竜宮城ダークサイド
亀は海岸線が嫌いだった。
正確には、嫌いになった。いつからかはもう覚えていない。砂の感触も、潮の匂いも、白い泡が膝――いや、四肢に絡みつく感触も、ぜんぶ同じ意味を帯びるようになってしまった。また始まる、という意味を。
その日も、亀は砂の上を這っていた。
甲羅に冬の陽光を受けながら、濡れた目で岸を見渡す。遠くで子どもたちの声がする。笑い声か、怒鳴り声か、区別がつかない距離。亀はそちらへ向かった。急ぐ必要はなかった。むしろ急いではいけなかった。急ぐと、考える時間が増える。
悪童たちの輪の中心に、一匹の別の亀がいた。
砂を蹴られ、棒で突かれ、甲羅に小石を乗せられながら、それでも首を引っ込めてじっとしている。その様子を見た瞬間、亀は思った。ああ、また自分に似たやつだ。逃げることもできず、反撃することもできず、ただ嵐が過ぎるのを待っている生き物。
青年が来たのは、そのときだった。
背が高く、よく日に焼けた顔をしていた。声は穏やかで、でも迷いがなかった。悪童たちを追い払い、砂に膝をついて、亀の甲羅についた砂を払ってやる。優しくて温かい手だ、と亀は思った。それから即座に思い直した。温かいのは、命がまだたっぷり残っているからだ。
浦島太郎。
亀は彼の名前を、翌日には知っていた。海沿いの村に住む漁師の息子。親切で、少し間抜けで、笑うと目が細くなる。亀はその細くなった目を、次の数日間、繰り返し確認した。乙姫の命令は明確だった。「若くて、清潔で、生気のある男を連れてきなさい」。
太郎は条件を満たしていた。完璧なほどに。
声をかけた日のことを、亀はいまでも思い出せる。
太郎は亀を見て、最初は目を丸くした。それから破顔した。「おまえ、あのときの」と言って、しゃがみ込んで甲羅を撫でた。人間に亀の区別などつかないのだ。亀はその手の感触を、感じないようにした。
「浦島太郎さん。ボクはいじめっ子から助けてもらった亀です」
自分の声が、ひどく他人のように聞こえた。
「乙姫さまがお礼にあなたを竜宮城で歓迎したいというので、お迎えにまいりました」
太郎は笑った。信じないかもしれない、と思っていた。しかし太郎はあっさりと信じた。世界にはまだ不思議があると信じている種類の人間というものがいて、太郎はそういう人間だった。それが、彼の最大の欠点だった。
亀の背に乗った太郎の体重を、亀は感じながら泳いだ。軽い、と思った。命というのは、案外軽いものだと亀は思った。そしてすぐに打ち消した。考えるな。
竜宮城は、美しかった。
いつ来ても美しかった。珊瑚の柱、鮑の天井、鯛と平目が袖を引いて笑う。酒は甘く、料理は華やかで、灯りは暖かい。亀はその美しさを、ずっと前から直視しないようにしていた。なぜ美しいのかを、知っているから。
太郎は三日で馴染んだ。
乙姫の隣に座り、杯を重ね、時折はにかんで笑う。その顔を見るたびに亀は目を逸らした。乙姫は微笑んでいた。あの微笑みも、亀はもう慣れていた。慣れていたくなかったが、慣れていた。唇の端だけ動く、感情の乗っていない微笑み。何かを見ているときの目ではなく、何かを確認しているときの目。
太郎の頬が、少しずつ薄くなっていった。
気づいたのは五日目だった。本人は気づいていない。宴に酔い、夢に酔い、非日常に酔っている。ただ亀だけが、その薄さに気づいていた。生気というものが、霞のように薄れていく様子を。見えるわけではない。でも、わかる。長年この場所にいると、わかるようになる。それが亀には、もっとも辛いことのひとつだった。
太郎が帰りたいと言ったとき、乙姫は驚かなかった。
驚かないことに、亀は気づいていた。いつもそうだ。引き留めない。慰めない。ただ微笑んで、箱を取り出す。珊瑚と金細工で飾られた、小さな箱。
