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恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


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おかえりは、僕のためじゃない

 最初は、ただの寝不足だと思っていた。


 講義の内容が頭に入ってこないとか、さっき置いたはずの財布が見つからないとか、その程度なら、二十歳の大学生としては珍しくもない。夜更かしもするし、スマホだって見すぎる。そういう言い訳で片づけられる範囲だった。


 でも、ある日、気づいたら知らない駅のホームに立っていた。


 夕方だった。

 大学の二限が終わったあと、学食でカレーを食べた記憶まではある。トレーを返して、スマホを見ながら階段を下りた。そこまでは確かだ。


 なのに次に意識がつながったとき、俺は見たこともない駅のホームで、缶コーヒーを握っていた。


 発車ベルが鳴っていた。

 風が冷たかった。

 ホームの端に立ちすぎていて、足が少し震えた。


 頭が真っ白になった。


 路線図を見ても、地名に覚えがない。ポケットの中に切符はない。財布の中のレシートを見ると、駅前のドラッグストアで湿布を買っていた。買った覚えなんてない。右手の甲には、薄く擦り傷があった。


 俺はそのまま母に電話した。


『……もしもし?』


 母の声は、ワンコールで出たわりに、妙に遠かった。


「母さん。ごめん、ちょっと変なこと言うけど、俺、今どこにいるかわからない」


 沈黙。

 電話の向こうで、息を呑む音がした。


『えっと……周り、何が見える?』


「駅。知らない駅。いや、知らないっていうか、見覚えがない。俺、今日大学だったよな?」


『そうね』


「そうねって何だよ。俺、おかしいんだけど」


 母はすぐに迎えに行くと言った。

 それまで動かないで、と何度も繰り返した。


 車で来た母は、俺の顔を見るなり、安心したような、泣きそうなような、よくわからない顔をした。


「何その顔」


 冗談っぽく言ったのに、母は笑わなかった。


「……無事でよかった」


 それだけ言って、ハンドルを握る手に力を込めた。


 帰り道、俺は何度も質問した。

 どうしてここにいたのか。どうやって来たのか。何か変じゃないか。病院に行くべきじゃないか。


 母は大丈夫よ、としか言わなかった。

 その大丈夫が、何に対しての大丈夫なのか、最後までわからなかった。


 その夜、部屋のドアを開けた瞬間、足が止まった。


 ぐちゃぐちゃだった。


 机の引き出しが全部引っぱり出されて、教科書もノートも床に散っていた。本棚の漫画は投げられたみたいに開いて転がり、クローゼットの服は半分以上引きずり出されている。ベッドのシーツもめくれ、枕が床に落ちていた。


