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恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


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あの曲がり道の先には、

大学に入学して東京に出てきた春、私はよく歩いた。


知らない街というのは、それだけで少し親切だ。何も知らないこちらに対して、角を曲がるたびに新しいものをひとつずつ見せてくれる。古いクリーニング屋、やけに大きい犬がいる家、昼なのに薄暗い喫茶店、団地の裏の細い通路、川沿いの風の強さ。そういうものを見つけるたび、私はこの街と少しだけ仲良くなれた気がした。


大学は山の上にあった。


最寄り駅からしばらく住宅街を抜けて、最後に長い坂を上る。運動が苦手だったくせに、なぜか自転車通学にしてしまって、毎朝のように息を切らしていた。夏は背中が汗で張りつき、冬は耳が痛かった。けれど、あの坂の途中から見える街の屋根の色が好きだった。晴れた日は銀色に光って、曇りの日は少しだけ鈍く沈む。その違いを、私は飽きずに眺めていた。


その通学路の途中に、一本だけ別の道があった。


大学へ向かう坂から、するりと横へ逸れていく道だ。幅は狭く、けれど車一台は通れそうで、きれいに舗装されていた。山の斜面に沿ってゆるく曲がり、少し先で木立の向こうへ隠れてしまう。その先がどうなっているのか、下からは見えなかった。


私はいつも、その道をちらりと見た。


こっちへ行くとどこに出るんだろう。

山頂だろうか。

それとも裏側の町だろうか。

案外すぐに行き止まりで、資材置き場でもあるのかもしれない。


そう考えるだけで、少し楽しかった。


新しい街に来たばかりの私は、たいていのものに興味があった。知らない店の扉も、名前のない細道も、地図の端にある小さな公園も、全部がまだ意味を持っていないぶんだけ魅力的だった。あの道もそのひとつだった。


いつか行こう、と思っていた。


講義のない午後にでも。

バイトが早く終わった日にでも。

気候のいい休日にでも。


そうやって「いつか」を何度か重ねているうちに、季節は変わった。サークルに入って、友だちができて、レポートに追われて、恋人ができて別れて、また春が来た。大学生活には大学生活なりの忙しさがあって、別に大事件でもないことで日々は埋まっていく。通学路のあの道は、毎日の視界に入りながら、毎日少しずつ遠ざかっていった。


結局、卒業まで一度も行かなかった。


卒業式の日、袴姿の友だちと写真を撮るために坂を上りながら、私はあの道を見たはずだ。でも、そのとき何を思ったかは覚えていない。たぶん、何も思わなかったのだと思う。人は本当に大事なものを取りこぼすとき、案外大げさな後悔などしない。ただ、そのまま通り過ぎる。


卒業して十年が経った。


後悔しているかと聞かれたら、たぶん違う、と答える。あの道の先に行っていたとしても、人生が変わるようなことは何もなかったはずだ。絶景があったわけでも、運命的な出会いが待っていたわけでもないだろう。大学の裏手に抜けるだけだったかもしれないし、古い貯水池か何かがあるだけだったかもしれない。


それでも、ふと思い出す。


忙しい日々の中で、信号待ちをしているとき。

スーパーで曲がったきゅうりを手に取ったとき。

夜中に眠れず、カーテンの隙間から隣のビルの明かりを見ているとき。


どうしてか、あの道のことを思い出す。


行かなかった道のことを、人は案外忘れない。


十年目の秋、私はたまたまその街へ行く用事があった。大学時代の友人と会う約束があり、少し早く着いたので、駅の周りを歩いた。店はかなり入れ替わっていた。昔よく通った弁当屋は美容室になり、本屋だった場所にはドラッグストアが入っていた。けれど、駅前の大きなイチョウはまだ残っていて、黄色くなりかけた葉を何枚も落としていた。


ふいに、坂を上ってみようと思った。


たいした決意ではなかった。ただ、今日は時間がある、と思っただけだ。昔みたいに自転車ではなく、歩きで。ヒールの低い靴で。肩からかけたバッグには、学生証ではなく仕事の資料と財布が入っていた。


坂は記憶より短かった。

でも、記憶より急でもあった。


私は途中で息が上がり、思わず笑ってしまった。二十歳の頃は毎日ここを上っていたのに、と思うと少しおかしい。あの頃の体力が特別だったのか、いまの体力が正直なのか、その両方なのかはわからない。


