七海と虎太郎
おれは虎太郎。この町で生まれ育った。
寂れた港町だ。古い防波堤、潮で白くなった石段、昼を過ぎると半分くらい閉まってしまう商店街。よそから来たやつには何もない町に見えるかもしれないが、おれは好きだ。朝は魚の匂いで目が覚め、昼は陽の当たる場所を探してのんびりして、夕方になれば漁から帰った連中が港をにぎやかにする。
ふらりと港へ行けば、顔なじみの漁師が声をかけてくる。
「おお、虎太郎。今日もいるのか」
そう言って、売りものにならない小魚やら、頭だけ落としたアジやらを気前よくくれる。おれは遠慮しない。遠慮したら損だ。向こうだって、食うやつがいるならそのほうが気分がいいのだろう。
おれの親父は、おれが小さいころにいなくなったらしい。詳しいことは知らない。顔も覚えていない。そういう話をしても、この町の連中は妙に気まずそうな顔をするだけだから、途中から訊くのをやめた。
まあ、いいのだ。おれにはこの町がある。
漁師のおっさんも、魚屋のばあさんも、商店街の連中も、おれのことをだいたい知っている。おれもだいたい知っている。誰が気前よくて、誰が機嫌が悪くて、どこの店先が昼寝にちょうどよくて、どこの家の奥さんがうるさいかまで把握している。
そんなおれにも、最近ひとつ困りごとができた。
恋である。
相手は春にこの町へ越してきた女の子だった。
坂の上の古い民宿に、祖母さんの手伝いだか何だかで身を寄せているらしい。名前は七海。細くて、白くて、ちょっと警戒心が強い。風の強い日でも姿勢がきれいで、通るだけで目が行く。初めて見たときから、なんだか気になって仕方がなかった。
最初に声をかけたのは市場の裏だ。
おれはいつものようにぶらぶらしていて、七海は一人で裏道を歩いていた。周りに誰もいなかったから、いまだと思った。こういうのは勢いが大事だ。
だからおれは思いきって飛び出した。
すると七海は、びくっとして、すぐさま塀際へ逃げた。
速かった。
驚くほど速かった。
おれはその場で立ち止まった。まあ、最初はそんなものかもしれない。いきなり来られて驚いたのだろう、とそのときは思った。
次の日、おれはちゃんと贈りものを用意した。港でもらった立派ないわしだ。恋というのは気持ちだけでは弱い。形にしないといけない。形というか、食えるもので示すのがいちばん早い。
民宿の前で七海を見つけ、おれは胸を張って近づいた。
「……え、またいる」
七海はそう言って、露骨に顔を引きつらせた。
そのうえ、じりじり後ろへ下がった。
おれはちょっと傷ついた。だが、まだだ。ここで折れる男は二流である。おれは明るくて元気でへこたれない。少なくとも、この町ではそういうことになっている。
だから翌日も行った。
その次の日も行った。
朝は七海の通りそうな道で待った。
昼は防波堤で偶然を装った。
夕方は少し距離を空けて後ろからついていった。
夜は、月がきれいだったので、気持ちを込めて長めに声を響かせてみた。
結果だけ言うと、全敗だった。
朝はおれを見つけた瞬間に道を変えられ、
昼は離れた場所へ逃げられ、
夕方は露骨に嫌な顔をされ、
夜にいたっては民宿の窓が勢いよく閉まった。
港の連中はそれを見て笑う。
「虎太郎、また振られたのか」
「しつこいと嫌われるぞ」
「もっと若い子が喜ぶもんがあるだろ」
「あるか? 魚がいちばんだろ」
「おまえの基準で恋愛を語るな」
好き勝手言いやがる。
だが、笑われるくらいで諦めるほど浅い気持ちではない。おれは本気だった。七海が通る道を覚え、好きそうな静かな場所を探り、怖がらせない距離も一応は考えた。考えたつもりだった。
それでもうまくいかない。
ある日、八百屋の軒先で寝そべっていると、店のおばちゃんが笑いながら言った。
「失恋顔だねえ、虎太郎」
おれは答えなかった。
「でもねえ。自分があげたいものと、相手が受け取れるものは違うんだよ」