「……は?」


 泥棒、というより、誰かが必死に何かを探したあとのようだった。


 母がすぐ後ろで息を止めた。


「これ、誰がやったの」


 振り返ると、母は少しだけ目を伏せた。


「あなたじゃない?」


 意味がわからなかった。


「いや、俺いま帰ってきたんだけど」


「昼間……部屋にいたでしょう」


「いなかったよ。大学に行って、それで」


 そこで言葉が止まった。


 大学に行って、そのあと記憶がない。

 母は、俺が昼間ここにいた、と言う。


 どっちが本当なのか、急に自信がなくなった。


「……やめてよ」


 母は弱々しく笑った。

「びっくりしただけ。片づけるの、手伝うね」


 でも、その笑い方は、俺を安心させるためのものじゃなかった。

 何かを見ないふりする人の顔だった。


 それから、記憶は何度も途切れた。


 次に気づいたのは、近所の公園のブランコだった。

 夜の十時。子どもなんて一人もいない。俺は錆びた鎖を握って立っていて、スニーカーの先が砂に埋まっていた。


 また別の日は、大学の図書館の閉架書庫の前にいた。入館記録を見ると、俺は午前中のうちに大学を出ていたらしい。なのに体感では、ついさっきまでゼミ室にいた。


 部屋に置いてある小さなメモ帳には、覚えのない文章が残るようになった。


 ――まだちがう

 ――ここじゃない

 ――赤いくつ

 ――あのひ


 気味が悪かった。

 俺の字に似ていたが、どこか子どもっぽい丸みがあった。


 友人の圭介に相談したとき、あいつも変な顔をした。


「記憶が飛ぶって、どのくらい?」


「数時間。ひどいと半日。気づいたら知らない場所にいる」


「……そうか」


「そうか、じゃねえよ。普通もっと驚くだろ」


 圭介は視線を泳がせたあと、笑おうとした。失敗した。


「病院、行ったほうがいいかもな」


「それは俺も思ってる。でもお前、なんか知ってる?」


「いや」


 否定が早すぎた。


「絶対なんかあるだろ。家族も変だし。お前ら、示し合わせて俺に隠してることない?」


 圭介は黙った。

 喉仏だけが、こくりと上下した。


 その沈黙のほうが答えだった。


 帰宅すると、玄関に父の靴があった。平日なのに、珍しく早い。

 リビングには父と母がいて、テレビもつけず、何かを待っているみたいに座っていた。


 俺が入ると、二人とも同時にこちらを見た。


「話がある」


 父が言った。


 そう言われた瞬間、背中が冷えた。

 ずっと先延ばしにされていた何かが、ようやくこちらへ歩いてくる感じがした。


 テーブルの上に、古いアルバムが置かれた。

 開くと、見覚えのない十歳前後の男の子がいた。海辺ではしゃいで、誕生日ケーキの前で笑って、ランドセルを背負っている。


「……誰」


 そう言った瞬間、母の顔が崩れた。


「あなたよ」


「いや、違うだろ。俺こんな顔じゃ」


 言いかけて、止まる。


 目元だけが似ていた。

 笑うと少しだけ寄る左の頬。

 耳の形。

 写真の中の男の子は、たしかに俺の輪郭の原型を持っていた。


「十歳のとき、事故に遭ったの」


 母が嗚咽をこらえながら言った。


「頭を強く打って……しばらく目も覚まさなくて。目が覚めたあとも、記憶は戻らなかった」


 父が続きを引き取る。


「名前も、家も、私たちのことも、全部わからなくなった。医者には、記憶障害が残る可能性が高いと言われた」


「……待って」


 口の中が妙に乾いた。


「それ、知ってるはずだろ。俺が」


「知っていたのは、事故に遭ったという事実だけだ」


 父の声は妙に静かだった。


「その前の記憶は、君にはなかった。十歳より前の君は、戻らなかった」


 意味がわからなくて、理解したくなくて、でも言葉だけは脳に沈んでいく。


 十歳より前の君。

 戻らなかった。


「何言ってんだよ」


 笑おうとしたが、声が震えた。


「じゃあ今の俺は何なんだよ」


 誰もすぐには答えなかった。


 その沈黙の中で、俺は初めて、本当に恐ろしくなった。


 病気とか、解離とか、脳の異常とか、そういう名前がつくものだと思っていた。原因があって、治療法があって、俺は俺のまま助かるのだと。


 でも今、目の前の二人は、俺の症状を怖がっているんじゃなかった。


