世界の中心で絶望を叫ぶ
午前二時四十五分。
遮光カーテンを閉め切った六畳間の中心で、液晶ディスプレイだけが青白い光を放っている。
徹の左手は、マウスを握ったままかすかに小刻みな振動を続けていた。指先が震えているのではない。手首から先、まるで皮膚のすぐ下を別の生き物が這い回っているかのように、肉そのものが痙攣している。
画面には、急角度で落下する真紅のチャート。
一分足のローソク足が、ドク、ドク、と心臓の鼓動に同期して、下へ、さらに下へとドットを刻んでいく。
「上がれ」
声にはならなかった。ただ、乾いた喉の奥で粘り気のある空気が鳴っただけだ。
徹が求めているのは、厳密には「金」ではなかった。
もちろん、最初はそうだったはずだ。昼夜を問わない交代制の工場勤務。油と鉄サビの匂いにまみれ、ただ時間を切り売りして得る月給は、家賃と光熱費、そして最低限の食費で綺麗に消える。誰からも愛されず、誰の肌に触れることもない。ただ「死なないために眠る」だけの日々。
その退屈な円環に穴を開けたのが、スマートフォンの一画面から始まった外国為替証拠金取引――FXだった。
最初に数万円の利益が出たとき、脳の裏側がジリジリと焼けるような熱を感じた。だが、本当に徹の心を捉えたのは、その翌週に味わった「マイナス五万円」の瞬間だった。
口座残高が一瞬で削り取られ、強制ロスカットの警告音が鳴り響いたとき、徹は自分が激しく呼吸していることに気づいた。心臓が肋骨を内側から叩き、全身の毛穴が開く。耳の奥で、ドクドクと血液の流れる音がうるさいほどに響く。
(ああ、オレは、生きている)
工場で機械のレバーを引いているときには決して訪れない、圧倒的な「生の証明」がそこにあった。
それ以来、彼は勝つための勉強をやめた。
テクニカル分析も、経済指標のチェックも、すべては建前に過ぎなくなった。徹が欲したのは、レバッレジを限界まで引き上げ、一秒ごとに数万の金が浮沈するあの「深淵の淵に立つ感覚」そのものだった。利益が出れば全能感に酔いしれ、損失が出れば恐怖で皮膚が総毛立つ。どちらに転んでも、彼は強烈に「存在」を自覚できた。
いつしか徹は、ポジションを持っていない時間は、自分が透明な幽霊にでもなってしまったかのような錯覚を覚えるようになっていた。
時計の針が三時を回る。
ポンド・円の急落は止まらない。徹が仕込んだ「買い」のポジションは、すでに許容損失額の境界線に張り付いている。
「まだだ。ここが底だ」
徹は呟き、マウスを握り直す。
左手の震えは止まらない。むしろ激しさを増している。彼はその震える手を見て、奇妙な法悦感を覚えていた。この震えこそが、自分がただの肉塊ではなく、今まさに世界の中心で命を燃やしている証拠なのだと。
画面の向こうで、数秒の静寂が訪れる。チャートの動きがピタリと止まる。
嵐の前の静けさ。
次の瞬間、信じられないほどの巨額の売り注文が市場を直撃した。
真紅のラインが、垂直に画面の底へ突き抜ける。
ピコン。
電子音が、あまりにも軽分に、部屋の静寂を切り裂いた。
証拠金維持率が規定を下回り、システムによる強制決済――ロスカットが執行された音だった。
画面の右下に表示されていた数字が、瞬時に書き換わる。
「-100,000」
十万円。
今月の夜勤を何回こなせば手に入る金額が、指先ひとつの操作と、わずか数秒の狂気によって、完全に消滅した。
部屋の空気が、急激に冷え切ったように感じられた。
液晶の青白い光が、徹の青白い顔を容赦なく照らし出す。
「……あ」
口から、間の抜けた音が漏れた。
徹は動かない。動けない。ただ、自分の左手を見つめていた。
あんなに激しく、愛おしいほどに脈打っていた左手の震えが、嘘のようにピタリと止まっていた。
そこにあるのは、ただの、血の通っていない土色の肉の塊だった。何も感じない。スリルも、恐怖も、全能感も、すべてが潮が引くように消え去っていく。
後に残されたのは、ただの、空っぽの、つまらない現実だけ。
「嫌だ」
徹の胸の奥から、どす黒い塊がせり上がってきた。
この静寂が怖い。この、何も感じない、死んだような日常に戻ることが、何よりも恐ろしい。十万円を失ったことへの恐怖ではない。自分が再び「幽霊」に戻ってしまうことへの、耐えがたい恐怖。
「震えろよ……」
徹は右腕で左手首を掴み、無理やり揺さぶった。
「震えろ! 感じろよ! 生きてるんだろ、オレは!」
だが、皮膚は冷たく、静止したままだ。
脳裏に、自分がこれまで費やしてきた時間と、失ってきたものがフラッシュバックする。同じことの繰り返しの毎日。愛してくれる人のいない部屋。一人の夜。それらをすべて覆い隠してくれていた「脳内麻薬」の魔法が、完全に切れていた。
「忘れるな……」
徹の声が、次第に低く、狂気を帯びて歪んでいく。
「忘れるなよ、この痛みを……! これがオレの、オレの命の音だろ……!」