おれは片目だけ開けた。
「好かれたくて近づいても、相手にとっちゃ怖いことだってあるからね」
その言葉は、妙に残った。
おれはずっと、好きだということを伝えるのに夢中だった。
でも七海が何を嫌がって、何を怖がっているのかは、ちゃんと見ていなかったのかもしれない。
だから少しやり方を変えた。
待ち伏せをやめた。
追いかけるのもやめた。
夜に気持ちよくなって延々と声を張るのも、まあ、少し控えた。
そのかわり、見えるところにはいるけれど、近づきすぎないようにした。
防波堤の端。
市場の屋根の上。
石段の途中。
民宿の塀の向こう。
七海がいても、無理に距離を詰めない。ただいる。気づかれたら、気づかれるだけでいい。目が合ったら逸らさない。でも、行きすぎない。
最初の数日、七海は相変わらず警戒していた。
けれど、露骨に逃げることは減った。
防波堤で見かけたときも、すぐには立ち去らなかった。
市場の裏でも、前ほどあからさまに身をこわばらせなくなった。
民宿の前で目が合ったときなど、一瞬だけだが、向こうも立ち止まった。
それだけで世界が少し変わった気がした。
焦るな。
ここで浮かれるとだめだ。
おれは自分にそう言い聞かせた。
変化がはっきりしたのは、雨の日だった。
朝から空がどんよりしていて、昼には本降りになった。港は早じまいで、人通りも少ない。濡れた石畳は冷たく、風も強くて、じっとしていると気分まで湿ってくる。
そんな日に、七海は民宿の前で困った顔をしていた。
うろうろして、何かを探している。足もとを見たり、石段の下を見たり、焦っているのが遠目にもわかった。
おれは少し離れたところで様子を見た。
「……ない」
七海が小さくつぶやいた。
「どこいったの……」
そこで初めて、おれは石段の脇に光るものを見つけた。細い金具のついた、小さな鍵だ。雨水の流れのところに引っかかっている。
おれは駆けた。
水たまりを飛び越えて、石段を降り、目的のものをつかむ。躊躇はなかった。こういうときに動けない男はだめだ。普段どれだけ格好つけていても、いざというときに役に立たなければ意味がない。
七海の前まで戻って、それを差し出す。
七海は目を丸くした。
「うそ……」
それから、ゆっくりしゃがみこんだ。
「見つけてくれたの?」
当然だろう、と思った。
ようやくわかったか、とも思った。
だが、いちばん大きかったのは、その距離だ。
七海が逃げていない。
それどころか、自分からこちらへ近づいてきている。
おれはじっとした。
今動いたら台なしになる。勢いで失敗してきた回数は、もう数えたくもない。
七海は少しためらってから、そっと手を伸ばした。
細い指先が、おれの額の少し上で止まる。
おれは息をひそめた。
「……ごめんね、虎太郎」
七海は小さく笑った。
「私、こういうの、ちょっと苦手だったの。小さいころ、すごく追いかけられて。それで、ずっと」
それで全部わかった。
顔でもない。
性格でもない。
いわしの質でもない。
もっと根本のところで、おれは最初から不利だったのだ。
七海の手が、おれの頭をそっと撫でた。
やわらかかった。
あんまりやさしいので、こっちまで力が抜けそうになった。
「でも、虎太郎なら平気かも」
その言葉だけで、おれはたぶん、しばらく何でも頑張れると思った。
雨の匂いの中、七海はもう一度おれの頭を撫でた。
今度はさっきより自然だった。
おれは虎太郎。
この寂れた港町で生まれ育ち、漁師たちに魚をもらい、ひとりの女の子に何度も振られ、それでも懲りずに恋をした。
明るくて、元気で、へこたれない。
そしてその夕方、七海は初めて逃げずに近づいてきて、おれの鼻先に自分の鼻先を寄せた。
民宿の人間たちが七海と呼んでいる、あの塀の上のかわいくて気の強い雌猫が、ようやくおれの恋に返事をくれたのだった。