 何かが戻ってくることを、待っていた。


「最近、昔のことを少し思い出しはじめたの」


 母が言った。


「病院の先生にも相談していた。こういうことは、ないとは言えないって」


「昔のこと?」


「本来の、あなたの記憶よ」


 本来。


 その言葉が、皮膚の上をゆっくり這った。


「今のあなたが消えるなんて、そんなふうには……」


 母はそう言って口を押さえたが、遅かった。

 もう聞こえてしまった。


 今のあなたが消える。


 俺は椅子を蹴って立ち上がった。

 アルバムが落ちて、ページがばさりと広がる。

 そこには赤い運動靴を履いた小さな俺が写っていた。


 ――赤いくつ


 メモの文字が頭をよぎった。


 その瞬間、視界が揺れた。


 夏だった。

 潮の匂いがした。

 白いガードレール。遠くで鳴るクラクション。母の笑い声。自転車のかごに入った青いバケツ。赤い運動靴。転がるボール。


 そして、強い光。


 頭の奥に、釘を打ち込まれたみたいな痛みが走った。


 気づくと、俺は床に膝をついていた。

 母が名前を呼んでいた。父が肩を支えていた。


 そのとき、ふっと思った。


 ああ。

 俺は、呼ばれていない。


 呼ばれているのは、俺の中に戻ってきている誰かだ。


 その夜から、夢を見るようになった。


 知らないはずの子ども部屋。

 青いカーテン。

 恐竜のシールが貼られた机。

 引き出しの奥にしまったビー玉。

 公園で泣かせてしまった女の子の顔。

 学校帰りに寄った駄菓子屋。

 そして事故の日の、ぎらつく夏の道路。


 目が覚めるたび、俺は少しずつ薄くなる気がした。


 好きだったはずのバンドの曲に、前ほど何も感じない。

 大学で仲のいい連中の顔を見ても、距離が出る。

 圭介と話していても、こいつとどうやって友達になったんだっけ、と一瞬だけ他人行儀になる。

 スマホのロック番号を打つ指が止まる。

 自分の部屋の中でさえ、借り物みたいに感じる。


 代わりに、知らない懐かしさが増えていく。


 古い商店街で胸がざわつく。

 子ども向けのアニメソングで涙が出そうになる。

 母の作る卵焼きの甘さに、ひどく安心する。


 それは、俺の感情じゃない気がした。


 俺は自分の部屋にこもって、ノートに何度も名前を書いた。

 今の俺の名前。生年月日。大学名。友人の名前。好きな食べ物。嫌いな教授。昔行った旅行先。初めて付き合った彼女のこと。恥ずかしい失敗。全部。


 忘れないように。

 奪われないように。

 ここにいたと証明するために。


 でも翌朝、そのノートの半分が破られていた。


 床に散らばった紙を拾うと、裏に別の字が書いてあった。


 ――かえして

 ――おれの

 ――おかあさん


 息が止まった。


 子どもっぽい字だった。

 でも、筆圧は強く、紙が少し破れていた。


 俺は悲鳴を上げた。

 母が飛んできて、ノートを見て、その場で泣き崩れた。


「ごめんなさい」


 母は何度もそう言った。


「ごめんなさい、ごめんなさい」


「何に対して」


 聞いたのに、母は答えなかった。


 数日後、病院に連れて行かれた。

 昔から通っていた神経内科だという。担当医は年配の男で、俺を見る目が妙に慎重だった。


「症状としては、幼少期の記憶の再統合が起きている可能性があります」


「再統合って何ですか」


 医者は少し言葉を選んだ。


「事故の影響で、一度切断された自己認識が、年月を経て再接続されることがあります」


「その結果、今の俺はどうなるんです」


 医者は目を逸らさなかった。

 それが逆に残酷だった。


「変わるでしょう」


「変わるって、消えるのと何が違うんですか」


 答えはなかった。


 帰りの車で、俺は窓の外だけ見ていた。

 街はいつも通りだった。コンビニがあって、学生が笑って、信号が変わって、犬が散歩していた。

 俺だけが、世界の外に押し出されていくみたいだった。


 家に着く直前、母が小さな声で言った。


「本当はね、ずっと怖かったの」


 聞こえないふりをしようと思ったが、できなかった。


「あなたが元気になって、笑って、ちゃんと育ってくれて、それが嬉しかった。でもどこかでずっと、前のあなたを待ってしまってた」


