裏切られたと感じます。『自分は売っておいて、結局は病院に逃げた』と」


「だから何だ」


「会社が終わります」


 真壁が言った。


「社長個人の問題ではないんです。十万の定期顧客がいる。代理店もいる。療養中の方のコミュニティもある。皆、社長の言葉を信じてる」


「だから嘘を突き通せと言うのか」


「嘘ではなく、整合性です」


 黒崎は一瞬、笑いそうになった。整合性。よくもそんな言葉を選べる。


「俺は死ぬかもしれないんだぞ」


 沈黙が落ちた。


 堀は視線をずらし、真壁だけが黒崎を見返した。


「だからこそです」


 その顔には、奇妙なくらい真剣な誠実さがあった。


「社長には、生きてもらわないと困る。けれど、会社の思想を壊すやり方で生き延びても、その先に残るのは何ですか。あなたが作ったものを、あなた自身が否定することになる」


 黒崎は立ち上がった。


「出ていけ」


 三人は動かなかった。


 真壁が静かに続けた。


「治療を受けるなと言ってるんじゃありません。まずは私たちに任せてください。情報の扱いを整理して、表に出ない形を検討する。顧客には『自然療法中心で療養』と伝える。並行して――」


「並行も何もない。病院に行く」


「いま行けば、誰かが見ます」


「だったら夜にでも」


「病院は守秘義務がありますが、人の目までは消せない」


 その日から、黒崎の周囲には人が張りついた。


 運転手は真壁の息のかかった者に変わり、市原は「体調管理のため」と称して黒崎の予定を絞った。電話は取り次ぎ制になり、個人端末には見慣れない管理アプリが入れられた。顧問医だという中年の男が毎日訪れ、舌を見て、脈をとり、甘い匂いのする液体を置いていく。


「少し体を整えましょう。いまは切った貼ったより、炎症を下げることです」


 黒崎は一度、そのボトルを流しに捨てた。翌日には、同じものが六本届いた。


 夜中、ひとりで病院へ行こうとしたことがある。寝室を抜け、玄関まで行ったところで、リビングに明かりがついていた。ソファに座っていたのは、顧客コミュニティの代表を名乗る女だった。五十代半ば、乳癌サバイバーとして会社の広告にも出たことがある。


「社長」


 女は立ち上がり、泣きそうな笑顔を浮かべた。


「どこへ行かれるんですか」


「帰れ」


「私、治ったんです。社長のおかげで。病院では希望が持てなかった。ここに来て、食べるものを変えて、考え方を変えて、体温を上げて、先生の話を聞いて。私は助かった」


「知らん」


「だから、社長も大丈夫です」


 その言葉の熱に、黒崎は一歩引いた。女の目は信じていた。商品ではなく、自分の人生の意味を。


「あなたが病院に行ったら、私たちは何を信じればいいんですか」


 責めているわけではない。むしろ懇願だった。そこが余計に気味が悪かった。


 黒崎は玄関の鍵を開けられなかった。


 数週間後、会社は動画を公開した。黒崎が自宅の書斎で微笑みながら、「少し休養に入る」と語る映像だ。撮影時、黒崎はろくに食事も取れていなかったが、照明とメイクで頬のこけは隠された。


《私は自分の体で、改めて“整える力”を試してみたいと思っています》


 台本は牧田が書いた。黒崎は拒否したが、喋らなければ別の形で情報を出すと言われた。結果、彼の言葉は切り貼りされ、病と向き合う求道者のように編集された。


 動画は爆発的に拡散した。


 コメント欄は祈りで満ちた。社長なら大丈夫。社長は本物だ。あなたの生き方こそ証明です。医者に殺されないでください。応援しています。私たちも続きます。


 黒崎はスマートフォンを壁に投げつけた。


 痛みは増していった。黄疸が濃くなり、食べるたび吐き気がした。背中は夜になると骨の内側から削られるように疼いた。医師の説明を受けた日付から考えれば、まだ数か月も経っていない。それでも体は、もう他人の持ち物みたいだった。