そして、あの道はまだあった。


当たり前のように、そこに。


少しだけひび割れたアスファルト。昔より伸びた木々の枝。曲がった先を隠すように重なっている影。私は道の入口で立ち止まり、十年前とほとんど同じことを考えた。


この先、どこに行くのだろう。


そこでようやく気づいた。私は行き先を知りたかったわけではなかったのかもしれない。ただ、知らないままでいることを、長く手放せなかったのだ。


私は歩き出した。


道はゆるやかに山肌に沿って続いていた。思ったより静かで、住宅街の音がすぐに薄くなる。風のたびに、乾いた葉がアスファルトを擦った。途中、古いガードレールがあり、その向こうに街が少しだけ見えた。大学の校舎の屋根も、遠くに白く見えた。


五分ほど歩くと、小さな広場のような場所に出た。


広場というほど整ってもいない。ただ、道が少しだけ開けて、ベンチがひとつ置かれているだけの場所だった。ベンチの木は日に焼けて白っぽくなっている。脇には「見晴らしの小径」と書かれた古い案内板が立っていて、文字の半分はかすれていた。


その先には、街が見えた。


驚くほどの景色ではなかった。


きれいではあったけれど、息を呑むほどではない。ビル群が遠くに霞み、住宅街がその手前に重なり、線路が銀色に伸びている。夕方前の光が、窓ガラスをところどころ反射させていた。十年前なら写真を撮ったかもしれない。けれど私はスマートフォンを取り出さず、ただベンチに座った。


なんだ、こんなものか。


少し拍子抜けして、でも同時に、ほっともした。


やっぱり何かがあったわけじゃない。

やっぱり人生を変える秘密の場所なんかじゃなかった。


なのに、私はしばらくそこから動けなかった。


ベンチに座って街を見ていると、不思議と大学時代の自分のことが思い出された。希望に満ちていた、とは言わない。あの頃の私はあの頃なりに不安だったし、自分のことを大した人間だとも思っていなかった。ただ、まだ開けていない扉がたくさんある気がしていた。選ばなかった道にも、選ぶかもしれない未来にも、今よりもう少し手触りがあった。


その感じだけは、もう戻らない。


たぶん、私が思い出していたのはこの道ではなく、その頃の自分だったのだ。知らない街に少しだけ期待していた自分。意味のない寄り道に価値があると信じていた自分。すぐには何者にもなれないくせに、何者かになれる時間だけはまだ十分に持っていた自分。


道の先に何があるかではなく、道の先に何かがあるかもしれないと思えていた、その感覚。


それが、ずっと懐かしかったのかもしれない。


ふと、足元にどんぐりが転がっているのが見えた。丸くて、つやのある、小さな実だった。子どもみたいだと思いながら、私はそれを拾って指先で転がした。こんなもの、十年前の私ならポケットに入れて持ち帰ったかもしれない。いまの私は少し迷って、結局ベンチの端に置いた。


夕方の風が少し冷たくなってきた。


友人との待ち合わせの時間が近づいていた。私は立ち上がり、服の裾を払って、もう一度だけ街を見た。特別なものはやはり何もなかった。けれど、それでよかった。


行かなかったことを悔やんでいたのではない。

行かなかったままでも、どこかで自分の中に残り続けるものがあると、たぶん知っていたかったのだ。


人は全部の道を歩けない。

歩かなかった道の多くは、そのまま消えていく。

でも、たまにひとつだけ、消えずに残る道がある。


それはたぶん、そこに何かがあったからではない。

そこへ向かおうとしたときの自分が、まだ心のどこかに住んでいるからだ。


坂を下りながら、私は何度か振り返りそうになった。けれど振り返らなかった。もう場所はわかったし、また来ようと思えば来られる。実際にまた来るかどうかはわからない。でも、今度はそれでいいと思えた。


駅に着くころには空が薄く茜色になっていた。待ち合わせ場所に向かう人の流れに混じりながら、私は少しだけ足取りが軽くなっているのを感じた。


思い出というほど大げさではない。

後悔というほど痛くもない。


ただ、心の中には長いあいだ、ひとつの曲がり道が残ることがある。


そしてある日そこを歩いてみても、見つかるのは秘密でも奇跡でもなく、たぶん、自分が置いてきた季節の輪郭だけなのだ。


それでも、それで十分なのだと思った。

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