 母はハンドルを握ったまま泣いていた。


「ひどいよね。今ここにいるあなたも、ちゃんと私の子なのに」


 それを聞いても、救われなかった。


 むしろ、はっきりした。


 俺は愛されていた。

 でも、少し違う形で、待たれてもいた。


 俺が俺として積み上げてきた十年は、失われた本物の代用品みたいに、ずっと並べられていたのだ。


 その夜、久しぶりに記憶が途切れた。


 気づくと、俺は子ども部屋だったらしい物置の前に座っていた。

 家を建て替えたときに残された古い段ボールの中身を、床いっぱいに広げていた。


 クレヨン。

 昆虫図鑑。

 壊れたミニカー。

 名前の書かれた水色の上履き。

 そして、赤い運動靴。


 小さかった。


 俺の手には、もう入らない。


 それを見た瞬間、胸の奥で何かが静かに重なった。


 ああ、と思った。

 この子はずっと、暗い底で待っていたんだ。


 何もわからないまま押し込められて。

 母も父も、自分の部屋も、自分の過去も、全部奪われて。

 十年間。


 怖かったのは俺だけじゃなかった。


 気づいたら、涙が落ちていた。


 俺の涙なのか、その子の涙なのか、もう区別がつかなかった。


 翌朝、母が部屋の前で立ち止まっていた。

 俺は赤い靴を抱えたままベッドに座っていた。


「……おはよう」


 俺が言うと、母は口元を押さえた。


「その靴」


「これ、たぶん……大事だったんだろ」


 自分の声なのに、少し高く、柔らかく聞こえた。


 母の目に、ぱっと光が宿った。

 それは恐ろしいほど純粋な喜びだった。


「覚えてるの?」


 その顔を見た瞬間、全部わかった。


 母は嬉しいのだ。

 本当に。

 ずっと待っていたものが、ようやく返ってきたから。


 その喜びに、偽りはなかった。

 だからこそ残酷だった。


 俺は笑おうとした。

 うまくできなかった。


「……少しだけ」


 その言葉が自分の口から出たとき、指先の感覚が遠のいた。

 輪郭が薄くなる。思考が水に溶ける。大学の教室、圭介の笑い方、夜中にコンビニで買ったアイス、初めてキスした日のこと、そういう“俺”の時間が、端から順番に色を失っていく。


 嫌だ、と思った。


 言わなきゃいけない。

 俺はここにいた。

 俺にも人生があった。

 代用品じゃない。

 ちゃんと痛くて、ちゃんと笑って、ちゃんと生きてた。


 でも声にならなかった。


 母が泣きながら俺を抱きしめた。

 その腕の中はあたたかくて、ひどく懐かしかった。


「おかえりなさい」


 その言葉は、俺のためではなかった。


 なのに、少しだけ救われた気もした。

 帰ってきたのが俺じゃなくても、このぬくもりだけは、本物だったから。


 視界の端で、父が目を赤くして笑っていた。


 よかった。

 本当に、よかったな。


 そう思った瞬間、自分がそれを“誰の気持ちで”思ったのか、わからなくなった。


 最後に一つだけ、必死に残そうとして、唇を動かした。


「おれは――」


 その先が、出ない。


 名前を言おうとした。

 今の俺の名前。

 でも、それが急に遠い。


 部屋の壁。

 朝の光。

 母の肩の震え。

 赤い靴。


 いろんなものが見えているのに、誰が見ているのかわからない。


 胸の奥で、小さな足音がした。

 長い廊下の向こうから、ひとりの子どもがこちらへ歩いてくる。

 泣きそうな顔で、でも確かに、自分の家へ帰ってくる足取りで。


 たぶん、もう時間だった。


 だからせめて、消える側の俺が思う。


 どうか。

 どうかこの子が、幸せでありますように。


 そして、もし少しでも残れるなら。

 笑ったときの癖とか、夜更かしの習慣とか、コンビニでついプリンを選ぶくだらない好みでもいい。

 ほんの少しでいいから、この先のどこかに、俺のかけらが混ざっていますように。


 母がもう一度、「おかえり」と言った。


 今度は、その言葉がまっすぐ胸に入ってきた。


 懐かしい家の匂いがした。

 遠くで、夏の海みたいな光が揺れた。


 それから先のことを、俺は知らない。

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