 ある日、真壁が寝室の椅子に座り、静かに言った。


「いまさら病院へ行っても、劇的には変わりません」


「だから諦めろと」


「違います。最後まで、やれることをやりましょう」


 そう言って机に並べたのは、自社製品の上位ラインだった。高濃度抽出。特別発酵。海外研究所共同開発。名前だけ豪華な箱が四つ。


 黒崎は笑った。声にならない、乾いた息だけが出た。


「お前は、本当に効くと思ってるのか」


 真壁は少し考えてから答えた。


「思いたい人にとっては、効くんです」


「俺には効かない」


「社長は知りすぎている」


 その一言で、黒崎は妙に納得した。


 自分はずっと、信じない側の人間だった。信じないから売れた。相手がどこで藁を掴むか、どの言葉なら自分で自分を騙してくれるかを、冷たく見積もれた。


 だが今、自分を救うために必要なのは、その騙しの中へ入る能力なのかもしれなかった。


 けれど、もう遅かった。


 黒崎は病院に電話をかけようとした。番号は控えてあった。しかし端末は見当たらず、固定電話の回線はいつからか止まっていた。怒鳴っても、廊下の向こうで誰かが「社長が苦しんでる」と囁くだけだった。駆けつけてくるのは救急ではなく、白湯と自分が売っていた粉末と祈るような顔だった。


 冬の終わり、自宅療養は半ば宗教施設のようになっていた。


 一階のリビングには見舞いの品が山のように積まれ、玄関には毎日、手紙と花と箱が届いた。黒崎の病状は外へは「浄化反応が強く出ている」と説明され、支持者たちはむしろ熱を上げた。苦しむのは好転反応。排出。毒素との戦い。体が変わる前兆。


 現実は違った。


 黒崎は痩せ細り、腹水で腹だけが膨らみ、皮膚はろう細工のように黄色くなった。目の焦点は合いづらく、痛み止めも十分ではない。顧問医は「薬に頼りすぎると本来の反応が鈍る」と言って量を絞った。


 ベッドの上で、黒崎は何度か本当のことを言おうとした。


 この商品は効かない。

 病院へ行け。

 俺を信じるな。


 だが喉は乾き、舌はもつれ、出てくるのはかすれた息だけだった。枕元では女たちが「社長、いま乗り越えどころです」と囁き、男たちが「動画、みんな待っています」と励ました。励ましというより、維持だった。彼らは黒崎を生かしたいのではない。黒崎という証拠を、生きている形で保ちたいのだ。


 最後の夜、寝室には十人近くいた。


 照明は落とされ、加湿器が白い息を吐いている。机には商品が並べられ、誰かがすり鉢で錠剤を砕いていた。甘い粉と苦い粉が混ざる匂い。壁際では真壁が腕を組み、静かに様子を見ている。泣いている者もいた。だがその涙は、ひとりの人間が死ぬことへの悲しみというより、信仰の試練に立ち会う昂揚に近かった。


「社長、もう少しです」


「飲めます。ゆっくりでいいです」


「これ、特別ロットです。先生が調整したものです」


 スプーンが唇に押し当てられる。黒崎は顔を背けようとしたが、力が入らない。顎を支えられ、口が開く。ざらついた粉が舌に広がり、喉の奥に貼りついた。激しく咳き込み、息が詰まる。誰かが背をさすり、誰かが「出してはだめ、吸収される前に」と言った。


 黒崎は薄く目を開けた。


 天井の木目が滲んでいる。その向こうに、病院の白い廊下を思い出した。若い医師の落ち着いた声。精査して、治療方針を検討します。あれは脅しではなかった。まだ間に合うかもしれない側の言葉だった。


 その時は、数字と段取りのことしか考えていなかった。


 いま、ようやくわかる。


 自分が売っていたのは商品ではない。治療から逃げるための物語だった。検査より優しい言葉。確率より希望に似たもの。身体の中で何が起きているかを直視しなくて済む、柔らかい説明。その物語に、他人を何人も沈めてきた。


 そして最後に、自分がいちばん深く沈んだ。


 口元にまたスプーンが来る。砕いたカプセルを蜂蜜で練ったものだった。女が祈るような目で覗き込んでくる。


「社長なら証明できます」


 何を。


 そう問いたかったが、声にならない。


 真壁が一歩近づいた。暗い部屋の中で、その顔だけが妙に静かだった。


「大丈夫です」


 誰に向けた言葉なのか、黒崎にはもうわからなかった。


 唇の隙間から甘い泥が流し込まれる。喉が拒み、肺がむせ、視界の端で誰かが泣きながら「効いて、お願い」と繰り返す。効くわけがない。黒崎はその事実を、この部屋でただひとり、最後まで知っていた。


 だから誰にも救われなかった。


 加湿器の音が、夜の底で細く鳴り続けていた。

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