「帰ってしまうのですね。では、お土産にこの玉手箱をお持ちください」
声は優しかった。
「でも、この箱は決して開けてはいけませんよ」
亀は床を見た。乙姫の言葉が終わるのを待ちながら、ただ床を見た。玉手箱の意味を、亀は知っていた。
太郎はその意味を知らない。知らないまま、箱を受け取って、笑って礼を言った。亀の背に乗り、また軽い体で海面を滑っていった。
地上の空気は、澄んでいた。
砂浜に下ろされた太郎は、大きく息を吸って、「ああ」と言った。その声に、亀は何も感じないようにした。感じないようにしながら、少しだけ距離を置いた。次に起きることを、近くで見たくなかった。
太郎は箱を持ったまま、しばらく立っていた。
村の方を見た。浜の方を見た。手の中の箱を見た。
開けた。
白い煙が立ち上った。亀は目を閉じた。それでも音は聞こえた。衣擦れ。呻き声ともつかない、短い息。砂を踏む音が、変わっていく。重く、遅く、引きずるように。
「あ……あ……」
亀が目を開けたとき、太郎はもういなかった。老人がいた。腰の曲がった、髪の白い、見知らぬ老人が。それが太郎だと、亀にはわかった。目の形だけが、同じだった。
老人はよたよたと歩き出し、振り返りもせず、砂の上に足跡を刻んで、消えていった。どこへ行くのかを、誰も知らない。知る必要がある者が、誰もいない。
残されたのは、玉手箱だけだった。
砂の上に転がった箱を、亀は拾った。中身はもう空。だが精気に満ちている。亀はその箱を甲羅の下に抱え、海へと戻った。
冷たい水が四肢を包む。深く、深く潜っていくと、光が薄れ、音が消え、世界が静かになる。この静けさだけが、亀にとって休憩に近いものだった。
乙姫は箱を受け取りながら、また微笑んだ。「ご苦労様」と言った。それだけだった。亀は一礼して、踵を返した。
廊下を歩きながら、亀は数えた。
今回で、何人目だったか。数えるのはとうの昔に諦めた。ただ漠然と、多い、という感覚だけがある。乙姫が何千年を生きているのか、亀は知らない。知っているのは、乙姫が生きている限り、玉手箱は作られ続けるということだ。そして誰かが、海岸線を這い続けるということだ。
深海の片隅に、亀だけの場所があった。
珊瑚も鯛も平目もいない。灯りもない。ただ暗い水と、かすかな水流と、遠くから届く竜宮城の喧騒だけがある。亀はそこで甲羅を石に預け、目を閉じた。
はあ、と息が漏れた。
誰にも届かない場所でのため息というのは、存在しなかったのと同じだ、と亀は思った。誰も聞かない。誰も知らない。深海に吸い込まれて、それで終わり。
太郎の目の形を、亀は思い出した。細くなったときの、あの笑い方。声をかけた瞬間の、屈託のなさ。甲羅を撫でた手の、あの温かさ。
思い出して、消した。
そういうものを覚えていると、続けられなくなる。長くこの仕事をしていると、それだけはわかってくる。覚えていてはいけない。感じてはいけない。海岸線を這い、声をかけ、運び、待ち、箱を回収する。それだけでいい。それだけが、亀にできることだった。
もう辞めたい、とは思う。
でも、辞め方を亀は知らなかった。乙姫に辞表を出す方法も、この深海から抜け出す方法も、何千年かぶんの共犯を清算する方法も。
ただ、次の名前を覚えることになるのだろう。次の笑い方を。次の手の温度を。そして次の砂浜に残された、空の箱を。
深海は静かだった。
亀の息だけが、泡になって、暗い水の中を、上へ上へと昇っていった。
少しの間、亀は動かなかった。
それから、甲羅の向きを変えた。深海から浅瀬へ。浅瀬から砂浜へ。砂浜には今日も波が来て、今日も人が来る。
次のカモを、探しに行く時間だった。
「やれやれ」
誰にも聞こえない声でそう言って、亀は光の方へ向かって泳ぎ出した。