彼は液晶画面に顔を擦り付けるようにして、狂ったようにキーボードを叩き始めた。残された最後の、生活費のすべてを、再びあの泥沼へ放り込むために。
「十万なくなった……十万なくなったんだぞ、おい!」
誰もいない暗闇に向かって、徹は喉を掻きむしるような声をあげた。
「おい、見ろよ! 綺麗に消えた! オレの命が十万ぶん、一瞬ではじけ飛んだんだよ! ああ、すごい……すごいよ、これ……!」
涙とよだれが裏返った笑い声と混ざり合い、狭い部屋の壁に跳ね返る。
彼は、自分が泣いているのか、笑っているのかすら分からなくなっていた。ただ、失われた「十万円の痛み」を必死に抱きしめようと、冷え切った左手を自分の胸に強く、強く押し当てていた。
その男の顔には、この世の終わりを告げられたような絶望と、同時に、ようやく本物の「痛み」に触れることができたという、悍ましいほどの悦びが張り付いていた。
*
翌朝、午前七時。
工場へ向かう通勤電車の窓ガラスに映る徹の顔は、やはり完全に半透明だった。
乗客たちの放つ湿った熱気や、吊り革が擦れ合う微かな金属音、スマートフォンの画面をスクロールする無数の親指の動き。そのどれもが、徹の皮膚を素通りしていく。世界と自分の間に、厚いアクリル板が一枚挟まっているかのようだった。
昨夜、あれほど激しく世界を揺さぶった十万円の喪失。その「痛み」の残響すら、朝の灰色の光の中では綺麗に霧散していた。
胸にあるのは、ただ平坦で、底の抜けた退屈だけだ。
「……注文、受けております」
工場のラインに立ち、流れてくる鉄製の部品を機械にセットする。レバーを下ろす。部品を外す。次の部品を置く。レバーを下ろす。
自分の腕が動いている。だが、そこに筋肉の収縮も、骨の重みも感じられない。徹は自分が、あらかじめ決められたプログラムを消化するためだけに動く、ただの錆びついたクランクシャフトになったように思えた。
(オレは、ここにいない)
視界の端で、昨日ロスカットを食らった「ポンド・円」の現在レートが、スマートフォンの通知ランプを通じて脳裏にチラつく。
今すぐあの深淵に戻らなければ、このまま肉体がプラスチックのように風化して、消えてしまうという確信があった。
昼休憩のチャイムが鳴ると同時に、徹は誰とも目を合わせず、便所の個室に駆け込んだ。
狭い空間。アンモニアの匂い。
ズボンのポケットから引き抜いたスマートフォンの画面には、ネット銀行の口座残高が表示されている。
『3,420円』
家賃や光熱費の引き落としを済ませた後の、文字通りの全財産。来月の給料日まであと二週間。これに手を付ければ、翌日からの食費すらなくなる。餓死の二文字が、客観的な事実として脳裏をよぎる。
だが、徹の指先は迷わなかった。
その『3,420円』という数字を見た瞬間、喉の奥がカチリと鳴り、渇いていた脳にじわりと冷たい液体が染み渡るのを感じたからだ。
(これを賭ければ、どうなる?)
破滅。確実な破滅だ。飯が食えなくなる。家を追い出される。
その「最悪のシナリオ」を想像した瞬間、死んでいたはずの徹の指先に、かすかな体温が戻ってきた。
「一発逆転だ」
口の中で、覚えたての呪文を呟く。
「オレはこんなところで終わる人間じゃない。成功者になる。これは、そのためのテストだ」
彼はその日のうちに、スマートフォンのアプリを使って、これまで一度もタップしたことのなかった「少額融資」のボタンを押した。消費者金融の審査など、今の時代、数分の機械処理で終わる。
画面に表示された『枠:500,000円』の数字は、徹にとって「金」ではなく、命を繋ぎ止めるための「劇薬の容量」にしか見えなかった。
その日の夜、徹の部屋は、再びあの青白い液晶の光だけで満たされていた。
調達した五十万円を全額口座に叩き込み、レバレッジを国内の上限まで引き上げる。
画面の中で、ローソク足が生き物のように蠢き始める。
「あ……」
徹は、深く長い呼吸を吐き出した。
左手が、待ってましたと言わんばかりに、ブルブルと心地よい振動を再開する。手首の静脈がドクドクと跳ね、脳の裏側がジリジリと焦げるような熱を取り戻していく。
勝てば、すべてを取り戻して「成功者」になれる。
負ければ、借金まみれの「本当の地獄」が待っている。
勝って脳が弾けるほどの万能感に浸るか、あるいは、全てを失って、昨夜以上の凄絶な絶望で五感を叩き潰されるか。
徹が求めていたのは、もはや「利益」という名のただの紙切れではなかった。彼自身も気づいてはいない。徹は、より強い刺激、より深い致命傷、より確実な「生」の劇薬を求めて、自ら喜んで絶望の階段を駆け下りていた。
画面の向こうのチャートが、大きく跳ねる。
徹は引きつった笑みを浮かべたまま、さらに大きなポジションを市場に叩き込んだ。
「もっとだ。もっと。次こそは絶対に勝てる!」
遮光カーテンを閉め切った六畳間の中心で、徹は叫んだ。
暗闇の中で、彼の狂った瞳だけが、青白く、爛々と輝き続けていた。




